二 賑やかで、幸福で、穏やかな日々 その2
市立中央小学校四年一組の教室で、事件は起きた。
三限目が終わり、休憩時間に入った矢先の事である。
「もらった!」
妙に力の入ったかけ声とともに、津村実花が履いている赤いスカートがめくれ上がったのだ。
猫のキャラクターがプリントされた白いパンツが周囲に露になる。
実花は慌ててスカートを押さえつけた。顔は赤面し、身体がぷるぷると震えている。
聞こえてくるのは男子の歓声と女子の悲鳴だ。
特に男子の歓声と言ったら凄まじいものである。何しろ難攻不落の城塞と名付けられた実花のスカートがめくれ上がったのだ。男子は次から次へと拍手をし、勝者を惜しみなく讃えた。
対して女子は、口々にブーイング。スカートめくりは、四年一組の教室において多発しており、由々しき問題となっているのである。
スカートをめくった犯人である木下雄二郎は、勝ち誇った顔で手を挙げ、歓声に応えている。雄二郎は男子たちにとっての英雄となったのだ。
しかし次の瞬間、雄二郎の顔からは血の気が失せて、身体が硬着していた。
その尋常ではない様子のせいで、周囲は一転して静かになる。
雄二郎の怯えた視線の先に、原因はあった。
教室にいる誰もが、雄二郎の目線を追っていた。
実花が、そこにいる。
雄二郎は実花の顔を見て、金縛りになったのだ。
教室の中で冷気が漂っている。冷気の発生元は実花だ。それ以外にありえない。
ゆっくりとした足取りで、実花は雄二郎に近づいていく。
誰かが生唾を飲んだ。
雄二郎の目前で、実花は立ち止まった。
そこからは、電光石火の如く。
実花はローキックを放った。雄二郎のすねに直撃。酷く鈍い音と言葉にならぬ悲鳴が上がる。
続いて実花のミドルキックが雄二郎の腹に突き刺さった。
「ぐふっ」
呻き声を発した雄二郎の目が白黒する。体勢が崩れ、前のめりになる。
実花はその瞬間を逃さない。
赤いスカートを翻してのハイキックが、雄二郎のこめかみに炸裂した。
雄二郎の身体が二メートルほど飛んで、それから床に衝突し、机や椅子を巻き込みながら二度、三度と転がった。
「……いてえ……いてえよお……」
雄二郎は苦しみ、悶え、涙を流し、身体を丸めている。
今度は、女子が歓声を上げる番だった。
実花はしかし、雄二郎と違って歓声には応えない。まるで塵芥でも見るような目で、雄二郎を見下している。
こいつは違う。こいつじゃ駄目だ。
そして、実花は気がつくのである。
お兄ちゃんじゃなきゃ、駄目だ。
あの後、実花は担任に怒られてしまった。もっとも、同時に男子による女子スカートめくり問題が表面化し、解決へと向かったのは良い事だった。
しかし、自分を見る男子の視線に変化があるように実花には思えた。
端的に言えば、怖がっている。そう感じる。
けれど実花にとってそれは何の問題もないことだった。同級生の男子に興味は湧かないのだ。
友達との仲は相変わらず良好で、他愛ないおしゃべりは楽しかった。それだけで、学校に行く価値があると言うものだ。これで授業がなければ完璧だった。
けれどそんな実花にも、ほんの少しだけ変化があった。早く学校終わらないかなあ、と実花は思うようになったのだ。
もっとも、その気持ちが何処から来ているのかは、実花には分からないことだったが。
やがて授業が終わると、実花は教科書やノートをランドセルの中に突っ込んでいく。
「ねーねー、実花ちゃん。放課後一緒に遊ぼー」
同級生が声をかけてくれたが、実花は頭を下げた。
「ごめんね。ちょっと用事があるの」
「そっかー。残念ー」
実花はランドセルを背負い、「また明日」とクラスメイトたちに言うと、急ぎ足で家に向かった。
どうしてこんなにも急いでいるのだろう。本当は用事なんてないのに。
疑問が浮かぶけれども、答えを考えようとは思わなかった。考えてはいけないような気がした。
だけど今胸を焦がしているこの気持ちをどうにかして抑えたかった。そしてその方法を実花は知っている。
「たっだいまー!」
家に辿り着くと、靴を脱ぎ捨てて、一直線に階段を駆け上がる。実花と稔の部屋は二階にあり、隣り合わせになっている。
実花は自分の部屋のドアを開けてランドセルを適当に放り投げると、すぐさま稔の部屋の中に入った。
「あ」
けれど、稔の姿はなかった。
当たり前と言えば当たり前の事だ。稔がいつも帰宅する時間はまだ先であるというだけ。もちろん実花は分かっていた。しかし胸を焦がす気持ちが、その当然のことを忘れさせたのだ。
「ばか」
誰ともなく呟いて、気落ちした実花はふらふらと歩く。稔の部屋の真ん中には白い布団が敷かれたままになっていた。
ぽすん。
実花は倒れるように布団の上に寝転んだ。柔らかな感触と、稔の匂い。何だか心地よくて、落ち着く。
早く帰ってこい。
そう願いながら、実花は目をつぶっていた。意識が、微睡みの中に溶け込んでいった。
それから時間が経った。
実花は顔を軽く叩かれている感触に気がついて、重たい瞼をゆっくりと開く。
「おい」
と、怒っているような声が実花の耳の中で響いた。実花の視界一杯に稔の顔がある。
ドキッとした。
「起きろ」
「お兄ちゃん? 何で?」
ここにいるの? と疑問をこぼす実花に稔は答える。
「あほ。ここは俺の部屋で、お前は俺の布団で寝てる。分かったか?」
実花はゆったりとした動作で身体を起こした。同時に思い出していた。急いで帰ったけれどお兄ちゃんはいなくて、仕方なく布団の上に寝転んだら気持ちよくなってきて、それから寝ちゃったのだと。
実花は勢いよく立ち上がった。稔はぎょっとした。
「そうだっ! お兄ちゃん! 遅い!」
「は、はあ?」
思わぬ反応に困惑した稔は、布団の脇に置かれた目覚まし時計で時刻を確認した。
「いや、いつも通りの時間だが?」
「と、に、か、く! 遅いの!」
「す、すまん」
実花の凄まじい迫力に、稔はついつい謝ってしまう。しかしそれでも気を取り直して、
「そ、それで、いったいどうしたんだ? 何か約束でもしたか?」
と、尋ねた。もちろん身に覚えなどない。
「それは……! して、ないけど」
途端、実花の勢いが収まった。事実、ここからどうすればいいのか実花にはよく分からなかった。
理由。とにかく理由が必要だ。
実花は慌てて考えるものの、何も思い浮かばない。
稔は困ったように頬をかいている。不審がられているのは明白だった。
しかし実際、どうすれば良いと言うのか。
頼むのは間違っているし、いきなり事をするのは気違いだ。適当に誤摩化して部屋に戻っても、実花自身の欲求が解決されなければ意味がない。
悶々とした思考が、実花を追い込んでいく。
稔を見上げていた顔は、次第に床へ視線を落としていた。
「大丈夫か?」
と、稔は聞いた。
「う、う、う……」
実花は呻くように言って、顔をトマトみたいに真っ赤にさせた。目が潤んでいる。今にも泣いてしまいそうだ。それでも気丈にも、顔をキっと上げて、
「ばか!!」
と、叫んだ。そして結局問答無用とばかりに稔のすねをいきなり蹴った。
「いってー!」
あまりの激痛に足を抱え込んだ稔に、実花は足払いをかける。
「うわっ」
驚くほど簡単に、稔は転んだ。
実花はそんな稔を、何度も何度も踏みつける。
「や、やめ」
稔は静止させようと声を出すが、実花は止めなかった。
そして止めとばかりに、実花は思い切り稔の腹を蹴飛ばす。
「ぐえっ」
苦痛に身悶える稔の姿。腹を抱えて身体を丸め込んでいる格好は、ダンゴムシに似ている。
ぞくりとした。
実花は慌てるようにドアを開けて飛び出し、そのまま自分の部屋へと駆け込んだ。ベッドの上に飛び込んだ実花は、枕を力一杯に抱きしめる。
心臓がばくばく鳴っていた。顔が熱くて呼吸が荒い。興奮しているのが自分でも分かる。
やっぱり、やっぱり、お兄ちゃんしか駄目だ。駄目なんだ。
この気持ちよさは、お兄ちゃんでしか味わえない!
何だったんだ、あいつ。
ようやく痛みが引いて、上半身を起こした稔は、実花の部屋がある壁を見つめた。
とにかくさっきのあいつは変だった。兄として非常に心配である。いつでもどこでも暴力を振るうような奴ではあるが、一応の理由があっての行為だった。しかし今回のそれは違う。理由がまるでないように思えて仕方がなかった。もしかしたら何かしらの悩みがあるのかもしれない。
ここは話を聞いてみようか、と思案していた稔を邪魔するかのように、スマートフォンが不意に鳴った。西尾雫からのメールである。
『早く来い』
それだけしか書かれていない。およそ女の子らしくない簡潔な文面だった。
ただ問題なのは、買い物に行くという約束を交わしていたことである。その事を踏まえてメールをもう一度読んでみれば、恐ろしいほどの殺気が、この一文に込められているように感じられた。
殺される。
ぞっとする思いで着替えを始めた。どういうわけか、絶対に私服で来るように、ときつく言われていたからだった。だからさらに遅れる事を承知で着替えなければならなかった。そうしなければ、稔は、言語を絶する壮絶極まりない暴力を雫から受けるに決まっていた。
ともかくあっという間に着替えた稔は、どたどたと足音を立てて家から飛び出る。
案の定雫は、すでにばっちり着替えを終わらせた状態で家の前で待っていて、目で殺せるんじゃないかと思えるほど稔を睨みつけてきた。
「す、すまん。ちょっと、妹が」
「妹が、何よ?」
「う」
当然の返しに、稔は言葉を詰まらせた。どう説明すれば良いのかよく分からなかったのだ。
実花からいわれのない暴力を食らって、しばらく寝込んでいた。正直にそう説明すればいいのか。だがそれは、男として、兄として情けなさ過ぎるのではないか。稔にだってプライドはある。威信があるのだ。
もっともそんなものは、雫とってはないに等しかったりするのだが。
「ま、いいわ。どーせ稔が何かしたんでしょう」
何もしていないから問題なのだが、しかし何を言ってもどうせ稔が悪くなる。それを理解しているから、稔は何も言明しないのだ。
それから、私服姿の雫は、何やらくねっと身体を捻ったり背中を見せたりし始めて、
「どうかな?」
などと聞いた。奇妙な事に顔が赤らんでいるようだ。
それにしても何がどうなのか分からない。主語を付けろと稔は思う。だから聞く事にした。
「どうって、何が?」
だが言った瞬間に、稔は後悔した。雫の額に怒りの四つ角が見えた気がしたのだ。そして殺気が雫の全身から湧き出ている。
稔は怯んだ。なぜ、分からなかった事を聞いたのが、怒りの琴線に触れたのか。まるで理解できない。
「はあああああ」
マリワナ海溝よりも深いため息を、雫は吐いた。深い諦めの念が、そこから感じる事が出来る。
「ま、稔に期待したのが悪かったわよ。早く行きましょう」
疑問符を浮かべている稔を急き立てながら、雫は嬉しそうに歩き始めるのだった。
「……」
実花は自分の部屋の窓から、稔と雫が二人連れ立って歩いていくのを見つめていた。
いったい、どこに行くんだろうか。気になって仕方がない。何だか自分だけが置いていかれたような心持ちになって、実花は物寂しく思う。
「ばか」
独り言を呟いて、ベッドの上に身体を投げ出す。四肢を広げて天井の木目を目で追った。
お兄ちゃんをいじめてやりたいという不可解な欲求が、再び鎌首をもたげている。
けれどそのお兄ちゃんが今はいなくて、実花は欲求をごまかそうとして本棚に向けて手を伸ばす。
無造作に手に取った漫画を広げてみる。恋愛が主題の何処にでもある少女漫画シリーズの一冊。
読んでみるも、内容が頭の中に入ってこない。
「ばか」
もう一度呟いてみる。だけどそれで気が済むはずもないし、何かが変わる訳でもなく、お兄ちゃんが帰ってくるわけでもないのだった。
実花は漫画を読み進めた。それが意味のない行為だと知りながら。
稔と雫は青嵐駅に着いた。
稔たちの家から最も近いこの駅は、町で一番大きなビルと一体になっている。いわゆる駅ビルというやつだ。中には様々なテナントが入っており、ファッションや食料品など、大抵の買い物はここで済ませる事が出来るのだ。
「で、一体何を買うんだよ」
中に入ったタイミングで、稔は聞いた。
けれど雫は、稔の問いに答えずに、エスカレーターに向かってずんずんと歩いていく。呆れた様子で稔は後を追う。
上昇していくエスカレーターに二人は乗って、雫はようやく口を開いた。
「今度、お母さんの誕生日があるのよ」
ようやく稔は合点がいった。
「ああ、なるほど。けど、それならもっと早く言ってくれれば良いのに」
「いいじゃない、別に。それに内緒にしておいた方が、興味が湧くでしょ」
「そもそも何を言っても強引に連れ出すだろ、お前。それに、そういうことなら、一も二もなく一緒に行くさ。良枝さんにはお世話になってるし。でも、俺だけで良かったのか? 実花も連れてきた方が良かったんじゃないのか?」
「いいじゃない、別に」
そう言って雫はそっぽを向いた。どうやら怒らせてしまったようである。もちろん稔には理由が分からない。
しばらく会話もなく、ぼーとしていると、エスカレーターが上の階に着いた。
「こっちよ」
エスカレーターを降りた雫は、またも迷いなく前を歩いていく。稔が慌てて追った先は、ハンカチが整然と並べられたブースであった。
「この前、お母さんが新しいハンカチが欲しいなってぼやいていたのを、私聞いたんだ」
と、雫は言った。
これは派手すぎるだの、地味すぎるだの、あーだこーだと言い合いながらハンカチを物色すること一時間。雫がようやく決めた一枚は、結局最初に手にとったものであった。
「今度の日曜日がちょうど誕生日だから、その時に渡そうと思ってるんだ」
だから稔も何か誕生日プレゼント買ったら? そう雫は提案した。
確かに良いアイデアだと、稔は考える。ちょうど今来ている所だし、ついでにもう買ってしまうのは悪い手ではない。
けれど、稔の脳裏に実花の顔が去来する。
「いやせっかくだけど、今日は止めとくよ。土曜日にでも、実花と買いに行く事にするさ」
「どうして?」
「あいつも小遣い少ないからね。だから共同で買おうと思ってさ」
「あ、そうね。それが良いと思う。それなら、今日はどうする? もう帰る?」
「そうだな。せっかく来たんだし、もう少し見て行くか。色々良枝さんの好みとか聞かせてくれよ。参考にするから」
「分かった」
やけに嬉しそうに、雫は了解した。
それから、あれだこれだと言いながら良さそうな品物を見て回って行くと、時間はあっという間に経ってしまっていた。
外に出てみればもうすでに日が暮れていたし、スマートフォンを見てみれば、実花から何通もメールが届いていた。
文面を見る間でもなく、怒っているのは明白だった。
稔はどう返せば良いのやらと、思案にくれて頬を掻く。
「実花ちゃんから?」
稔の困り顔を見た雫は、心配そうに尋ねた。
「ああ」
稔は余裕がないのか、一言だけで返す。恐らく返事の仕方によって、帰宅後に食らうであろう暴力の程度が決まるのだ。
「きっと、大丈夫だよ」
しかし雫は、無責任な事を言う。
「はあ?」
稔は思わず、声を荒げた。
「……あの子、心配なのよ。稔の事が。だから、何でも良いからすぐに返事をしてあげてよ。それできっと大丈夫だから」
不審な視線を送る稔に対して、雫は自信満々だ。
全く、あいつのことを分かってないな、と稔は思う。
けれど一方で、早く返す事が大事な事も分かっていた。遅くなればなるほど、実花の怒りメーターが跳ね上がっていくだろうことは、安易に想像できる。
稔はメールを打ち込んで、神にでも縋りたい気持ちで送信。内容は、『スマン。今から帰る』である。色々考えてはみたけれど、結局何も思い浮かばなかったのだ。
家への帰り道を辿りながら、稔はメールを待った。けれども、返信はなかなか来ない。それでもあまりにも気になって、稔はちらちらとスマートフォンの画面を見てしまうのだった。
「まだ、来ないの?」
と、雫もさすがに気になってきて、思わず聞いた。稔は首を振って否定する。
「うーん」雫は考える素振りを見せてから言う。「でも、きっと大丈夫だよ。怒る振りはしても、本気では怒らないわ」
けれど、稔が思い出すのは、実花が振るう数々の暴力だ。それを雫は知らないのだ。あの暴力の痛みを、苦しみを。
しかし、それも仕方のない事だと言えた。
何しろ実花は猫を被る癖がある。小さな頃から付き合いのある雫はまだマシであるが、あの過剰な暴力は、他人がいる前では決して振るわない。せいぜい戯れ付き程度のパンチであり、キックであった。
「はあ」
家に帰ってから行われるであろう暴力について、稔はとても気が重たかった。
それでも家に向かって歩いて行けば、どれだけ遅く進んでもいつか必ず着いてしまう。それが残酷な自然の摂理だ。
「じゃあ、また明日」
雫は稔の内心を知って知らずか、とても良い笑顔で手を振って、自分の家の中に入って行った。
自宅の玄関の前に立った稔は、扉を開くのを躊躇する。
ぐう、と腹の虫が鳴った。晩ご飯は家の中で待っているだろう。だが、飯にありつく前に行われる一騒動を思うと、一歩が前に出ない。
それでも、餓死してしまうよりはマシだと自分に言い聞かせて、稔は扉を開いた。
「ただい」
しかし、稔の小さな一声は、それよりも倍以上はある音声にかき消されてしまった。
「遅い!」
顔を上げてみれば、平たい胸の前で腕を組んだ実花が仁王立ちをしているではないか。
「す、スマン。ちょっと、忙しくてさ」
「へー、忙しい? そうか、そうなんだ。お兄ちゃんは雫さんとイチャイチャするの忙しかったんだ」
見てやがったな、こいつ。稔は心の中で毒吐いた。
「そんなんじゃない。ただ雫の買い物に付き合ってたんだよ」
「へー。ところでお兄ちゃん、それって他にも友達がいたの?」
「いや、雫以外に誰もいなかった」
「ふ、ふーん」実花は何やら顔を引きつらせて言う。「それってさ。普通、デートって言わない?」
「何を勘違いしているのか知らないが、デートじゃないぞ。断じて違う」
「ま、まあ、いいわ。お兄ちゃんと雫さんの仲だし? まあ、仕方ないのかなあって思わなくもないけど……なんで、メール無視するの?」
「いや、ほら、ちゃんと返したじゃないか」
「私、結構前から送ってたよ。何通も。いくら雫さんとのデートじゃない買い物が楽しかったと言っても、あんなに無視するのはどうかと思うわけ。たとえ、デート、じゃなくても」
実花は、やたらとデートという単語を強調する。
「いや、それはだな、たまたま、そうたまたまなんだ」
「問答無用!」
実花はジャンプしてキックした。それは吸い込まれるように稔の鳩尾に直撃する。
「うごぅ」
悶絶する稔は、思わず膝をついて胸を抑えた。呼吸が上手くできなくて苦しい。
そこにすかさず、実花は蹴る。蹴る。蹴る。何度も何度も執拗に。
実花の表情が恍惚としているが、稔は見ている余裕がなくて気づかない。
蹴りの乱打に耐え、腕で頭部を守る稔は、気力を振り絞って叫ぶように言う。
「よ、良枝さんの誕生日プレゼントを買うからって、雫の買い物に付き合ったんだ。それで色々選ぶのに夢中になって、気づけなかったんだよ。本当にスマン」
ピタっ、と実花の猛攻が止んだ。そしてきょとんとした顔を稔に向ける。
「良枝さんの?」
「そう! そうなんだよ。それでさ、実花。今度の土曜日は、一緒に良枝さんの誕生日プレゼントを買いに行かないか?」
「どうして? お兄ちゃんは今日買ったんじゃないの?」
「買ったのは雫だけで、俺はまだ買ってないんだよ。そこで提案なんだが、二人で予算を出し合って何か買おうと思うんだ。そうすればさ、一人で買うのよりもずっと良い物を買えるだろ?」
「一緒。お兄ちゃんと、一緒。……そ、それってさ、雫さんも来るの?」
「いや。来ない。あいつはもう買っているからな。それに好みについて今日は色々聞いておいたんだ。だから、遅れてしまったんだ」
「な、なんだ。そうか。じゃ、じゃあ、仕方ないかな。うん。蹴るのを止めたげる」
その一言に、稔はほっと胸を撫で下ろした。どうやら上手くかわす事が出来たようである。もう十二分に蹴られてしまった気もするが、実際の所これでもマシな方なのが悲しい所だ。
何やら実花はとても機嫌が良かったけれど、稔にはその原因がよく分からないのであった。
それから日々はいつものように過ぎ去って、土曜日がやってきたのである。
「どこで買うの?」
実花は玄関で靴を履きながら、外で待っている稔に尋ねた。
「駅ビルだよ」
「やっぱり。定番だよね」
「じゃ、行くか」
稔は、実花が準備を終えるのを見計らってから言った。
「うん」
実花は嬉しそうに頷いて、軽い足取りで駆けてゆく。
稔はそんな実花を、後ろから眺めていた。
悩みがあるのか。そう言う質問をいつしようかと、稔はここ数日悩んでいる。それでも今までしなかったのは、実花が本当に楽しそうにしていたから、ついつい疑問が霧散していたからだった。
だけれども、今日こそは、どこかのタイミングで聞き出そうと決めている。幸いな事に今日は両親が出かけており、稔は二人分の昼食代を貰っていた。だからきっと、昼ご飯を食べている時に聞き出すのがもしかしたら最良なのかもしれない。少なくとも、稔はそう考えている。
けれども、楽しそうに笑いながら歩いて行く実花を見ていると、本当に悩みがあるのか自信が持てなくなってくる。早とちりをしているんだろうか。そうであれば、もちろん良いけれど。
もちろん妹の事なのだから、家族である自分はよく分かっているはずだ。しかし、どうにも自信を持てなかった。
「ねーお兄ちゃん。良枝さんって何が好きなの?」
先行していた実花は、突如振り返って聞いてきた。
辛気臭い顔を浮かべていた稔は、慌てて表情を笑顔に変えて、実花の質問に答えてやる。
「へーそっか。なるほど」
もっともらしく頷いた実花を見て、稔は安堵した。どうやらばれていないようだった。
「じゃあさ、じゃあさ」
実花はいつもよりもテンションが高いようである。どうやら買い物を楽しみにしているようだった。だから、少なくとも今は、そんな実花の気分に水をさすわけにはいかない。稔は、一旦実花の悩みについて考える事を止めた。楽しく買い物が出来なければ意味がなかった。
駅ビルに着いた。休日のせいか人で溢れている。
「はぐれるなよ」
と、稔は言った。
「ならないわよ。それよりもお兄ちゃんこそ迷子にならないでよ」
実花はフグみたいに頬を膨らませて、憎まれ口を叩く。
とりあえず、一階から順繰りに見て行くことにした。
食料品売り場で試食を繰り返し、高級ブランドの店で値段に驚き、アパレルショップで実花が気になった服に着替えては稔に見せて、本屋さんで漫画の新刊をチェックする。
「なあ、実花さんや」食い入るように猫のぬいぐるみを眺めている実花に対して、稔は指摘する。「目的が逸れてると思いませんか?」
「はっ!?」
実花は驚愕の眼差しで稔を見た。まさしく、今気づいた的な表情だ。
稔はそんな妹を気にする様子もなく、スマートフォンで時刻を確認する。午前十一時三十分。腹は空いている。
「じゃあ、昼飯にするか」
と、稔は提案した。実際の所、プレゼントを探していない事にずっと前から気がついていた。だけどしなかったのは、実花が本当に楽しそうだったからだ。
「え? でも、まだ良枝さんのプレゼント、買ってない」
一方、実花は、稔の思惑に気づいた様子はない。むしろ、プレゼントそっちのけにして自分が楽しみすぎたことに、罪悪感を感じているほどだった。だから実花は、稔の提案に困惑していた。てっきり怒られると思っていた。
「そんなの、ご飯食べてからでも遅くはないさ。それにピーク前に店に入った方が空いているしな。それとも、まだお腹空いていないのか?」
稔の言に、実花は自分の状態を確認する。お腹は、空いていた。
「ううん。お腹空いた」
「じゃあ、お昼にしよう。何か食べたい物はあるか?」
「……それなら、ハンバーグがいい」
実花のリクエストに、稔は安心する。近くにない物をいわれたら、困る所だった。しかしハンバーグなら、駅ビル最上階にある飲食街に格安の専門店がある。それに予算内に収める事も出来そうだ。
「なら、上にある“とびっくりバーグ”に行こう」
「うん!」
とても元気よく、実花は頷いた。
早速エレベーターで上に上がって、目当ての店に入る。
店内にいる客はまばらだ。ピーク時には行列ができる事を思えば、目論見通りと言えるだろう。
稔は、ライスとコーンスープとサラダがついてくるハンバーグセットのLサイズ、実花は同じセットのSサイズを店員に頼んだ。雑談をしながら時間を潰していると、程なくして頼んだ品が運ばれてきた。
鉄板の上に乗っている熱々のハンバーグに、店員が一言断ってからデミグラスソースをかける。
じゅわぁっ。
小気味よい音と共に、湯気が一挙に立ち上った。肉が焼けた匂いが立ちこめて、二人の鼻孔をくすぐる。空になっている胃が、目の前の物を早く食わせろと主張して、口内で多量の唾液が分泌された。
ごくり。
稔と実花は、同時に喉を鳴らす。もう辛抱たまらない。
「ごゆっくり」
店員はスマイルを浮かべてそう言うと、静かに立ち去って行く。けれど二人は店員の事など一切見ていなかった。目前に置かれた肉の塊を注視するのみだ。
「いだだきます」
稔が言った。
「いただきます」
実花も言った。
二人は一斉に箸を手に取ると、早速ハンバーグを一口大に切り取って、口の中に運んだ。ひき肉の塊を噛むと、中から熱い肉汁が染み出てくる。舌が喜んでいるのが分かった。
「おいしい」
実花は蕩けるような笑顔を浮かべて言った。
「ああ、うまいな」
続いて稔は感心するように言った。
箸が止まらない。淀みなく動く。
そして、稔の鉄板から半分ほどのハンバーグが胃の中へ落ちた頃だ。
「なあ、何か、悩みがあるんじゃないのか」
と、稔はまっすぐに実花を見て、尋ねた。
実花ははっと面を上げて、稔を見る。まるで稔の意図を計ろうとしているかのような眼差し。
「悩み……?」
「だってさ、いつもはわけもなく暴力を振るうわけじゃないんだろ? なのに、この前は大した理由もなくやってきたじゃないか。何かあったんじゃないかって、思ってさ」
実花は押し黙って、視線をテーブルの上に落とした。考え込んでいる様子であった。
稔はコーンスープを啜る。暖かな液体が喉を通って、胃の中へと注ぎ込まれる。気分が落ち着く味だった。
「言いたくないんなら、いいんだよ」
そう稔が優しい声で言うと、
「ばか」
と、実花は返した。
「は?」
さすがに稔は困惑を隠しきれない。心配しているのに、どうしてばかと言われなきゃならないのか。
「……自覚ないだなんて、ほんとばかだよね、お兄ちゃんってさ。どうして殴られなきゃいけないかなんて、そんなのお兄ちゃんが悪かったからに決まってるよ」
「だったら、その理由を教えてくれよ。俺の何処が悪かったんだよ」
「……ふ、ふん。教えないもん。そんなの自分で気がつかないと意味ないもん」
稔は実花の瞳を見た。けれど妹の目は、兄の視線から逃げるようにあちこちに泳ぐ。
何か隠しているに違いないと、稔は直感した。しかし実花は一向に話そうとしない。
お年頃とかいう奴だろうか。ともかく稔は追求する事を止めた。
「なんだよそれ」
稔はそんな風に悪態をついて、ハンバーグにぱくついた。
良かった。何とか誤摩化す事が出来た。
実花は安堵の息を出しそうになったが、どうにか堪える。
さすがに、お兄ちゃんを殴ったり蹴ったりするのが気持ちいいなんてこと、言える訳がない。
実花は稔と目線を合わせないよう心がけながら、箸を進める。ハンバーグのおいしい味が、どこかに吹き飛んでしまっていた。
やがて食べ終わると、ようやく良枝さんのプレゼントを探し始める。
とは言え、稔が事前にリサーチをしてくれていたおかげで、思いのほかすんなりと決まった。
実花は大して意見を言わなかった。それは別に意見がなかったと言うわけではない。少なくとも、朝の時点では色々と言うつもりであったのだ。そしてそれを楽しみにしてさえいた。
しかし、昼食時のやりとりのおかげで、実花はそれどころではなくなってしまったのだった。
もう、プレゼントのことを気にしてはいられなかった。
切り替えなくちゃ、怪しまれる。
選んでいる最中、そう自分に言い聞かせてもいた。だけどできなかったから、無理にはしゃいで見せたり、わざと稔の意見を否定したりした。
少しばかり、わざとらしかったかもしれないと実花は思う。けれど以前行った行為の意味を、稔には知られたくなかった。
演技を続けながら、実花は稔を観察していた。気づかれてはいない、と思う。すくなくとも、兄の行動は、いつもと変わらないようだった。
そうして無事にプレゼントを購入して、二人は帰路についた。途中にはゲームセンターがある。
「実花、ちょっと寄って行こうか」
と、稔は提案した。実花には断る理由がない。だから、「うん」と頷いた。
店内は騒がしい。あちこちでゲーム機の音や、歓声が聞こえてくる。普段あまり来ない実花でも、何だかワクワクしてくるのは、この場が持っている独特の空気のせいだろう。
きょろきょろと見回しながら歩いて行くと、UFOキャッチャーのコーナーに突き当たった。その中の一つに、猫のぬいぐるみが景品になっているものがある。
興味をそそられた実花は、思わず足を止めて見入ってしまった。
可愛い。
心底そう思う。とても欲しかった。けれども、小学生にとって財政難と言うのは、ほとんど常に付きまとう難題だ。それにUFOキャッチャーは自信がない。
「実花は本当に猫が好きなんだなあ」
傍らに立った稔が言った。
「うん。好き」
「分かるよ。部屋も猫のぬいぐるみばかりだもんな。俺も好きだし、飼ってみたいけど、親父が猫アレルギーだからなあ。残念だ」
一度だけ、実花は捨て猫を拾って家に連れて行った事がある。「私が面倒見るから飼って」と、駄々をこねてみせた。困り顔をした母、景子は「ごめんね。私も好きなんだけど……お父さんが」
と、とても名残惜しそうに猫を見つめながら首を振ったのだった。
あの時の景子の顔を、実花は決して忘れないと思う。そして、いつかきっと猫を飼ってみせると堅く心に決めたのであった。
ちなみに、その後、猫は無事に新しい引取先を見つけることができた。
それからだろう。なけなしの小遣いを使って、実花が猫グッズを集めるようになったのは。
景品の愛らしい猫のぬいぐるみを見つめながら、昔を思い出していた実花は、財布を開けて中身を見つめる。百円玉が一枚だけ入っていた。
UFOキャッチャーの値段は、一回百円。
実花が大いに悩んでいた、その時だった。
すぐ横で、小銭を入れた音が聞こえてきたのだ。稔である。
手元のスイッチは三つある。一つは左へ進むスイッチ。二つ目は奥へ向かうスイッチ。三つ目は開くタイミングを操作するスイッチ。
目標を定めた稔は操作を開始させる。ゆっくりと移動して行くクレーンは、ちょうどぬいぐるみの上で停止して、緩やかに下へと降りて行く。スイッチのタイミングはとても良く、アームはあっさりとぬいぐるみの頭部を掴んだ。
やった。実花は心の中で叫んで、クレーンの行方を注視した。
期待を背負ったアームは上へ持ち上げようと動き始める。しかし、抱き上げた猫があっさりと逃げて行くようにように、がっちりと掴んだと思ったぬいぐるみがするりと落ちてしまった。
「あ、あ~~」あからさまにがっかりした声を実花はあげて、「な、なによこれ。弱すぎじゃない」
と、怒りを露にして言った。
稔もショックだったようだ。けれどすぐに取り直したようで、財布を取り出した。
そんな様子を、実花は見ていた。
稔は口元をへの字に曲げ、眉間にしわを寄せている。今まで見た事のない表情に、実花はどきりとした。
財布の中に入っているのは、五百円玉が一枚と数枚の十円玉と一円玉だけだ。一番大きな硬貨を摘んだ稔は、一切の迷いも見せずに機械の中へと投入した。
五百円を入れれば、一回分が無料になる。つまり六回分できるようになるのだ。
稔は再びクレーンを操作。ぬいぐるみの群れの中へとクレーンは雄々しく進軍する。だがアームは、何一つとして掴む事なく戻ってきたのだった。
三回目。見事に掴み、運んだが、無情にも道半ばで落下。
四回目。ぬいぐるみの胴体を掴む事に成功するも、上昇中に逃亡。
五回目。何も捕まえることができなかった。
六回目。がっちりと掴んだと思われたぬいぐるみは、しかし非常におしいことに、あと一歩と言う所で落ちて、穴の縁で踏みとどまった。
落胆の声を、二人はあげた。
もう、だめだ。このゲームはあまりにも卑怯すぎる。もはや取らせる気があるようには思えない。
ふと稔を見れば、なにやらぶつぶつ呟いている。
ああ、ついにお兄ちゃんがおかしくなってしまった。きっとあの五百円は全財産だったのだ。最後の一回は、私がやろう。そして潔く失敗して、文句をお兄ちゃんと言い合ってやろう。実花はそんな風に考えて、手を伸ばして、だけどその手は、お兄ちゃんに掴まれてしまった。
実花は思わず稔の顔を見た。怖い顔だった。しかし、諦めているようには見えなかった。実花は手を引っ込めた。これは稔のお金なのだ。ならば最後の引導を渡すのも、兄の仕事なのだ。
果たして稔は、最後の一回を開始した。
冷徹なクレーンが動いて行くのを、稔は血走った目で凝視している。
その鬼気迫る表情に、実花は唾を飲み込まずにはいられない。
クレーンは、思いのほか早く停止した。それは先ほど穴の縁に落としてしまったぬいぐるみからすこしずれた所だった。
実花には稔の考えが分からない。あんな所で降ろしても、掴めるはずがない。
やっぱり駄目なんだ。稔はただ自暴自棄になっただけなんだ。
実花が絶望しかけた、その時である。
開いたアームがぬいぐるみのお尻を押したのだ。そして、ぬいぐるみはあっけなく穴の中へと落ちて行く。
ぽとん。
軽くて、柔らかな音がした。
実花は稔の顔を見た。稔は鷹揚に頷いた。
「あげるよ」
晴れ晴れとした笑顔だった。
実花は、取り出し口に手を入れる。中には、欲しかった猫のぬいぐるみが入っていた。
「やったあああ!」
実花の全細胞が歓喜した。飛び跳ねて、稔に飛びついた。
「お兄ちゃん! ありがとう!」
その夜。実花は稔が手に入れたぬいぐるみを抱きしめて眠った。とても、よく眠れたのだった。
ちょうどそれは、稔と実花がゲームセンターの中に入って行く時刻だった。
とあるファミリーレストランで、少年が一名、少女が二名、テーブルを囲んで座っている。広げているのは大学ノートと筆記用具。注文したのはドリンクバーのみ。
「それでは作戦会議を始めよう」
少年は重々しく口を開けた。
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