僕とヒヨ理ちゃんの記念すべき日 後編

 できあがった料理をテーブルの上に並べていると、ヒヨ理ちゃんが戻ってきた。下半身だけ、僕の貸したジャージに着替えている。


「さ、どうぞ。座って」

「は、はい……」


 恐縮したような様子で席に着くのを見届けて、僕も向かいの席に腰を下ろした。

 ヒヨ理ちゃんの視線が、チャーハンと僕を行ったり来たりしている。


「えっと……それじゃっ」

「うん、召しあがれ」

「いただきます……」


 ヒヨ理ちゃんは丁寧に両手を合わせると、手に取ったスプーンでチャーハンを一口すくい、口に運んだ。

 瞬間、その透きとおったつぶらな瞳が、さらにまんまるに見開かれた。


「ひ、日向井くんっ」

「うん?」


 ヒヨ理ちゃんは口の中のものをゴクンと嚥下すると、


「これっ……すっごくおいしいです!」


 キラキラと瞳を輝かせながら言った。


「そう、よかった」


 チャーハンの素で作った、料理とも呼べないような代物で、こんなに喜んでもらえるなんて。空腹は最高のスパイスとはよく言ったものだ。


 ヒヨ理ちゃんはおいしい、おいしいとつぶやきながら、夢中になって食べ進めていく。

 幸せそうにもぐもぐするヒヨ理ちゃんの顔を、僕は頬杖をつきながら眺めていた。見ていて全然飽きない。僕は飼ったことないけど、ハムスターでも観察してる気分だ。


 チャーハンをぺろりと平らげ、インスタントの中華スープも飲み干したヒヨ理ちゃんは、満ち足りたような顔で手のひらを合わせた。やっぱり色、白いなぁ。


「ごちそうさまでしたっ」

「お粗末さま」

「とってもおいしかったです!」


 せっかくこんなに喜んでくれているところへ、水をさすのは気が引けるけど……そろそろ、本題に入らなくちゃならない。


「えっと、ヒヨ理ちゃん。訊いてもいいかな?」

「あ……は、はいっ……」


 ヒヨ理ちゃんは一転して表情を硬くして、居住まいを正した。


「まず……いつからいたの? 全然気づかなかったんだけど」

「えっと……普通に、学校が終わってすぐ直行した感じ、です。ほら、日向井く……ゆ、ゆーじくんって、いつも帰り道の途中で十分くらいコンビニ寄るよね? だから毎回、わたしのほうが先に家に着くの……」


 ゆーじくん、って。

 もしかして、僕が「ヒヨ理ちゃん」って呼ぶから合わせてくれたのかな。なんていじらしいんだろう……。


「なるほどね。ヒヨ理ちゃんは、僕の生活サイクルを把握してるわけだ」

「はい……僭越ながら……」

「まあ、それはいいんだけど。“毎回”ってことは、これが初犯じゃないんだよね?」

「……二週間くらい? 前から……」


 二週間前といえば、ちょうど三学期が始まったあたりだ。


「それは……」


 それは、なんで?

 どうして、こんなことを?

 話の流れで、そんな質問が喉元まで出かかったけど、呑みこんだ。

 だって、そんなのは野暮だ。わかりきっている。

 女の子が男をストーカーする理由なんて、僕はひとつしか思い浮かばない。


「それは気づかなかったなぁ。ヒヨ理ちゃんって、かくれんぼとか得意だったりする?」

「かくれんぼ、ですか? あんまりしたことないかもです……」

「だけど、今日だって僕が帰ってきてからずっと、ベッドの下に隠れてたわけでしょ? 才能あるよ。かくれんぼの大会があったら優勝も夢じゃないかも」

「あっ、ちがくて……あの、ずっとベッドの下にいたわけじゃないんです」

「あ、そうなの?」

「はい……ゆーじくんが帰ってきたとき、わたし、洗面所にいて。そこで……その」


 ヒヨ理ちゃんはふいに怯えたような目になって、顔色を窺うように僕を見る。

 それから、意を決したように、


「えっと。わたし……ゆーじくんの歯ブラシ、しゃぶってたの。ご、ごめんなさい……きもちわるいよね?」

「僕は全然気にしないよ」

「ほ、ほんとですか……? 嫌じゃない……?」


 僕に軽蔑されるという恐怖からか、元々白い顔をさらに蒼白にして、今にも泣きそうな声で訊いてくる。


「うん、平気平気。僕って細かいことは気にしないタチだから。だからヒヨ理ちゃんも気にしないで? ね?」


 僕は手を伸ばし、よしよしと髪の毛を撫でつけた。


「はう……」


 はう、だって。可愛すぎるでしょ。


「それより、続きを聞かせてくれる?」

「は、はいっ……えと、わたし、いつもはちゃんと、ゆーじくんが帰ってくる前に隠れて待機してるんですけど……今日はその、しゃぶるのに夢中になっちゃってて……気がついたら足音が近づいてきてて。パニックになったわたしは、歯ブラシを洗うのも忘れて、慌てて元の場所に戻して……それから、急いで浴槽の中に隠れたんです」


 あ、そうか。そういうことか。

 歯ブラシの先端が濡れてたのって、あれ、ヒヨ理ちゃんの唾液だったんだ。

 なるほど、ひとつ謎が解けた。


「あれ? じゃあもしかして、僕がシャワー浴びてるとき、ヒヨ理ちゃんもいたの?」

「あ、うん……すぐそばにいました。そ、それでっ……」


 ちらちら、ちらちら。また言いづらいことなのか、ヒヨ理ちゃんは右へ左へ、せわしなく視線をさまよわせる。


「…………魔が、差して」

「うん?」

「今ゆーじくんは全裸なんだって思ったら、魔が差しちゃってっ……それで、あの、あのっ…………見ました!」

「見たって?」

「ゆーじくんのはだかっ、こっそり見ましたっ……!」


 そのときの光景を思い出したのだろうか。ヒヨ理ちゃんの顔は、瞬く間に真っ赤に染まった。

 肌が白いせいで、赤みがものすごく際立っている。


「ごめんなさいっ! ごめんなさいごめんなさいっ、ごめんなさいっ……!」

「いや、そんな謝らなくても。でも、そっか。じゃああの気配は気のせいじゃなかったんだ」


 どうりで視線を感じたはずだ。


「それからどうしたの?」

「えと、隙を見てゆーじくんのお部屋に移動しました。そのあとはいつもどおり、ベッドの下に潜ってゆーじくんを待ってました」

「いつもどおり?」

「はい……いつもはゆーじくんが寝静まるまで待って、ちゃんと眠ったのをこの目で確認したら、少しのあいだ寝顔を眺めて……そのあと、こっそり帰ります」

「え? けっこう夜遅いよね?」

「? たぶん……」

「危ないよ。言ってくれたら送ったのに」

「……えっと」


 って、無理か。ヒヨ理ちゃんも反応に困ってる。


「あれ? でも今日は……」

「えと、いつもなら帰るんですけど。明日は土曜日でお休みだし、今日は思いきってお泊りしてみようかな……って」


 なかなかの思いきりだ。


「着替えも持ってきてて、ていうかこれなんですけど……あ、脱いだ制服と鞄はベッドの下に置かせてもらってます……」


 やっぱり今着てる上のジャージが、ヒヨ理ちゃんの寝間着みたいだ。ここだけの話、かなり可愛いと思う。


「なるほど、準備万端だったんだね」

「それが……そうでもなくて」

「?」

「忘れてたんです。いちばん肝心なことを」


 ……?

 なんだろ、肝心なことって。


「わたし昔から……トイレが近い体質なんです」

「そうなんだ?」

「はい……今でも時々、間に合わなくて粗相してしまうことがあるくらいで……」

「大変だ」

「大変です……だから対策として、お、おむつを穿いたりすることもあって」


 相当恥ずかしいんだろう、声が震えてる。特に話す必要のない情報のようにも思えるけど、すべてを話さなくちゃいけない責任に駆られているのかもしれない。


「いつもしてるわけじゃなくてっ。夜寝る前とか、あとは、長時間トイレに行けないような状況のときだけなんだけどっ」


 必死に弁明するヒヨ理ちゃんの顔があまりにも真っ赤で、ちょっと心配になってくる。


「うんうん。それで?」

「それでっ……だからいつも、鞄のポケットに予備を入れてて。いつもはウチに着いたらすぐ穿き替えるんですけど……あ、ウチっていうのはゆーじくんの家のことです……だけど今日に限って、入れておくのを忘れちゃってたんです」


 うっかりさんだ。


「だから今日のところは、お泊りは諦めて限界になる前に帰るか、もしくはこっそりトイレをお借りしようと思ってたんですけど……」

「だけど今日に限って僕は夜更かししてて、ベッドの下から出るに出られなかった、と」


 そして、いよいよ我慢ができなくなって、ついには失禁してしまった。


「そういうこと?」

「はい……恥ずかしながら……」


 なるほどなぁ。

 ここまで話を聞いて、だいたいの事情は掴めた。

 ただひとつだけ、どうしてもわからないことがあった。


「あのさヒヨ理ちゃん、根本的なこと訊いていい?」

「はい、なんなりと……」

「どうやって入ったの?」


 いくらズボラな僕でも、さすがに鍵くらいは閉める。

 いったい、どうやって……?


「えっと……これです」


 ヒヨ理ちゃんは両手の指先で、襟元を掴むような仕草をする。よく見れば、首元に細い紐が覗いている。ネックレス?

 服の内側から引っ張り出された、それは――


「鍵だね」

「ごめんなさいっ……」

「でも、なんでヒヨ理ちゃんが……?」


 鍵なら当然、僕も持ってる。つまりどういうこと?


「……ある日のことです。わたしは、体育の授業の途中で早退しました」


 二週間くらい前だっけ。授業が終わって教室に戻ってきたら、ヒヨ理ちゃんがいなくなってて、寂しかったのを覚えてる。


「今さらだけど、体調は大丈夫?」

「あ、はい、仮病だったので……」

「そうなんだ、よかった」


 本当によかった。


「早退する前、わたしはひとり、誰もいない教室に戻って……そのとき、ゆーじくんのブレザーの内ポケットから、鍵をお借りしたんです。勝手にごめんなさいっ」

「……あっ!」


 思い出した。


「そういえばあの日、僕、家に鍵を忘れて……」


 あの日、部屋の前で鍵を取り出そうとしたら、鍵がなくて。ダメ元でノブをひねってみたら、扉が開いてて。鍵はテーブルの上に置いてあって、だから僕は、うっかり鍵を閉め忘れたっていう結論に達したわけだけど……


「そっか、じゃあ……あのとき、ヒヨ理ちゃんは家の中に?」

「はい。あの時点で合鍵は作り終わっていたので、鍵だけ返したら、その日は下見だけにして帰ろうと思ってたんですけど……それだと、鍵が開けっ放しになっちゃうでしょ?」

「そうだね」


 かといって鍵を閉められちゃったら、今度は僕が中に入れなくなるわけだし。


「わたし、泥棒に入られるんじゃないかって心配になっちゃって、留守番することにしたんです」

「……!」


 優しい。ヒヨ理ちゃんがいい子すぎて泣けてくる。


「ありがとね、ヒヨ理ちゃん」


 思わず手を伸ばして、頭をなでなでしてしまう。


「い、いえっ、そんなっ……わたし全然、褒めてもらえるようなことしてないからっ」


 撫でられて恥ずかしそうにしているのに、まったく逃げようとしないのがまた、たまらなく愛らしい。


「……結局その日は、ゆーじくんが眠るまで一緒のお部屋で過ごして……それ以来、平日は毎日、ウチに入り浸るようになりました」


 ヒヨ理ちゃんはおもむろに、首にぶら下がる鍵を紐から取り外し、テーブルに置いて……それから、スッと両手で僕の前へと押し出した。


「たくさん迷惑かけて、本当にごめんなさいっ……!」


 テーブルにおでこがくっつきそうなくらい深く、頭を下げる。


「謝らないで、迷惑だなんて思ってないから」


 むしろヒヨ理ちゃんになら迷惑をかけられたいまである。

 ヒヨ理ちゃんにならたとえ殺されたって、文句を言う気にならない気がする。

 もっとも、ヒヨ理ちゃんみたいな優しい子が、そんな凶行に走るわけがないんだけど。

 誰かを傷つけるヒヨ理ちゃんなんて、これっぽっちも想像できない。


「僕はヒヨ理ちゃんがそばにいてくれたほうがうれしいよ」


 冷静に考えると、ヒヨ理ちゃんがウチにいるなんて夢みたいだ。


「……えっと、でも、あの。そのことだけじゃなくて……お部屋も、汚しちゃったからっ」

「あー」


 言われてみれば、ベッドの下……。


「ま、それはあとで片付けるよ。ヒヨ理ちゃんも手伝ってくれるとうれしいな」

「はっ、はい、もちろんですっ」

「ていうか、今日は泊まっていくよね? もう遅……いやもう朝だけど、外はまだ暗いしね」

「……いいんですか?」

「もちろん。なにもない部屋だけど、ゆっくりしていってね」


 ……って、そうだ、ウチって本当になにもないんだった。まずお金がないから、物が増えない。予備の布団なんて当然ないし、どうしよう? いやどうしようもなにも、ヒヨ理ちゃんにベッドを使ってもらうしかないか。じゃあ僕は……ベッドの下? まあ、アリといえばアリか……


「あの……ゆーじくん」


 物思いに耽っていたら、ヒヨ理ちゃんが、まっすぐな眼差しで僕を見ていた。


「どうかした?」

「……訊かないんですか?」

「え? なにを?」

「……理由」

「理由?」


 瞳にも、声にも、真剣さがにじんでいる。


「わたしが、こんなことをした、理由です」

「ああ……」


 その中に、怯えのようなものが混じっている――そう感じるのは、僕の気のせいだろうか?


「いちばん最初に、訊かれるって思ってました」

「ヒヨ理ちゃんが言いたくないかと思って」

「……それは」

「話してくれるなら、聞くよ」


 僕が言うと、ヒヨ理ちゃんは沈黙した。

 目を逸らして、周囲の景色へ落ち着きなく視線を移ろわせ始める。

 そして、再び、まっすぐに僕を見る。

 決意の宿った、力強い瞳……だけど表情からはハッキリと不安の色が見て取れて、そのせめぎあいが可愛くておかしくて、僕は思わず頬が緩みそうになった。


「わたし…………ゆーじくんのことが、好きです」


 そんな言葉を聞いてしまえば、もう抑えられない。


「もっとゆーじくんのことが知りたくて、そばにいたくて」


 身体の内側から幸せな気持ちがあふれて、自然と笑みがこぼれる。

 まっすぐな想いに、心が震える。


「我慢できなくて。好きで。好きで。好きで。好きで。好きで。それで……」

「そっか」


 ヒヨ理ちゃんは、僕のことが好き。

 それは以前から薄々感じていたことだけど、改めて言葉で伝えられると、なんというかもう、感無量だ。今すぐ抱きしめてあげたくなる。


「それって、いつから?」

「……ゆーじくん、覚えてる? はじめてお話したときのこと……」


 ヒヨ理ちゃんと、はじめて言葉を交わした日。

 もちろん、覚えている。

 あれは一学期が始まって間もないころ。

 その特異な外見が物珍しくて、僕はなんの気なしに「きれいな髪だね」と声をかけた。

 ヒヨ理ちゃんはそんな僕をまじまじと見て、それから、「……ありがとう」と照れたように笑った。


 たったそれだけ。本当にそれだけのやり取りだった。

 次に僕たちが言葉を交わしたのは、ついさっきのことだ。


 だけど、たったそれだけの出来事で。一度きりの笑顔で――その日以来、僕はヒヨ理ちゃんのことを目で追いかけるようになった。無性に意識してしまうようになったのだ。

 そしてそれは、きっとヒヨ理ちゃんも同じで……


「あのとき、ゆーじくんはわたしの髪を褒めてくれて……馬鹿にされたり気味悪がられることはあっても、きれいだなんて、そんなふうに言われたのははじめてでっ……それがうれしくて。気づいたら、好きになってたの」


 これまでの僕はそういったことに関心が薄くて、好んで独りを選んでいた節があるけど。

 だけど、相手がヒヨ理ちゃんなら。

 うん。決めた。


「僕も、同じだよ」


 ヒヨ理ちゃんが上目遣いで、じっと僕を見つめる。


「ヒヨ理ちゃんのことが、ずっと気になってた。ヒヨ理ちゃんのこと、好きだよ」

「……え、えっと」


 すぐに視線を逸らして、頬を赤く染めるヒヨ理ちゃんに。

 僕は畳みかけるように言った。


「ねぇヒヨ理ちゃん、よかったら、僕の彼女になってくれない?」

「……………………えっ」

「だめかな?」

「えっ、あっ、え、えっ、あの…………彼女、って」

「?」

「彼女って……彼女ですか?」

「うん」

「!」

「?」

「……いいの?」

「いいよ」

「だ、だってわたしっ……こんなっ、ストーカーまがいのことしちゃったのにっ」


 まがいじゃなくて立派なストーカーだと思うけど、まぁ細かいことはいいか。

 それに、そういう認識の甘さというか、ちょっぴりズレた感性もまた、ヒヨ理ちゃんの魅力だと思うし。


「いいよ、許してあげる」

「……ほんとう?」

「うん。だから返事を聞かせて?」

「……えとっ」


 ヒヨ理ちゃんは緊張した面持ちで、けれど迷う素振りは一切なく。


「そ、それじゃっ、お言葉に甘えてっ。……わたしをゆーじくんの、か、彼女にしてくださいっ」

「うん、喜んで」


 これで僕とヒヨ理ちゃんは、晴れて恋人同士だ。


「……優しすぎます、ゆーじくんは」

「え?」

「許してくれるだけでも優しすぎるのに、そのうえ、彼女にしてくれるなんてっ……」


 突然、そのまんまるな両の瞳から、ぽたぽたと雫がこぼれ落ちた。


「僕って優しいのかな?」


 そんなことはじめて言われた。


「優しいです。優しすぎるくらい優しいです。そんなゆーじくんが……大好きです」

「そっかぁ」


 僕は優しいのか。はじめて知った。

 それなら僕は、今のままでいよう。ヒヨ理ちゃんにずっと好きだと言ってもらえるように。これからも、優しい僕でい続けよう――

 頬に伝う雫を拭ってあげながら、僕はそんなことを思った。


「あ、そうだ」

「……?」

「ヒヨ理ちゃん、手、出して」

「……こう?」


 ヒヨ理ちゃんは手のひらを上に向けて、僕に差し出した。

 その小さな手のひらに、僕は自分の手をそっと重ねた。


「これは僕からの、プレゼント」


 そう言って、手を退ける。


「え……」


 ヒヨ理ちゃんは驚いたように、自らの手のひらを――手のひらの上の合鍵を、じっと見つめている。


「これからは、いつでも好きなときに来ていいからね」

「ゆーじくんっ……」


 またしても、ヒヨ理ちゃんの瞳から涙があふれた。

 ヒヨ理ちゃんは、ぎゅっと手のひらを握りしめると。反対の手で包みこんで、そのまま、そっと胸元に押し当てた。

 そして、


「うんっ……ありがとう」


 とびきりの笑顔を、僕に向ける。

 久しぶりに見たヒヨ理ちゃんの笑顔。ちらりと八重歯が覗いていて、とてつもなく可愛い。


「大切にするね」


 それはまぎれもなく――あの日、僕が心を奪われた笑顔だった。



 食器を水につけて戻ってくると、ヒヨ理ちゃんは眠たげに目をこすっていた。

 僕もさすがに眠くなってきた。今眠れば、さぞ幸せな夢が見られることだろう。


「僕は寝るけど、ヒヨ理ちゃんはどうする?」

「わたしも、眠いです……ふぁぁ」

「じゃ、寝よっか」

「ん……あ、でも。食べたばっかりで寝たら、牛になっちゃうっ」


 瞬間、僕の脳裏に浮かんだのは、牛のコスプレをしたヒヨ理ちゃんだった。

 やばい、可愛すぎる。


「大丈夫、牛になってもヒヨ理ちゃんは可愛いよ」

「……意味わかんないっ」


 照れたように顔をそむけるヒヨ理ちゃんも、牛のヒヨ理ちゃんに負けず劣らず可愛かった。


「それじゃ、ヒヨ理ちゃんには僕のベッドを……」

「あっ、待ってください」

「うん?」

「あの……歯磨き」

「あ、そうだね」


 ヒヨ理ちゃんは食後だった。


「わたし、歯ブラシは持ってきてなくてっ」

「うーん」


 それは困ったなぁ。


「じゃ、ちょっとコンビニまで買いに行ってくるよ」

「あ、ちがくてっ……」

「?」

「その……よかったら、ゆーじくんの歯ブラシ、貸してほしいなって……」

「僕の?」

「うん……」


 そういえばヒヨ理ちゃん、僕の歯ブラシぺろぺろしてたんだっけ。


「……やっぱり、嫌だよね?」

「ううん、いいよ。ヒヨ理ちゃんさえよければ」

「……!」


 でも、さすがにちょっと不衛生かな?


「そうだヒヨ理ちゃん。明日さ、一緒に買い物行かない?」

「……買い物、ですか?」

「うん。せっかく恋人同士になったんだし、お揃いの歯ブラシとか買おうよ」

「……! お、お揃いっ」


 お? ヒヨ理ちゃんが食いついた。


「別に、これから同棲しようってわけじゃないけどさ。いつでも泊まりに来られるように、揃えておけば便利じゃない?」

「行きますっ! 行きたいっ!」

「決まりだね」


 そうと決まれば、今日はもう寝て明日に備えよう。

 ヒヨ理ちゃんは歯磨きをしに洗面所へ向かったので、僕は一足先に部屋に戻ってきた。


 ヒヨ理ちゃんを待っているあいだ、手持ち無沙汰だった僕は、何気なくベッドの下を覗いてみた。

 鞄と丁寧に畳まれた制服が、隅のほうに寄せてある。そしてカーペットには、広範囲にわたって濡れた痕跡があった。……朝起きたら洗濯しよう。

 それから少しして、ヒヨ理ちゃんが来た。


「ご、ごめんなさい、遅くなりましたっ。待ったよね?」


 言われて時計を見ると、確かに、部屋に来てから二十分近く経っていた。


「……つい、夢中になっちゃって」

「待ってないから、気にしないで」

「ごめんなさい……」


 ヒヨ理ちゃんの頬は、ほんのりと赤くなっていた。いったいなにに夢中になっていたのか――それを訊くのは野暮だろう。


「それじゃ、ヒヨ理ちゃんはベッド使ってね。僕は床で寝るから」

「だめですっ」


 食い気味に反対されてしまった。


「……一緒に寝る」

「それはさすがに問題が……」


 いや、別に問題ないか。恋人同士になったんだし。


「……だめですか?」

「ううん、だめじゃないよ。一緒に寝よっか」

「……! うんっ!」


 僕とヒヨ理ちゃんは、狭苦しいベッドの上にふたり並んで横になった。

 枕を半分こしてみる。顔が近い。


「お、おやすみなさい……」


 吐息がかすかに顔にかかって、くすぐったい。


「うん、おやすみ。電気消すね」


 暗闇の中、ヒヨ理ちゃんの息遣いが聞こえる。


「……ゆーじくん」

「なぁに、ヒヨ理ちゃん」

「わたし、今まで生きてきた中で、今日がいちばん幸せです」

「じゃあ、明日からはもっと幸せになろう。ふたりで」

「……うんっ」


 隣でヒヨ理ちゃんが、もぞもぞと身を起こす気配がして、


「だいすき」


 耳元で囁かれ。

 次いで、頬に温かいものが触れた。

 永遠にも思えるほど長い時間、そうして触れあって。やがて、名残惜しむようにゆっくりと……離れた。

 ――ああ。

 なるほど、確かに。


「僕も今、今日この瞬間が、いちばん幸せだ」


 こうして僕は、思いがけず。

 僕が愛してやまない、とびきり可愛いクラスメイトの女の子と、結ばれたのだった――。

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