情動錬成

ダリ岡

第1話

 もっと成績を上げるようにと毎日言われていました。両親も先生も僕に期待してくれているということはよくわかっていたのでそれまで以上に勉強の時間を増やしました。生徒会長をやっていたものだから帰りはいつも遅く帰宅後も充分に休めないまま予備校の問題集なんかを解いていましたけれどそういうハードな毎日を続けられたのはひとえにこの子のおかげだと思います。金色の髪と大きな瞳が特徴的なこの子はもちろん世間的には人形と呼ばれるものですが僕は彼女に感情を与えようと試みました。方法は極めてシンプルで要するに僕が普段抑え込んでいる感情を彼女にだけ話し続けるというものです。例えば担任教師からお前はもっと受験のことを真剣に考えるべきだと一時間近く叱責された後はそのとき僕の内側に溜まっていた怒りについて懇切丁寧に彼女へ語りかけました。僕が不眠気味になるほど先日の模試の結果を悔いていることやそれなのにあの担任が僕を真剣でないと断定したことについて声を荒げて訴え続けたものです。彼女に苛立ちをぶつけるためではなく彼女に感情というものを理解してもらうためでした。僕にはずっと無表情で座っている彼女がひどくかわいそうに思えたので思い切り笑ったり泣いたり怒ったりして欲しかったのです。彼女は僕に似ています。僕もあの担任教師の前では不満や憤りを少しも顔に出さずにただただこれから頑張りますという言葉を繰り返していたからです。

 例えば生徒会で体育祭の練習スケジュールを決めた後は大勢のクラスメイトから面倒だ何とかしてくれと文句を言われましたしそれに気を病んだ他の生徒会役員二名が立て続けに体調を崩してしまいましたがそのときも僕は極力疲弊していない素振りを見せました。そのとき僕の中に涌き上がってきた焦りとやるせなさを表に出したところで事態が改善するわけではありませんでした。何よりそれらの感情は彼女のためにも蓄積させておく必要があったので僕は学校では意識的に明るい面持ちで過ごしていました。生徒会のメンバーにはもう一度計画を立て直そうと励ましの言葉を投げかけ家では彼女の前で本心を吐露し続けました。幸い僕には一人部屋が与えられているのでその様子は誰にも見られることがありませんでした。

 しかしいつまで経っても彼女の感情が目覚める様子はなかったので僕は強い焦燥感を覚えました。もちろんその焦燥も決して外では発散させず彼女の前でのみ言葉にし続けたのですが彼女は相変わらずツンとすました表情のままでした。もしかして彼女は感情を得ることではなく僕が彼女と同じになることを求めているのかもしれないと思うようになりました。例の一件が起こったのはちょうどその頃でした。僕がやっと志望大学の模試でA判定を取った際に父は僕の答案用紙を見てどうしてこんなところで間違えたんだと鼻で笑ったのです。大学教授の父が専門としている日本近代史に関する問題で僕はちょっとしたミスをしたのです。父はA判定のことと上がった偏差値のことについては一切触れませんでした。僕はまだまだ勉強が足りなかったよと反省の言葉を口にしてそのまま自室に戻りました。戻った瞬間僕は自分でも驚くほどの大声で彼女に向かって何かを叫んでいました。それでも彼女が一緒に叫んでくれたり涙を流してくれたりすることはなかったので僕はそのときようやく確信したのです。やっぱり僕が彼女に合わせるべきなんだなと。実際彼女は表情こそ変えなかったもののそのとき初めてゆっくりと立ち上がり大きな金槌を振りかざしました。それは自分のようになってほしいという彼女の意志の表れでした。僕は迷わず机の上に突っ伏して後頭部を彼女の前に晒しました。次の瞬間には彼女の振り下ろした金槌が首の付け根近くに当たって僕はようやく胸の中の余計なものたちを消し去ることができたのです。同時に部屋に両親が入って来ました。二人は数秒前の僕の叫び声に驚いてとっさに駆けつけたようですがそのとき既に僕は前の僕ではなくなっていました。僕は彼女を変えられませんでしたが彼女のようになることはできました。

 今こうしてベッドに横たわって辛うじて動く右の人差し指だけでこの文章をタイプしている間も僕は特に何も感じていません。怒りも焦燥も理屈としては理解できますがそれがかつてのように僕の胸中を奔り回ることはないのです。僕は今ベッドの枕元に座っているこの子と同じ次元に存在しています。というよりも彼女がこの次元に導いてくれたのです。僕の筆記内容をご清覧している医師の先生方は幻覚症状に基づく自傷行為という難解な話で僕を丸め込もうとしていますが僕にはその理由がよくわかりません。ベッドの傍で父と母がさっきから延々と泣き叫んでいる理由はある程度想像できますが共感することはありません。僕はもう笑ったり泣いたり怒ったりしないしそれは非常に望ましいことだと思います。

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情動錬成 ダリ岡 @daliokadalio

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