第22話


「ゆ、うしゃ、さま」


 呆然と信じられないものを見る様な目つきで、魔王が自分を――アリスを見上げてきた。一緒にいるシエルもいつもの無表情などかなぐり捨て、一心不乱に見上げてくる。

 どこか縋る様な二人に、アリスは意地悪く返してやった。


「ああ、そうだ。文句あんのか」

「う、いえ、そうでは!」


 尊大に相手をし、アリスは何事も無かったかの様に彼らの前に佇む。

 しかし、背中に思い切り魔法の衝撃を受けたせいで、服は破れるし埃や煤にまみれるしで散々だ。芝居のためとはいえ、やられたフリも楽ではない。

 だが、その甲斐はあった。

 目の前で無様に青褪めるじいやを、アリスは冷ややかな眼差しで射抜いてやる。それだけで尻餅をついたまま怯える姿は、いっそ痛快だ。


「ば、かな! 何で!」

「死んだふり」

「死っ!?」

「事情を知りたかったからな。俺が死んだふりすれば、ぼろぼろ喋ってくれると思ってな。三流悪役って、『冥土の土産』とやらが好きだろ?」


 この場合は少し違うか。

 訂正しながら、手にした剣を小さく振るう。つ、と首の皮一枚裂けば、じいやは竦み上がっった。

 が。


「――っ」


 竦み上がった拍子にクレスの服の裾に触れ、じいやはさっと振り返る。

 にわかに瞳に光を取り戻して彼女に縋ろうとするのを目にし。


「汚い手でそいつに触れんじゃねえよ!」

「ひいっ!」


 踏み砕く勢いで彼の肩に踵を振り下ろした。乱暴に床に縫い付け、クレスには、下がれ、と顎だけで指し示す。

 すっかり震え上がるじいやに容赦はせず、殺気で頬を横殴りにした。


「俺が生きてる理由は簡単だ。魔法で防いだからだよ」

「―――――」



 魔法。



 耳慣れたはずの単語は、しかし勇者には不釣り合いだ。じいやだけではなく、クレスやシエルも目を丸くする。

 まあそうだろうな、とアリスは面倒に思いながら続けた。


「正確には勇者の能力である魔力相殺を、魔法で出現させたってとこだ」


 何ともややこしいが、事実は事実だ。ただ、この方法は魔法に不得手の歴代の勇者では採れないもの。

 アリスがその方法を採れた理由は、ただ一つ。



 アリスが、初代以来魔法の才に恵まれた、文字通り稀代の勇者だからだ。



「取り敢えず、本を異次元に仕舞うくらいの魔法は扱える。使えるものは全部使うってのは常識だろ?」


 他人事みたいに語れば、クレスは合点がいった様だ。あ、と小さく漏らす。


「だから、あの時……」


 アリスが物語を語る前の不自然な仕草をクレスは覚えていた様だ。思えば、魔法を扱えることを知られていなくて良かったと今更ながらに安堵する。

 そうして一段落ところで、アリスは苦々しげにシエルに視線を移した。 


「シエル、これ貸しな。……さっさと俺の幼馴染治療しろ」

「――、え?」


 意味を掴みかねて呆けるクレスとは別に、シエルは大きく瞠目して――罰が悪そうに俯いた。

 だが、戸惑ったのも一瞬。シエルは「失礼します」と滑り込む。

 倒れているロッジとアデルの元へ音も無く近寄り、シエルは彼らに手をかざした。ふわりと柔らかな光で二人を包み込む光景に、アリスはようやく張り詰めていた息を吐き出す。

 正直、生きた心地がしなかった。



 仮初とはいえ、死んだ様に倒れる二人を目にするのは。



〝好きに動け〟



 アデルが倒れる間際、唇で伝えてくれなければ、アリスは本当に理性を飛ばしていただろう。

 自分なら大丈夫だと、笑顔が物語っていた。

 つくづく厄介な信頼の仕方をする二人だ。肝が冷えた。


「シエル、……貴様! わしの部下でありながら!」


 黙々と全力で治癒をするシエルに、じいやは遅れて我に返った様だ。顔を真っ赤に歪めて怒鳴り散らす。

 が。


「いいえ、デュー様。私が仕える方は、クレス様です」


 はっきりと言い切り、シエルは一度目を伏せる。


「貴方に道具の様に扱われる日々から引き上げてくれた旦那様とクレス様には、本当に感謝しております。ですから、彼女を救うためならば、例え己や他人の命を危険に晒しても、好機は逃がしません」


 表情を崩さず、けれど底知れぬ強い意志だけは瞳に乗せてシエルは宣言する。

 その眩い眼差しに、じいやは屈辱と憤怒で地団駄を踏んだ。まるで聞き分けのない子供の反応に、アリスは呆れ混じりに嘆息し、じろりとシエルを睨む。


「ったく、よくも俺の親友危険に晒したな。これで殺してたら、ぶっ飛ばしてた」

「……ぶっ殺す、ではないんですね」

「俺は、私情で人の命は奪わない。もしそれだけで動けるなら、八年前にとっくに動いてた」


 湧き起こる様々な渦を抑え、アリスは突き放す。

 全てを飲み込み、その上で判断した道を、もう決して踏み外しはしない。

 己の覚悟が伝わったのか、シエルは急所を穿たれた様にまつげを震わせ、頭を下げてきた。


「……申し訳ございません。私がやらなければデュー様の手にかかり、お二人が死んでいたかもしれないのです。ですが、……」

「良い。どうせアデルあたりが言ったんだろ。思い切りやれって。……騙すなら全力でってのがこいつらの性分だしな」

「……、付け加えれば、『アリスなら大丈夫だ』とも」

「……、ったく」


 本当に酷い信頼の仕方だ。頭が痛い。

 しかし、それで支えられているのも事実。ならば、後は二人の全力の信頼を背負って突き進むのみだ。

 アリスは剣を構え直し、会話の合間に何度も逃亡を図っては自分に牽制されて失敗している嘆かわしい人物に向き直った。



「ってわけで、お前の目論みもここまでだ。残念だったな――ハウエル」

「―――――」



 空間が凍り付いた様に止まる。きん、と凍えた音が乾いた様に転がった。

 ハウエル。

 二代前の、魔王の名。クレスの祖父であり、もう五十年以上も前に崩御した人物。

 その名をアリスが口にしたことに、嘲笑ではなく驚愕だったことが何よりの答えだった。


「な、ぜ」

「はっきりと疑ったのは、魔王部屋に入ってからだ。魔王は八年誰も入っていないと言っていたが、違う。……ハウエル、お前の愛読書の棚だけ随分と綺麗だったぞ。俺が埃を払わずとも良いくらいにな」

「……な」

「あの隠し部屋は魔王しか知らず、しかも魔王しか開けられないんだろ。魔王日記と同じ匂いがした」


 魔力の匂いを、アリスは魔法が扱えるが故に嗅ぎ取れる。

 だからこそ感付けたし、食い違いを発見したのだ。


「魔王が入ってないんなら、だれがあんな『操り人形』なんて悪趣味な本読むんだ。お前だろ、元魔王」

「……」

「あと、その容姿。聞いたぞ。お前たち魔族は、寿命十年切らないと髭も生えないんだってな。身体も思う様に動かないとか。じゃあ、何でお前、ぴんぴんしてんだ?」

「……………」


 的確に核心を突かれ、じいやは口ごもる。シエルとクレスは震える様に手を取り合い、アリスに頭を下げた。


「あと、シエルは、魔王を呼び捨てにすることを許されないと落ち込んでたんだってな。親友から聞いた。けど、魔王からは、いくら頼んでもシエルは呼び捨てにしてくれないと聞いた。噛み合わないだろ」


 シエルの性格からすれば、クレスに請われたなら呼び捨てにしそうなものだ。ましてや、彼女を心から思っているなら尚更だろう。

 しかし、呼べなかった。それは何故か。


「魔王の父親は、シエルをいつか養子にしようとしていたくらいだ。禁止になんてするはずがない。だから、考えた。シエルには、別に仕えなきゃならない奴がいたんじゃないかってな」


 クレスよりも、その父親よりも上。

 その人物が主としての独占欲が強く、二人の思想に反しているなら余計に許容はしないだろう。

 故に、シエルは呼び捨てに出来なかった。下手をすれば、クレスが利用され、危険に晒されるから。

 人と人との絆を悪用することが、痛くも痒くもない暴君。道具にしか映らない非道な主君。


「色々総合的に考えたら、お前の存在が浮かんだんだよ、ハウエル。実際、お前はシエルを部下って呼んだしな。……さぞ歯がゆかっただろうよ」


 整然と語るアリスに、屈辱からかじいやは顔を真っ赤にして震え出す。その様子の一つ一つが、真実だと公言している様なものだ。

 もう既に、彼はアリスの舞台に引きずり出されたのだ。お膳立てした、舞台装置に。


「ハウエル・リュシファース。僅か十年で退位し、その当時で御年六十七。そういえば、魔族って人間の三倍生きるんだよな。いや、ずいぶんと老け込んだものだ。……その方が、油断してくれるとでも思ったか?」


 愚の骨頂だな。


 アリスは鼻で笑い、吐き捨てた。

 その際に、じいやの細まっていた目が限界一杯に開かれ、瞼の奥に隠された色が露になる。

 不気味なまでに主張する双眸は、嫌でもアリスの目を釘付けにした。めくれる様に過去の記憶が開かれる。



 ぎょろりと、別の生き物の如くぎらつく紫紺の瞳。



 猛烈に牙を剥く眼差しは、アリスが忘れ得ない、見覚えのある瞳に瓜二つだ。

 父を殺した、父の親友の瞳。

 操られ、乗っ取られていた時のクレスの双眸。

 これが、長年アリスの瞼の裏に焼き付いて離れなかった、諸悪の根源。


「お粗末な芝居だったな。ま、三流なんてそんなもんか」


 黒幕など――真実など、肩透かし程度の場合がほとんどだ。それが立証された瞬間である。


「ま、て」

「しかも、俺如きに魔法防がれるくらいだ。俺は確かに歴代に比べれば魔力はあるが、それでも魔王よりは劣る。お前、本当に弱いんだな。……何度も魔王部屋に足繁あししげく通って、禁術を唱え直さなきゃならなかったわけだ」

「ま、ままま待て! 話し合おうではないか!」


 急に態度を翻し、がばりと土下座に徹し始めたじいやに、アリスは不機嫌面になる。


「何を?」

「……ひっ! お、おお前は言っていたではないか! 何のために『言葉』があるか!」


 眼力を鋭くすれば腰を抜かしたが、ハウエルはどもりながらもまくし立てる。必死の命乞いのため、口先だけの言葉が先走った。


「完全に相手を理解出来なくとも、相手の目線に立つ努力はしなければならないと!」

「……」

「その教えを自ら打ち砕くか? 勇者なのだ、自らの言葉に責任は持て!」


 及び腰で焚き付けてくるハウエルを、アリスは冷めた心で流す。

 記憶に留めておくなどおぞましい。自分の言葉をここぞとばかりに引用する卑しさに吐き気がした。



 ――ああ、こんな奴だったのか。



 アリスの心から、やけに冷静に熱が引いていく。昂る感情に反比例して、波が引く様に冷めていく。

 こんな奴が、クレスを苦しめていたのか。父親の死に絶望した直後から、八年という長い年月、苛まれていたのか。



 こんな奴が、父を殺したのか。



 直接でないとはいえ、殺したも当然だ。

 そもそもの仕掛け人は彼だった。



 こんな奴が、父の親友を陥れたのか。



 どん底から這い上がって、築き上げてきたものを叩き壊すために。



 こんな奴が、俺の心臓に杭を打ち込んだのか。



 紫紺の杭で、悪夢を見せたのか。

 己の欲望のために他者を心身ともに踏みにじり、愚弄し、人の絶望を酒のさかなにする、こんな奴のせいで。



 俺の大切な人は、散ったのか。



 こんな、己が傷付くことを誰よりも恐れる臆病者のせいで。



「勇者も所詮は人間よ! 綺麗ごとばかりを並べ立て、それを貫くことも敵わぬ弱者! 偽り、口から出任せで説き伏せ、裏切り続けるか。とんだ茶番よ!」



 ああ、煩いな。



 鬱陶しくて、アリスの耳も頭も素通りしていく。

 彼の言葉など、脳裏に書き留める価値もない。


「これではクレスも報われんなあ。憧れの勇者様が、幻想の勇者様が、本当に幻想でしかなかったのだからな!」


 こいつにとっての『言葉』は暴力だ。

 ――その『言葉』とやらで、この世の者達がどれだけ足掻き、苦しみ、悶え、溺れ。

 錯覚を、裏切りを、すれ違いを生んできたか。


 クレスも、シエルも、父も、父の親友も。

 みんな、こんな奴に志半ばで手折られてしまったのか。

 手折られようと、していたのか。

 それでも。



 ――彼らは伝えようと、信じようとした。



 言葉は、人と人を繋ぐ最たる手段。

 声になり、唇になり、手になり、目になり、足になり、心になり。

 仕草の一つ一つ全てが、その人にとっての『言葉』となる。

 伝えることを、伝えようとすることを諦めぬ限り、言葉は誰もが発せられる何よりも最強の『魔法』だ。


 そして、クレスもシエルも諦めなかった。


 クレスは、諦めようとしながらもアリスに伝えようとした。自分の周囲の真実を。

 ――止めて欲しいと。

 たったその一言を搾り出すのに、彼女にどれだけの勇気と覚悟が必要だったか。


 シエルは、足掻いた。

 忍耐を駆使し、虎視眈々と機会を狙い、クレスを救出するために命と名誉を賭け、投げ打とうとした。手段は褒められなくても、前へ進もうとする山よりも高く、海よりも深い意志と気概は誰にも否定は出来ない。


 そして、父は。



〝……どうか、……の、意志を、継い、で〟



 父達は。



〝自分達がしてきたことは、無駄では無かった〟



 誰よりもきちんと『言葉』を伝え合っていたからこそ、彼らは最後まで信じ合えた。信じ抜いた。

 死ぬ、その瞬間まで。命尽きるまで。魂を散らし、その一滴が蒸発する最後の最後まで、父は親友である彼を塵ほども疑いはしなかった。


 それが、どれだけ強固な絆であったか。


 親友を手にかけてしまった絶望が。

 親友にみすみす殺されるしかなかった無念が。

 命を脅かす者を伝えられずに放置したままなことが。

 自分達の夢である危険な橋渡しを、子供に託すしかなかった苦悶が。

 それを言葉として伝えられず、けれど誰よりも想いをこめて手渡そうと『言葉』にした父達の祈りが、どれほど気高く尊かったか。


 ハウエルは、何も分かっていない。


 何も、何一つ。理解する日など永遠に訪れないだろう。

 自分のことしか頭にない低俗には、泥みたいに独善的な彼の『言葉』では、絶対に解き明かせぬ謎にしかならない。

 だが、自分達なら継げる。

 継いで、歩いて行ける。共に。

 そう。



 ――俺達は、『言葉』を受け取り、父さん達の意志を継いでいく。



「……俺は、こうも言ったな。『人が何かを為す時は、必ず意味がある』と」



 一帯に、冷え冷えと酷薄が満たされる。静謐に響いた声は、己の声ではない様だった。

 やけに凪いだ心境で、アリスは淡々とハウエルを眺める。


「理由も原因も無い行動なんて存在しない。だから、それを知らなければならない。……お前はさっき教えてくれたじゃないか。魔王を操って、人間征服しようとした真意を」

「へ」


 思いつく限りの最高の意地悪さで嘲笑してやる。

 だが、目は笑わない。

 笑えるはずも、なかった。


「指一本一本切り落としたり、子供を親の前で殺すのが愉快なんだろ?」

「ふ」

「人間はクズで下等動物で虫唾が走る。泣き叫んで許しを請う姿がよだれが出るほど好物で、絶望しながら死ぬ顔は最高だって。実に分かりやすく心の内を明かしてくれたじゃないか。言葉を聞かせてくれた」

「は」

「なら、俺も答える。……安心しろよ。俺たち勇者は、決して忘れたりしない。自分が奪った命の重さを。例え、その相手が腐った考えの持ち主だろうと十字架は十字架だ。背負う十字架を忘れたりはしない。これも、一つの『言葉』だ。覚悟という名の、な」


 きん、と凍て付かせた金属音を鳴らし、アリスは一振り、二振りと剣を払って調子を整える。


 ――洗練された払いは、神に捧げる舞の様に身が引き締まった。


 風を、大気を、全て己の流れに乗せて従える。

 依然として、心ばかりも和らがない目元。増していく殺意。

 ハウエルは言葉どころか呻きを発することもなく、ただただ脂汗を滂沱ぼうだと流し、アリスの剣を凝視する。


「俺たち勇者は聖人君子じゃない。ただ、今自分に出来る最善を尽くしてるだけなんだよ」


 だから。

 そこで一旦言葉を切り、アリスは温度の無い眼差しを放る。

 剣を軽く振り上げ、慟哭を模す雄叫びの代わりとした。


「今見逃したら、魔王はこれからも己が仕出かすかもしれない罪に苛まれ、世界は俺たちが夢見た未来に向かって進めなくなる。故に、俺の選択肢はこれだけだ」

「――、ひっ」


 消えろ。


 残酷な処刑宣告と共に、アリスの剣が彼に向って振り下ろされた。風が鋭く唸る。

 ――が。


「っ!」


 咄嗟にアリスは真上に強く跳んだ。

 ごうっと轟音がうねると共に、遅れてぐしゃあっと恐ろしい音が床と壁で無残に鳴り響く。

 空中で一回転しながら後方に軽やかに着地し、すぐに態勢を立て直してアリスは見据えた。今し方、自分に魔力の塊をぶつけた者を。

 泣きそうに顔を歪めながらハウエルの前に立ちはだかり、右手に雷を携えるクレスを、アリスは苛立たしげに睨み付ける。


「クレス……!」

「っ、あ、ゆ、しゃさ、ま」

「……ひっひっひ! 馬鹿め! わしにはまだこやつがおる! この駒はわしの人形! しかもお前に匹敵すべき、歴代魔王の中でも屈指の魔力の持ち主よ! 全力でぶつかれぬ今のお前など木端微塵だ! 甘ちゃんが!」


 ひゃはははと狂った様に哄笑するハウエルは、実際狂っているのだろう。

 だが、そんな些末な事象はどうでも良い。アリスは、半ば意識を混濁させて虚ろな瞳となっているクレスを前に頭が沸騰し、ぶちっと唇を噛み切った。


「てめえ、どんだけ傷付ければ気が済むんだよ!」

「はっ、これぞ魔王よ! さあ、クレスや。あの目障りなハエを消し炭にしておくれ。勇者は魔王に討たれる宿命! 物語などくそ喰らえだ!」

「ふ、うあっ……!」

「……ったく!」


 滑る様に突進してきたクレスに、アリスは床を蹴りざま彼女の肩に手を置き、大きく前転する様に自身の体躯を宙に放り投げた。そのまま壁を蹴り、振り向きざまに稲妻を鞭打つクレス目がけて突っ込む。雷の群れの中、単身、猛スピードで突進した。

 目を見開くクレスを無視し、アリスは手にした剣を豪快に薙ぎ払った。しゃっと、鋭い音色が稲妻の乱舞を一刀両断する。

 触れた端から、次々と霧散して舞う稲妻の粒子。それはアリスの体に届く前にことごとく消滅し、潰え、道を開ける。まるでかしずきながら導きを示し、勇者という光を歓迎するかの如く。

 それを受け入れる様に、クレスは瞠目したまま棒立ちだ。

 それが一層、アリスを苛立たせた。



「勇者が魔王になんざ、討たれるかよ!」



 ダンッ! と怒号と共に、アリスは彼女の胸倉を掴んで床に叩き付けた。激痛とショックで呻く彼女に構わず、そのまま腕を拘束する。息つく暇も与えない。


「っとに、最後まで世話焼かせる奴だな!」


 忌々しげに舌打ちすれば、「ごめんなさい」と吐息だけで囁かれた。

 益々苛立つ。焦点の合わない彼女の瞳に、更に血管がぶち切れそうになった。


「立て」


 解放して、アリスはクレスを見下ろした。

 彼女は無言だ。自由になった四肢が、またもハウエルの意志によってアリスに狙いを定めるのを目にし、再度爆発した。



「立て、クレス!!」



 空気を引き裂いて一喝するアリスに、クレスはびくりと跳ねた。手の平に集中しかけていた雷は散乱し、虚しく火花がぱちりと鳴って虚空に吸い込まれる。

 アリスは敢えて無防備に近付き、怒気を乗せて彼女を叩き付けた。


「お前、魔王だろ。勇者の天敵で、強くて賢くて――誰よりも優しい魔王なんだろ? なのに、何やってんだお前」

「ゆ、う」

「そこらの陳腐な奴の言いなりになってんじゃねえよ! お前はお前だろ! だったら自分の意思できちんと立ってみせろ! はね付けてみせろ! 今の魔王はお前だ! その根性と能天気なまでの笑顔で、操り人形から抜け出してみせろ!」

「―――――――」


 怒涛の叱責を冷や水とし、クレスに真っ向から強く浴びせる。

 途端、清冽なまでの冷気となって、クレスの瞳が覚醒したのをアリスは見た。

 ハウエルを殺す。それだけなら簡単だ。



 しかし、それでは駄目なのだ。



 長い、本当に長い間闇の海にたゆたっていた彼女を真の意味で解放するには、彼女自身が立つ以外に道は無い。

 彼女が己の足で立ち、選び、乗り越えてこそ、初めて彼女は本当の意味で一歩を踏み出せる。

 彼女の意志で、父の跡を、継げる。


「大丈夫だ」


 囁く様に届ける。

 果たして、見上げてくる彼女の瞳にはどう映っただろうか。アリスには分からないまま、心を紡ぎ続ける。



「お前が立ち上がるまで、何度だってぶつかってやる」

「―――――――」



 だから、闘え。



 手を差し出せば、クレスの瞳がゆるりと揺らいだ。祈る様に閉じた瞼の下が潤んでいたのは、アリスの気のせいではないだろう。

 痛みに耐える様な彼女の表情。未だ、内部からハウエルの卑しい闇が浸食しているはずだ。手足を支配しようともがいているに違いない。

 だが。


「――はい」


 ゆっくりと、クレスが立ち上がる。

 その瞳には、もう誰にも縛られない強い輝きが宿っていた。



「私は、私の意志で。勇者様と、歩いていきます」



 にっこりと、極上の花の様な笑みをクレスは浮かべる。

 顔の筋肉は引きつっていた。少し動かすだけでも激痛が走るのかもしれない。

 それでも、歪ながらも満面の笑みは、彼女らしい強く優しい輝きだった。アリスがずっと焦がれ続けていた、一輪の気高き花だった。


 己の願いに、全力で応えてくれた彼女。


 ならば、自分も応えるだけだ。

 夜の様に鮮やかな紺瑠璃の瞳に、綺麗な決意表明が宿る。



 ――全て、終わらせる。俺達の、手で。



 だんっと、呼気と共にアリスは床を踏み締めた。思いのほか大きく鳴動した足音に、ハウエルが先程の勢いはどこへやら、尻餅をついて後退する。

 ずりずりと、アリスの殺意から目を外せないまま、情けない醜態を晒して尻だけで後退っていく。壁に当たり、背中に硬質で冷たい感触を受け、震え上がりながらとうとう腰を抜かした。

 滑稽だ、どこまでも。歴代魔王の名に泥を塗るのではと憂慮してしまう。


「ハウエル。俺は勇者だ。勇者ってのは、魔王を倒すために存在する。そして、人々の笑顔を取り戻すために戦うんだよ」

「な、なな、なら、そそ、そいつも、そいつも魔王ではないか! わしだけではない! そいつもお前が倒すべき対象で、憎むべき……!」

「安心しろよ」


 高らかに床を踏み鳴らし、一歩、アリスは歩み寄る。

 それに合わせてハウエルは後退ろうとして、背にある無情な壁に縮こまった。


〝だから、きっと大丈夫。彼となら、築いていける〟


「魔王は、倒される。他の誰でもない、勇者の手によって」


 思い起こされる過去の情景と共に、アリスは床をゆっくりと歩いていく。


〝私は願おう。

 いつか、きっと。人間と魔族が一緒に笑っている世界を、この目で見ると〟


 硬質な足音が、元魔王へと忍び寄る。

 だんだんと距離は縮まり、床に落ちる影は色濃くかげった。


「ただ」


〝理解してもらえないと、思っていたのに〟


 かつん、と。

 最後に踏み鳴らされた、死刑宣告で。


〝自分達がしてきたことは、無駄では無かった〟


 勇者と魔王を隔てる間合いは、ゼロになった。


〝私、人間が好きです。ロッジさんもアデルさんも〟


 ああ。


〝勇者様も。大好きです〟



 やっと、会えたな。

 やっと、会えたよ。



 自分が、父が、尊敬して止まなかった魔王に。その意志を継いで、誇り高く咲く魔王に。

 ひどく、遠回りしてしまったけれど。

 自分も父も、彼女と彼女の父親に救われた。

 だから。

 今度は、自分が。



〝止めて、ください〟



 彼女達を、救う番だ。



「俺が倒すのは、人間との共存を心から望み、命さえも賭ける魔王ではなく。お前みたいな人を人とも思わない、実の息子や孫すら快楽の餌にしてしまう悪逆非道の魔王だ。……きちんと仕事はこなしてやるよ」



 喜べ、勇者と魔王の物語の一部になれることを。



 淡々と宣言し、アリスはハウエル目がけて疾風の如く剣を振り下ろす。

 氷の上を駆ける様に、剣閃がハウエルの腹部に一直線に吸い込まれ――。


「くたばれっ!」

「……ひっ……!」


 強烈な咆哮と共に、衝撃を彼の腹に打ち込んだ。

 目を限界にまで見開いて、鳩尾を渾身の限りに打ち抜かれたハウエルは。



 ――泡を吹いて、気絶した。



「……、え」



 呆けた吐息が、クレスから漏れ出る。

 それもそのはず。

 ハウエルの腹に収まっていたのは、アリスの強靭で殺傷力の高い――かかとだった。

 ストレートに決まり、無駄の無い体重のかけ方も相まってその破壊力は絶大だったはずだが、死んではいない。踵越しに痙攣が伝わってきた。


「……はあ」


 呆気に取られるクレスとシエルの前で、アリスは剣を抜いた。

 最初から、彼を刺すつもりはアリスにはさらさらなかった。なので踵と同時に、剣は彼の横すれすれに突き刺してやったのだ。さっくり深々と床を切り裂いたのはご愛嬌である。

 ぱっくりと凹凸の見当たらない綺麗な断面を、二人が抱き合って神妙に見つめているのを尻目に、アリスは嘆息した。


「おい、魔王」

「は、はい!」


 振り返らずに指図すれば、クレスは反射的に飛び上がった。

 気配だけで分かりやすい彼女は、いつも通りの彼女だ。心の底から胸を撫で下ろした。


「今ならお前にかけられた禁術、解けるだろ」

「――――――」


 思ってもみなかった進言だったらしく、クレスはぽかんと間の抜けた表情になった。相変わらず威厳が欠片も拾えない反応に、アリスは半眼で指し示す。


「こいつは、魔王部屋に行って定期的に呪文唱えなきゃなんねえほど、『傀儡』効果は短時間しか持続しなかった。こいつ叩き潰した今なら、多分解ける」

「―――――――」


 言われた意味を噛み砕き、クレスの瞳がいっぱいに見開かれる。

 こんな簡単な事実にも行き付けないほど、彼女達は長年支配されていたのか。

 アリスは感傷に浸りそうになるのを堪え、続けた。


「俺なら、万が一またお前が操られても抑え切れる。シエルなら無理でも、勇者の俺なら可能だ」


 だから賭けたんだろ、シエル。


 恨めし気にアリスが見やれば、シエルは肯定も否定もせず、しかし深々と頭を下げた。その感極まった様な瞼の閉じ方が、何よりも雄弁だった。



 勇者の役目は、ただ魔王を倒すだけではない。



 困っている者には、例え魔族でも――魔王であっても手を差し延べる。真に世界の者達に等しく平穏をもたらすために。

 そして、その平和には魔王の力が必要不可欠だ。

 誰でもない、彼女という魔王の力が。


「魔王。お前の手で決着をつけろ。殺す必要はない。最後まで勇者に助けられっぱなしじゃ、魔王はでっかい借りを勇者に作るぞ」



 対等の相手となれ。



 言外に言い放てば、クレスは静かにアリスを見上げた後。

 ――床に手を付き、頭を下げた。

 シエルといい彼女といい、本当に土下座が好きな人種だ。似た者家族だと微笑ましくなる。

 今まで怯えて暮らしてきた分を、己で脱し。

 影に付き纏われてきた時間を、ここからやり直す。

 そのための道は、彼女自身で切り開く。

 そう。



 ここから勇者と魔王の、新たな一歩が始まる。



「……ありがとうございます、勇者様」



 再び顔を上げ、アリスの手を取った彼女の顔は。

 アリスがこの城に来てから一番の、飛びっきりの花の様な笑顔だった。






 むかしむかし、あるところに。

 物語の勇者、そのままに。

 彼は、世界を混沌にもたらす魔王を倒したのです。


 誰もが一生、この日を忘れたりはしないでしょう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る