虐待

「津田さん」

「は……はぃ」

 先生に呼ばれて返事をした――つもりだったけど先生はじっとこっちを見てる。聞こえてなかったのかもしれない。

「い、います」

 私がちょっと頑張って声を出すと、先生は特別何か言うわけでもなく次の人の名前を呼んだ。私、自分でも分かるくらい声が小さくて、一応人と話すときはちょっと頑張ってみるけど、それでも今みたいに聞こえない時があるみたい。

 で、でも、私は別に皆と仲良くなりたくないってわけじゃなくて、ちゃんとお話もしたいんだけど、うまく声がでないっていうか、どう喋っていいか分からないだけなの。本当だよ?でも、やっぱり皆話しかけてくるときは遠慮がちで、それがちょっと悲しくなったりする。

 だけど、私、学校は大好き。皆と会えるし、何より皆優しい。中学では男の子たちがお昼休みにプロレスごっこやってたりしたけど、普段はちゃんと真面目でいい人たちだったし。

 高校生になって初めてのクラスも、ぱっと見みんな優しそう。お友達、できるといいな。

「それじゃ、これから入学式になるから、皆廊下に並んで」

 ニコニコしてて優しそうな先生が笑いかけてくれた気がしたから、私は意気込んで立ち上がった。――ちょっと場違いだったかな?


 入学式の日は午前中だけで学校が終わって、HRが終わるとみんな何をして遊ぼうかって話してる。私も遊びたいけど、まだ仲いい子もいないし難しいかな。

 6時にはおうちに帰らなきゃいけないけど、それまでは自由にしてて大丈夫。お金もないし、公園かどこかで暇潰しして帰ろっかな。

 近所の公園には桜の木が一本だけ植えてあって、その横にブランコが置いてある。このブランコに乗ってゆらゆらしながら下から桜の木を見るのが好きなんだ。

 桜はもうかなり散っちゃって葉っぱばっかりになっちゃってるけど、こうやってのんび~りして何も考えないでいるのは気持ちいいんだ。たまに小学生にバカにされるけど、いいもん。そんなの気にしないもん。

 そのままブランコに揺られてたら5時間なんてあっという間。携帯電話開いたら6時ちょっと前でビックリした。

 おうちにつくと、玄関は鍵がかかってた。お父さんはまだ帰ってないみたい。鍵を開けて、誰もいないけどただいまって言っておうちに入る。

 おうちにはあんまり物はなくて、私の部屋にもお布団と勉強机と、あと持って帰ってきた鞄くらいしかない。お父さんがいっぱい物があるのが嫌なんだって。

 お父さんが帰ってくる前にお風呂沸かさなくちゃ。この間も忘れててたくさん怒られたっけ。最近は怒られることもあまりなくなったけど、気をつけないと。私ったらおっちょこちょいだから。

 6時半。いつもの時間に玄関のドアが開く音がする。私も、いつもみたいに玄関にお父さんをお出迎えに行った。

「おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

 お父さんはメガネかけてて、ちょっと痩せてるけど、でも背はすんごいおっきいの。なんでその子供の私がこんなにちっちゃいのか分かんない。

「風呂はできてるか」

「うん、できてるよ」

 私が得意げに言っても、お父さんは知らんぷりしてリビングに行っちゃう。もう少し褒めてくれてもいいと思うんだけどな……。

「ああ、そういえば」

 イスに鞄を置いてから、お父さんはふと思い出したみたいに口を開いた。

「お昼に小包届いたろ?小さいの」

 お父さんの言葉に私は肩をビクッと震わせた。

「こ、小包?」

「そうだ。二時くらいに届いたろう?」

「えっと……」

「あれは仕事に必要な物だからな。明日にでも持って行かなくちゃならんのだが……で、どこにあるんだ?」

 私は頭の中が真っ白になった。こんなことならちゃん寄り道せずに帰ってくればよかった。――ううん、寄り道せずに帰ってこなきゃいけなかった。

「……ありません」

「……あ?」

「ありませ……」

「そんなもんは聞こえてる!!なぜないのか聞いてるんだ!!」

 お父さんは大きい音を立ててイスから立ち上がった。まぶたがピクピク動いてる時は、お父さんはとても怒ってる。

「お前、今日は午前中で学校終わりだよな?」

「ごめんなさい」

「またどっかほっつき歩いてたのか!?」

「ごめんなさい」

「なんとか言えよおい!!」

 お父さんの固い手が私の頬を叩いた。お父さんは細いけど、怒った時はとても力が強い。私は壁にぶつかって座り込んだ。

 お父さんは間髪入れずに左手で私の髪の毛を掴んで、顔を私の顔を近付けてきた。そして、右手をグーにして私の頬を殴った。一回、二回、三回……。

 逸れた一発が鼻に当たって鼻血が出た。口の中も切れて血の味がする。

「汚え猿だなあ!!おい!!血なんか流してる暇あったらとっとと配送センターでもなんでも行って取ってこいよ!!!早く行けよこのウスノロ!!!」

 お父さんはそのまま髪の毛を持って引きずって玄関まで行くと、私を無理矢理立ち上がらせて、ドアを開けると思いっきりお尻を蹴って外に出した。私がうずくまっていると、後ろで鍵を掛ける音がした。

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 髪の毛は何十本も抜けてる。鼻と口から血が出て、Yシャツが赤くなってる。左目がうまく開かない。頭もうまく働かない。

 でも、小包を貰ってこなきゃ仲に入れてもらえない。ご飯、食べさせてもらえない。……でも、もう今日は小包を貰ってきてもご飯食べさせてもらえないかもしれない。

 お父さんは私のこと猿って言ってた。そう、私は猿。お父さんは飼育員。私は檻から出られない。出たい。出たい出たい出たい!!

「死んじゃえばいいんだ」

 死んじゃえば檻から出られるし自由になれる。お父さんのことは嫌いじゃないけど、痛いのはもう嫌だ。もう、殴られるのは嫌だ。

 ――でもそんなことできない。そんなことする勇気は私にはない。そんな勇気あったらお父さんにも刃向かえる気がする。

 そうだ、小包受け取らなきゃ。まだ脳がガンガンしてるけど、私は柱に掴まって立ち上がった。

「津田さん」

 ……不意に声を掛けられて、顔を上げると門のところに人が立っていた。……先生?

「……あの、違うんですこれはその……」

 私は必死で血を隠した……つもりだけど多分全然隠せてない。

「津田さんの探し物はこれだね?」

 先生が茶色い封筒を差し出す。近くに行って見てみると、お父さん宛の小包。

「先生がどうしてここに?どうしてこれを?」

 先生から小包を受け取って訊ねてみたけれど、先生は何も言わずニコニコしているだけ。変だなあ、とは思ったけど血とか見られちゃうの嫌だから、早くおうちに戻ろうと背中を向けた。

「津田さん、逃げたい?」

 私の足は自然に止まってた。振り向くと、先生はさっきと変わらずニコニコしている。

「この世から逃げて、自由になりたい?」

 先生はまた顔色も変えずにそう言った。――この世から……?どういうこと?急に先生の優しそうな顔が怖くなってきた。

「さっき津田さん、『死んじゃえばいいんだ』って言ったよね?」

 私の声はただでさえ小さいのに、門の外にいて私の独り言が聞こえるわけがない。私の膝は震えて、ただ立ちすくむしかなかった。

 先生は門を当然のように開けて近くに寄ってくる。

「君に来て欲しい場所があるんだ」

 そう言うと私の持っていた小包を取り上げて玄関に放って、暗くなり始めた道に私の手を引いた。

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