僕とヒヨ理ちゃんの記念すべき日 前編
うちのクラスには
かわいそうなことに彼女は周囲から浮きまくっているのだが、それはなにも、彼女が美少女すぎることだけが原因じゃない。
一つは、容姿の異質さ。
背丈は平均よりやや小柄で、軽く触れただけで折れてしまいそうな華奢な身体つきをしていて、肌は病的なほど青白い。
それだけならまだ普通の美少女の範疇だが、彼女の特異な点は“色”にあった。
おそらくは、先天的なものなのだろう。無造作に伸ばされたセミロングの髪も、やけに目力を感じさせるつぶらな瞳も、とにかく――色素が薄い。
周囲からハッキリと浮いてしまうくらいに、薄い。
肌の白さも相まって、鼎ヒヨ理という女の子は、全体的にとても薄いのだ。
にもかかわらず。
存在感だけは、誰よりもある。
彼女が浮いてしまっているもう一つの理由、それはその独特なキャラクターにあった。
もっと端的に言ってしまえば、まあ、性格に難アリってことだ。
性悪という意味ではない。ただ、わからないのだ。
不気味、なにを考えているのかわからない、気味が悪い、怖い――クラスメイトの多くが、彼女のことを陰でそんなふうに言っている。
授業中以外で、彼女が誰かと話している姿を見たことがない。
友達がいるという話は聞かない。
笑った顔を見たことがない。
常に超然としていて、どこか浮世離れしている。
それは一言でいえば“ミステリアス”ということになるのだが、ミステリアスで片付けるには、彼女の顔は可愛らしすぎた。だから、どちらかといえば“不思議ちゃん”の部類に属するのではないかと、僕は常々思っている。
ともかく、ひとつだけハッキリしているのは。
鼎ヒヨ理ちゃんという女の子が、とびきり可愛いということだ――。
「お邪魔するね、
四時間目の授業が終わって、昼休みになった。
一人のクラスメイトの女の子が、両手で椅子を抱えながら、ふらふらと覚束ない足取りで僕の席までやってきた。
「引きずってきたらいいのに。重いでしょ」
「だって、床、傷つけちゃうから……」
「そういうとこ、几帳面だよね、
基本大雑把で、細かいことを気にしない僕とは正反対だ。
「そうかなぁ? 普通だと思うけど……」
可愛らしく首を傾げる彼女の名前は、三ツ橋
前髪をヘアピンで留めたミディアムボブの髪はゆるふわで、胸元はたわわに実っている。
笑顔が柔らかくて、物腰も柔らかい。だから誰からも愛される。どことは言わないがきっと肉体的にも柔らかいのだろう。
ふわふわ系愛され女子、それが三ツ橋さんだ。
三ツ橋さんは机を挟んで僕の正面に腰を下ろし、弁当箱の包みを広げた。
僕も倣う。
誰かと一緒に昼食を食べるということが、いつの間にか、僕の中で当たり前の日常になっている。
元々僕は群れるのがあまり好きではなく、それは今も基本的には変わらない。そこに特別な理由はなくて、単純に僕が独りでいるのが好きなタイプの人間だという、それだけの話だ。
だけどそれ以上に、僕は可愛い女の子が好きだった。
あれはまだ入学して間もない、四月のこと。席が隣同士だからという理由で、一緒に食べようと向こうから誘ってきた。断る理由はなかった。
それは期間限定的なものだと思っていたのに、三学期が始まり、席が離れた今でも、彼女はこうして、わざわざ椅子を持参してまで僕のもとまでやってくる。
僕のほうから出向く気にはならないが、来るなら来るで、やはり断る理由はない。
もしかすると、三ツ橋さんは僕に気があるのかもしれない。最近ではそんなふうに思うようになったが、申し訳ないことに僕としてはそこまで本気にもなれず。
そうして今日も、僕と三ツ橋さんは向かいあって弁当を食べるのだ。
「はいこれ、日向井くんの」
優しげに目を細めて柔らかく微笑みながら、三ツ橋さんが手を差し出す。
「いつもありがとね」
僕は手を伸ばし、それを――一膳の割り箸を、受け取った。
よく見る安物の割り箸ではない。竹製の、ちょっと高級っぽいやつだ。
新学期が始まって、二週間と少し。
その短い期間に、僕はマイ箸を四度“紛失”し、三度買い直している。
事情を知った三ツ橋さんが、毎日割り箸を持ってきてくれるようになったというわけだ。
「あはは、こんなことでよければいくらでも力になるよ〜。ほかにも困ったことがあったら遠慮なく言ってね?」
ただでさえ“失くしすぎ”で心配されているのに、僕が一人暮らしをしていて金銭的な余裕がないことも知っているため、余計に気を使わせてしまっている節がある。
「ありがとう。三ツ橋さんと友達でよかった」
「そんなっ、大げさだよ日向井くん」
「いやいや、本当に」
百円であっても節約したい身としては、本当に助かっている。
もっとも、そのもらった割り箸さえも、毎回のように“失くして”しまっているわけだけど……。
弁当の中身を食べ進めながら、僕はふと、三ツ橋さんの背後に目を向けた。
意識して目を向けた、というよりも、自然と目が引き寄せられた、といったほうが正しいだろう。
目の前に三ツ橋さんという天使の姿があってなお、その少女の存在感は別格だった。
鼎ヒヨ理。
あまりにも可愛すぎて、彼女がクラスの一員としてそこにいることが、ひどく場違いに感じる。まるで、人間とは異なる生命体が一人だけまぎれこんでしまっているような……そんな錯覚すら覚えてしまう。
彼女――ヒヨ理ちゃんは誰かと机を合わせることもせず、自分の席で黙々と、マイペースに弁当をつついている。不思議ちゃんだが箸の持ち方はキレイなので、もしかしたら育ちは良いのかもしれない。
「鼎さんが、どうかしたの?」
「え?」
声をかけられ、我に返る。思わず見惚れてしまっていたみたいだ。
「あ、その……なんか日向井くん、鼎さんのこと気にしてるみたいだったから……」
「いや、なんでもないよ。ちょっと、ぼーっとしてただけ」
視線を三ツ橋さんへ移したその瞬間、ヒヨ理ちゃんがこっちを見た気がしたけど、それは自意識過剰だろう。
僕と三ツ橋さんは他愛のない雑談をしながら、楽しい昼食の時間を過ごした。
いつものようにコンビニに寄って夕飯の弁当を買ってから、家路についた。七階建てマンションの三〇一号室が僕の部屋だ。
築ウン十年のボロなのでオートロックは付いていないが、仮に泥棒に入られたとしても、盗られて困るものも特にないため別段問題はないだろう。
「ただいま」
実家暮らしのころの癖でつい言ってしまうのだが、返事は当然返ってこない。一人暮らしなのだから当たり前だ。返ってきたら怖い。
玄関の鍵を閉めると、僕はまっすぐに洗面所へ向かった。
帰宅したら速攻で風呂に入るのが習慣になっている。それは僕がキレイ好きだからではなく、ズボラだからだ。時間を置くと風呂に入るのさえ億劫になってしまうのである。
洗面所に入って、真っ先に視界に飛びこんできたのは、片隅に放置された大きなゴミ袋だ。
ゴミの日を失念したり存在そのものを忘却したりで、ついつい捨てそびれてしまっているうちに、パンパンに膨らんでしまった。
中身は主に、コンビニ弁当などの容器類。夏場だったらアレやコレが湧いてヤバそうだが、今は冬なので問題ない。
僕は一糸まとわぬ姿になると、ドアノブを捻り、浴室へと足を踏み入れた。
その瞬間、
強烈な違和感
が僕を襲った。
――浴槽のフタが、閉じている。
昨日までは、たしか開いていたはずだ。
覚えていないだけで、無意識に閉めたのだろうか?
面倒くさがりの僕が、わざわざそんなことをするとは思えないけど……。
まあ、でも。
別にいいか。
どうせシャワーを浴びるだけだ。湯を張るわけじゃないんだし、使わない浴槽のことなんか気にしても仕方ない。
僕はシャワーの蛇口を捻ってお湯を出し、軽く頭を濡らした。
そして、手のひらに押し出したシャンプー液をそのまま頭に持っていき、髪を使って泡立てる。僕はまず頭から洗う派だ。
目を瞑ったまま爪を立ててゴシゴシやっていると、ふいに――感じるはずのないものを感じた。
視線だ。
誰かに見られているような、そんな気配がする。
なるほど、と僕は思った。
これはいわゆる、「あるある」というやつだ。
目を瞑っていて周りが見えず、しかも一人きり。だから不安になって、そばに誰かがいるかのように感じてしまう。
僕はそういった心の機微に疎いのか、これまでその手の感覚とは無縁だったが……
実際に経験してみて、実感として理解した。
これはたしかに、“視線”以外の何物でもない。
それどころか、本当に隣に誰かがいると思わせるような、濃密な人の気配を感じる。
巷で有名な「あるある」が、まさかこれほどのものとは思わなかった。なかなか興味深い現象だ。
僕は泡を洗い流し、目を開けた。
ちらりと隣に目を向けると、フタの閉まった浴槽があるだけで、どこにも異状は見当たらなかった。
リビングでテレビを見ながら夕食を済ませ、空になった容器を捨てようと洗面所に向かう。
ゴミ袋を開けようとして――またも、違和感。
結び目が、妙に固い。
どうせまた開けるからと、普段から緩めに縛ることにしているのだが、いざ結び目を解こうとすると前よりキツくなっているように感じる。そういうことが最近多い。
もちろん、気のせいでなければ原因なんて自分の不手際以外にないんだけど。
緩く縛っているつもりでも、つい力をこめすぎてしまうのだろう。
僕はパンパンに膨らんだゴミ袋に新たな
洗面所に来たついでに食後の歯磨きも済ませておこうと思った僕は、洗面台の前に立ち、歯ブラシを手に取った。
…………あれ?
おかしいな。
先端のあたりが濡れている。
朝に使って以来だから、普通なら乾いているはずなのに。
まあ、でも……
そういうこともあるか。
僕はさして気にすることなく歯磨き粉をつけると、口に含んだ。
日付も変わり、いつもであればそろそろ就寝の時間だが。
明日(日付的には今日)は土曜で休日で、つまりは夜更かしし放題。
明かりのついた寝室で、僕はスマホ片手にベッドに横たわった。
そして馴染みのウェブ小説サイトにアクセスすると、読みかけだった長編シリーズのページを開く。今日は朝まで読書と洒落込もう。
何気なくスマホの時計を確認してみると、時刻は午前三時過ぎ。
どうやら三時間ぶっとおしで物語の世界に没入していたらしい。
ウェブ小説はいい。どうせ素人が書いたものだからと敬遠していた時期もあったが、面白い作品は意外なほど多く、つい時間を忘れて熱中してしまう。なによりも、金がかからないところが素晴らしい。
「ふわぁぁぁ〜〜〜っ」
僕は大きく伸びをすると、再びスマホを眼前に持ってくる。
夜更かしは午前三時からが本番だ。
僕はわくわくしながら異世界での冒険を再開しようとして――
――ぐうぅ〜。
…………『ぐうぅ〜』?
なんの音だろう。いったいどこから――
――ぐぐうぅぅぅ〜〜。
……まただ。正確な位置は不明だが、すぐ近くで異音が鳴っている。
まるでお腹の虫が鳴いているような音だが、あいにくと僕はお腹が減っていないため、発生源は僕ではない。第一、鳴っているのが自分の腹ならさすがにわかる。
……あれ?
そういえば、この音。
よくよく考えてみると、さっきからずっと鳴っていたような気がする。
読書に集中していたため、まるで気に留めていなかったが、思い返してみると確かに、時折聞こえてきていた。
……まあ、よくわからない音のことなんて、気に留めても仕方ない。
僕は気を取り直し、読書を再開した。
それからさらに、一時間半ほどが過ぎたころだろうか。
唐突に、“それ”は聞こえた。
「あっ」
…………『あっ』?
声だ。
高い声。女の子の声?
人の声が、どこからか聞こえた。
……いや、そんなはずはない。
この部屋に僕以外の人間はいないし、テレビだってリビングにしかない。
声なんか聞こえるはずがないのだ。
だとしたら、今のはきっと幻聴……と、そこまで考えた直後。
――しょろろろろろ……。
声とも、お腹のような音とも違う。
シンと静まり返った真夜中の密室で、かすかに、けれどハッキリと耳に届くこれは……水音だ。
どこから発せられているのかわからずに、僕は首をめぐらせる。
上か下か、それとも隣か。
水道の音、だろうか?
周囲の住人の生活音が聞こえてくるのは、マンションでは珍しいことではない。
だけど……これは水道の音とは、ちょっと違うように感じる。
それに、もっと近くで響いている気がして――
――しゅうううううううう。
勢いが増した。
ホースの先から水が迸る、そんなイメージが脳裏に浮かぶ。
「あっ……あっ……」
……そしてまた、声。
意図せず漏れてしまったかのようなその声は、どこか焦りの色を帯びていた。
幻聴なんかじゃない。確かに聞こえた。
――しゅうううううううう……っ。
――しょろろろろろろ……。
――ちょろろろ……。
時間にして、二〜三十秒ほどだろうか。
水音はだんだんと勢いを失っていき、やがてピタリと鳴りやんだ。
あの声も、もう聞こえない。
やっぱり幻聴だったんじゃないか、そう思わせるほど、部屋には静寂が満ちている。
…………だけど。
僕はすでに、確信していた。
この部屋には、僕以外の誰かが潜んでいる。
その“誰か”の正体も、見当はついていた。
だから僕は、ベッドに両手をつくと――“下”に向かって、大声で叫んだ。
「こら〜っ!!」
「ひゃうっ!!」
ゴツンッ!
ベッドの下から聞こえてきたのは、可愛らしい声と、まるで天井に頭をぶつけたみたいな鈍い音。
そして、
「いたいっ……」
痛いって言った。
たしかに、痛そうな音だった。
僕はベッドの上からベッドの下を覗きこんだ。
「大丈夫?」
「ひゃいっ!!」
ゴツンッ!
「ふぇぇ……」
ふぇぇだって。可愛い。
ベッドの下の、端のほう。身体を丸めた小柄な人影が、両手で頭を押さえている。薄暗くて、顔はよく見えない。
「大丈夫?」
これ以上悲劇が繰り返されないよう祈りながら、僕はもう一度声をかけた。
「…………」
無反応だった。
頭を押さえた格好のまま、ピクリとも動かない。
息を潜め、嵐が過ぎ去るのを待っている――そんなふうに見える。
もうバレてるというのに。
仕方がないので、僕はベッドの下へと腕を伸ばし、つん、と脇腹のあたりをつついた。
「〜〜〜っ!!」
ゴツンッ!
ビクッと身体が跳ねあがった拍子に三度目の悲劇が起こるが、即座に何事もなかったように、元の体勢へと戻ってしまう。
どうやら現実逃避しているみたいだ。
「えっと……ヒヨ理ちゃんだよね?」
このままでは埒が明かないため、僕は単刀直入に訊ねた。
「……………………」
「同じクラスの、鼎ヒヨ理ちゃんだよね?」
「……………………」
「おーい、ヒヨ理ちゃん?」
「…………ち、チガイマス」
か細い声で、ヒヨ理ちゃんは言った。
声色を変えているが、苦し紛れにもほどがあると思う。
「違うの?」
「チガイマス」
「本当に?」
「ホントデス」
冗談でやってるわけじゃなくて、たぶんヒヨ理ちゃんなりに必死なんだと思う。声に真剣さがにじみ出ている。
「そっか。なら警察に通報しなくちゃ」
「け、けいさ痛っ……!」
今まででいちばん良い音がした。
「大丈夫?」
「けいさつは嫌……」
今にも泣き出しそうな、すがるような声だった。
「だけど、不法侵入なわけだし。知らない人が家にいたら、普通は通報するよね?」
「そ、それはっ……」
「これがもし知り合いだったら、通報まではしないんだけど」
「ひ、ヒヨ理です。鼎ヒヨ理ですっ……同じクラスのっ……」
「認めちゃうんだ?」
「はい……」
「だったら、別に問題ないよ。僕、ヒヨ理ちゃんのこと好きだし」
「……えっと」
困ったような反応も、とっても可愛い。
「だから出ておいで」
「……でも」
「うん?」
「おこる……」
「誰が?」
「日向井くん……」
「大丈夫、怒ってないよ」
「……ほんとう?」
「うん、約束する」
「…………」
「だから、ね? いい子だから、こっちおいで?」
「…………いきます」
そう言うと、ヒヨ理ちゃんは床を這うようにして、ベッドの下から貞子よろしく現れた。
「こ、こんにちは……」
そして僕と目が合い、ぺこりとお辞儀する。
「こんにちは」
午前四時台になぜ昼の挨拶なのかはわからない。
「……あの、あの、えっと」
ヒヨ理ちゃんが身体ごと、ベッドの上の僕に向き直る。
そのまま、深々と頭を垂れた。
「ごめんなさい……」
「いいよ、許しちゃう。まあ、詳しい事情はあとで聞かせてもらうけどね」
「はい……」
「それより……ヒヨ理ちゃん、頭大丈夫?」
四回もぶつけてたけど……。
聞かれて思い出したのか、ヒヨ理ちゃんはそっと頭に触れてから、ふるふるふると首を振った。
どうやら大丈夫じゃないらしい。
僕はベッドから降りると、ヒヨ理ちゃんに向かって手を伸ばした。
怯えたようにぎゅっと目を閉じるヒヨ理ちゃんの頭に、そっと触れる。
「痛かったね。よしよし」
「ん…………」
目を開けて、僕がなでなでしているのを確認しても、特になにも言わず、嫌がる素振りもない。されるがままに撫でられている。
「やっぱりキレイだよね、ヒヨ理ちゃんの髪」
色素が薄くて毛の一本一本が細くて、さらさらしていて気持ちいい。
ベッドの下にいたせいか、今は若干ぼさぼさになっちゃってるけど、それはそれで趣がある。
「あ、ありがと……」
ヒヨ理ちゃんは照れくさいのか、ぼそりと言って視線を逸らす。
その反応が可愛くて、僕はなでなでしながらもう少しだけ褒めてみることにした。
「もちろん髪だけじゃなくて、ヒヨ理ちゃんもキレイだよ」
「…………え、えっと」
困った顔が、これまた可愛い。透きとおるような白い頬に、ほんのりと赤みがさしている。
このまま永遠に撫で続けていたい。
本気でそう思わせるだけの魅力がヒヨ理ちゃんにはあるし、実際に三分ほど撫で続けていたのだが。
唐突に聞こえてきた音が、僕の手を止めさせた。
――ぐうぅぅ〜〜。
音は明らかに、ヒヨ理ちゃんから聞こえた。
僕が問いかけるように視線を送ると、ヒヨ理ちゃんは恥ずかしそうにうつむいた。
「おなかすいてるの?」
目は合わせずに、コクリとうなずく。
あの不思議な音色は、ヒヨ理ちゃんのお腹の音だったというわけだ。
「……お昼から食べてないから、それでっ」
どこか言い訳するように、ヒヨ理ちゃんは言う。
「お昼って、学校のお弁当以来ってこと?」
コクコク。うなずく。
「それはまた……」
ふと思う。
そういえば、ヒヨ理ちゃんはいつからウチにいるんだろう……?
そのあたりも含めて、あとで詳しく訊いてみよう。
でも今は、それよりも。
「そりゃ、お腹の一つや二つ空くよね」
「ぺこぺこです……」
「ごめんね、うちっておやつとかないんだ。今から作ることになっちゃうけど、それまで待てそう?」
「…………つくる?」
「と言っても、料理なんてほとんど作れないから、チャーハンとかだけど」
「……え、あの…………いいの?」
「もちろん」
「だって、わたし……」
「いいからいいから、遠慮しないで」
「…………」
それでもまだ申し訳なさそうにしているヒヨ理ちゃんを見て、僕は思う。
ただでさえ可愛いのに、そのうえ慎み深いだなんて……どこまで素敵な女の子なんだ。
「……それならわたし、自分でつくりますっ。つくらせてっ」
「ねぇ、ヒヨ理ちゃん、あのさ」
「……だめですか?」
「そうじゃなくて。ヒヨ理ちゃんはその前に、やることがあるんじゃない?」
「やること……?」
「僕がごはん作ってるあいだに、済ませておいで」
「すませる……?」
ピンときていないみたいだし、はっきり言ったほうがいいか。ずっと気になってはいたものの、デリカシーに欠けると思ってあえて指摘しなかったんだけど……。
「言いづらいんだけど……ほら、着替えとか」
僕はヒヨ理ちゃんの全身を眺めながら言った。
上下とも、長袖のジャージ姿だ。
臙脂色を基調とした、見たことのないデザインの体操着(胸元に校章がある)で、おそらくは中学時代のものを部屋着として使っているのだろう。
僕もたまに寝間着にしている。問題は、そこじゃない。
ヒヨ理ちゃんの腰から下は、広範囲にわたって黒く変色していた。
つまり――ぐっしょりと濡れていた。
僕の視線を追って、ヒヨ理ちゃんが下を向く。
そしてみるみるうちに、顔の赤みが増していった。
さっきの、あの音。
お腹の音とは別の、水が流れるような音。
あれは……
「こ、これはちがうの。ちが、違うんです。ちがくてっ」
顔をあげ、潤んだ瞳を僕に向ける。
こんなに慌てたヒヨ理ちゃん、はじめて見た。そんなヒヨ理ちゃんも、もちろん可愛い。
「これには、深い訳があって……」
「どんな訳?」
「それが、その…………おしっこ、我慢できなくてっ」
「……それで?」
「それだけ、です……」
全然、これっぽっちも深くなかった。完全に予想どおりだ。
「我慢できなかったんなら、しょうがないよ」
「…………」
それ以上の慰めの言葉も見つからず、僕はベッドの横のクローゼットから体操着(高校の)を取り出すと、真っ赤な顔をして押し黙るヒヨ理ちゃんに強引に持たせた。
「とりあえず、着替えよう?」
「…………はい」
背中を押すようにして、ふたり一緒に部屋を出た。
「それじゃ、僕は台所にいるから。なにか困ったことがあれば声かけてね」
「ありがとう……」
ぺこりと小さくお辞儀して、ヒヨ理ちゃんはしょんぼりと、けれど迷いのない足取りで、まっすぐに洗面所へと向かっていった……。
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