第21話


 何が起こったのか。

 目の前で起きた現象を、クレスは呆然と見送った。頭は追い付かないのに光景だけは鮮明で、コマ送りの様に克明に映像が飛び込んでくる。


「――、え」


 荒々しい真っ赤な炎と共に、爆音がアリスの背後を――正確には彼の背中を、襲った。

 それを、クレスははっきりと見届けてしまった。冗談の様に、時間は緩やかに流れていく。



〝勇者を殺しなさい〟



 アリスを揺さぶる衝撃。弾ける赤い炎。焼け焦げる強い硝煙。

 ゆっくりと目を見開いて膝を付き、その場に抵抗なく彼が崩れ落ちる。

 その光景越しに、じいやの全身が目に焼き付いた。

 鈍く光る獰猛な眼差しはアリスを貫き、獲物を狩る牙を立てたその笑みに、クレスは「ひっ」と喉を痙攣させた。


 いつか見た悪夢。


 殺したくない。そう、願ったばかりなのに。

 現実は。



〝お前も、父親と同じ様に。勇者を殺しなさい〟



「……いやああああああああっ!!」



 願った直後に潰えた光。

 耳をつんざかんばかりの慟哭を、城全体に木霊させた。


「勇者様! 勇者様っ!」


 錯乱して叫ぶクレスを、シエルが肩を掴む前に、じいやが音も無く眼前に滑り出てきた。

 いきなり目の前に現れたじいやに、クレスが怯えて後退るのを許さず、彼は髪を掴み上げた。


「っ、い!」

「デュー様!」

「手こずらせてくれたな、クレス。お前も父と同じか。抵抗するとは、どこまでも往生際が悪い」


 乱暴に引っ張り上げ、クレスが呻くのをじいやは悦に入って見つめる。その姿は、地べたを這いずり回り、喘ぐ姿を舌舐めずりして楽しむ快楽者そのものだった。


「シエル、ご苦労だった。……本当なら、正気を失った勇者をクレスが殺すはずだったんだがな」


 冷たく吐き捨て、じいやはアリスを見下ろす。その目は獲物を捕らえた猛獣そのもので、クレスの頭から血の気が引いていく。


「まあ、クレスが殺されても、人間と魔族の関係が破綻するので構わなかったが。勇者が死んだ今、同じこと。……直系の勇者が根絶やしになれば、人間など取るに足らん。わしでも殺せる」


 喉を鳴らして嘲笑するじいやに、クレスがふるふると頭を振る。嗚咽を噛み殺して否定した。

 認めたくない。受け入れたくない。

 死んでなどいない。まだ生きている。今だって、きっと気を失っているだけ。

 なのに。



「諦めろ。勇者は死んだ」

「―――――――」



 抵抗は、粉々に握り潰される。ごりっと、じいやの足が勇者の頭を踏み付けた。

 ぴくりともしない彼の頭を、遠慮なく踏みにじる。


「本来なら、八年前に先代の勇者もろとも殺しているはずだった。それを、カーティウスめ。最後の最後で『傀儡』に抵抗しおって。おかげで、クレスが使い物になるまで待たなくてはならなかったわ」


 忌々しげに舌打ちして、じいやはゴミでも払う様にクレスを放る。

 がっと、頭を壁にぶつけるクレスを慌ててシエルが助け起こすが、もう立ち上がる気力もない。

 クレス様、と呼びかけるシエルの声が痛々しいほどに生気を欠いている。申し訳ないと片隅で思った。

 無力な自分を呪う。結局、自分は彼を解放出来なかった。



 シエルは、最初からじいやの手駒だった。



 彼は、昔奴隷の様に扱われていたのを、父が見かねて引き取ったのだ。

 だが、父が亡くなってから、また彼はじいやに良い様に扱われる存在になってしまった。

 クレスを人質に取られてしまったから。

 己が、無力に過ぎたから。



 クレスが、心の隙を突かれて『傀儡魔法』をかけられてしまったせいで、命運は決してしまった。



 運命のあの日。

 親友の所に行くと楽しそうに向かった父が、何故か血塗れで城の付近に倒れていると報告があった。

 信じられない気持ちで駆け付ければ、父は本当に瀕死だった。

 何故。あれほど強い父が。馬鹿な。

 混乱しながらも現実は非情で、じいやが助け起こしている場所へと、よろめく足を叱咤しながら駆け寄った。

 父は、何かを伝えようと唇を動かしていた。

 だが、もう声は聞こえず、読み取るのは不可能だった。今思えば、「じいやに気を付けろ」と言いたかったのだろう。


「……人間め」


 じいやは俯き、父が人間に殺されたと告げてきた。

 勇者が、殺したのだと。恨めしげに告げてきた。



 ――あれだけ心を許し、共に歩いた勇者がまさか。



 否定しながらも、一瞬だけ揺らいでしまった。

 魔王である父は、並大抵の実力者では倒せない。それこそ拮抗する勇者でなければ。

 そこまで考えてしまったから。

 小さく疑いが頭をもたげてしまったから。

 愚かにも、信じかけてしまったから。


「だから、クレスや」


 姫様、ではなく。

 呼び捨てにされたことに気を取られた、その時。



「お前が、勇者を殺しなさい」

「―――――――」



 すぶりと、闇色の縄が体中を巻き付け、心を縛った。

 一瞬だった。傍にいたシエルが、抗議を上げる間も無く。



「父と同じ様に。お前が、勇者を殺しなさい」



 ずぶりと、また深い闇が縄となって食い込む。体中の急所を的確に突いて、瞬く間に力を奪われた。

 脳裏に刻まれた記憶が無造作に、無遠慮に、横暴に蹂躙されていく。

 暖かな、穏やかな、明るくて優しい幸せな思い出が次々と暴かれ、奪われていく。

 全てが彼の前に曝け出される感覚は、無理矢理される口付けに酷似していた。足元から悪寒が這い上がって、おぞましい。


「あ、……あっ!」

「そうかそうか。お前はまだ知らないのか。真実、幸福に満ちた理想郷を。人間との共存などというおぞましいものがお前の宝箱だなんて、ひどく不幸な生い立ちだ」

「じいや様! おやめください、お願いします……!」

「黙れシエル。逆らえば、こやつを滅茶苦茶にするぞ」


 鋭い一撃と共に、シエルが地面に叩き付けられる。彼の震えて青ざめた顔と体に、クレスの目尻に熱い滴が溜まっていった。


「し、える」

「しかし、まさか勇者に恋するとは。魔王の名折れだな」

「ち、が」

「お前はまだ小さいから、もう少し成長してからだね。それまで、表向きは人間との友情を築こう。そうすれば、父を失った小さき勇者にも混乱を与えられる。……疑心暗鬼は、冷静さを奪う。来たる時に有利に働こう」


 楽しみにしているよ。


 愉快そうに囁かれ、全てを理解した。



 父は、この男に殺されたのだと。



 そして、父は。

 この男に操られたまま、勇者を――親友を、殺めてしまったのだと。



 罪悪感と絶望が、とてつもない重圧となって胸を押し潰した。いっそ自害したかった。

 だが、それはこの男によって邪魔をされ、体を支配されることなど日常茶飯事だった。

 普段は自由を許されるのに、肝心な場面では乗っ取られる。

 意識はあっても、口が勝手に動く。

 魔力の容量や技術ではクレスが勝っていたが、一度操られれば、その圧倒的な差異はあっさり覆される。命綱は彼に握られていた。


 彼が、直接勇者を殺害するのが、暴力的なまでの実力差で不可能な様に。

 自分が、彼の支配領域から逃れるのも不可能だった。


 生きる気力もない。

 けれど、死ぬことも出来ない。ただただ、政に精を出すより他に逃げ道が無かった。



 幼い頃に一度だけ会った、アリスとの手紙のやり取りだけが心の拠り所だった。



 父を、自分の父に殺されてしまった彼。

 きっと激しい憎悪と怨嗟を抱いていることだろう。自分が、一瞬でも彼の父を恨みかけてしまった様に。

 彼の手紙には幼き日の面影は無く、簡素な挨拶文と徹底された事務的な言葉だけが綴られていた。そこに一切私情が挟まれていないという事実が、逆に彼との確執の深さを如実に物語っていた。

 彼は、父の意志を引き継いで魔族との和平を進めている。



 だが、いつか彼は自分に狙われる。命を脅かされる。



 その時彼は、今度こそ魔族を許しはしないだろう。

 危険と判断し、放ってはおかない。勇者と魔王の絆は振り出しに戻るどころか、関係は更に悪化する。

 どうにか手を打ちたいのに束縛され、蹂躙されながらも傍にいてくれるシエルを解放することも出来ず。申し訳なさと不甲斐なさで、泣き明かした日も続いた。

 どうすれば。

 焦るだけで無駄に月日は流れ、無為に過ごしていたあくる日。



 ――彼が、やってきた。



 国境を踏み越え、自分に会いに来た。

 足元から噴き上がる、輝かしい覇気。紺瑠璃に秘められた意志は目を奪われるほど綺麗に磨き抜かれ、鋭い刃となって清冽に貫いてきた。

 澱んだ空気は瞬時に一掃され、死んだ様に横たわっていた心が息を吹き返す。

 彼が歩けば己の中の枯れた世界は生き生きと甦り、しなびた風が軽やかに舞い上がる。

 声を聞けば暗雲で埋もれた空は活力を取り戻し、世界を真っ白に、まっさらに光で照らし出した。

 そう。



 まるで、物語の勇者そのものだった。凛々しい、一振りの鮮烈なる剣。



 初めは全てを投げ出すつもりだった。ようやく終わりが見えて安堵した。

 彼は、自分よりも遥かに強い。負けたりはしない。物語の勇者の様に、悪逆非道な魔王を討ち取る。直感した。

 対面し、彼が剣を抜いて構えた時、その剣目がけて体当たりする様に飛び込んだ。

 彼の腕の中で死ねるのなら、それで良いと思った。

 なのに、現実にはならなかった。

 彼は。



 自分が飛び込む寸前、剣の軌道をずらしたのだ。



 彼が回避した理由は分からなかったが、それなら迎える最期の日まではと、彼との日々を堪能することにした。

 夢見ていた。彼の隣に立ち、笑うこと。


 彼と一緒にお喋りをして。

 食事をして。

 ココアを飲んで。

 歩いて。

 遊んで。



 共に、笑い合った。



 ベンチに二人で腰をかけ、物語を語れた幸せ。

 子供達に一緒にもみくちゃにされ、呆れる彼を見て忍び笑う楽しさ。

 叱られたことも、物語を聞かせてくれたことも、遠い遠い日の、遥か彼方に過ぎ去った珠玉の一コマの様に思えた。


 勇者様。

 届かない彼に、語りかける。



 私は、罪深い魔王です。



 自分では何も出来ない愚か者。彼に牙を剥くしか他に無かった。

 日を追うごとに、彼と共にいる間にも支配されることに恐怖した。

 話の途中で束縛され、彼が訝しげな顔をし始めた頃には、迫りくる期限を認識した。

 だから、タイムリミットまでに可能な限り真実を伝えたかった。魔王日記を読んでもらったのも、その一心だった。

 けれど、逆効果だったかもしれない。彼は、あの時ひどく激怒していたから。

 でも、知って欲しかった。



 父が、どれだけ彼の父に感謝していたか。



 一握りでも伝われば良いと、祈りにも似た願いを抱いた。自分が、殺される前に。

 なのに、どうして。



 ――どうして、今。貴方が倒れているのでしょう。



 本来なら、屍になっているのは自分だったはずなのに。

 何故、彼が倒れているのか。

 自分が悪かったのだろうか。さもしくも、過ぎた願いを抱いたから。

 止めて欲しいと。この呪縛から、解き放って欲しいと。



 もっと、生きてみたい。

 一緒にいたい。

 共に笑いたい。



 そう、愚かにも訴えてしまったから。



 だから。


「さあ、これから忙しいぞ、クレス。直系の勇者はもはや潰えた。新しい勇者を立てたとして、傍系ならたかが知れている。今こそ人間をなぶり、弄び、断末魔を音楽に恐怖で染め上げようではないか」


 じいやが高笑いを上げながら、恍惚と天を仰ぎ見る。

 首を振りたいのに動かない。完全に支配されて、クレスは為す術もなくアリスを見つめ続けた。


「人間など、所詮はクズ。下等動物。共存など虫唾が走るわ」

「……っ」

「指を一本一本切り落とし、いや、先に爪を剥がしてからか。両親の前で子供を斬り刻むのも愉快だ。泣いて叫んで許しを請うて……想像するだけでよだれが出おる」


 クレスの髪を再度引っ掴み、じいやは濁り切った笑みで瞳を覗き込んできた。

 ぐらりと、また頭の中を引っ掻き回され、世界が揺れる。


「ゆっくりと甚振いたぶり、絶望に溺れたまま命を絶つ時の顔は最高なのだぞ。その時が一番輝いている」

「……、い、や」

「お前の父親もな、見物だったぞ」


 またも繰り返される。

 この八年、何度も何度も耳元で囁かれ、叩き込まれてきた。

 父の最期。――もう、聞きたくない。

 だが、その願いは残酷に潰える。



「わしが、よくやったとあやつの成果を認めてやればなあ。ちょろいものよ! 親友に会う浮かれっぷりと相まって、『傀儡』をかけるのは容易かった」

「……、お、とう、さ」

「あの時の裏切られた顔! 友を殺した絶望の顔! 最高だったわい!」



 もはや悦に入り、優越に浸るままの罵詈雑言を聞き流し、クレスは力なく己の手の平に視線を落とす。

 自分は、直接手を下してはいない。

 だが、結局は自分がアリスを殺した。

 どうしてだろう。どうして、願ってしまったのだろう。

 なのに尚、愚直にも欲が溢れ出てくる。



〝クレス〟



 自分の名を囁かれるだけで、あんなに甘く、切なく痺れた。焦がれさえした。

 もっともっと、呼んで欲しい。他ならぬ彼の声で呼んで欲しかった。

 もう、叶いはしないけれど。

 それでも、耳に未だ震える響き。

 願わくば。もし叶うなら。

 初めて、彼が名を呼んでくれた様に。



「アリス、……さん」



 自分も、一度で良いから。



「――呼んだか」



 面と向かって、呼んでみたかったです――。



「――――――」



 強烈な違和感が、風になって吹き付ける。

 視線は床に固定したまま、もう一度名を紡いだ。



「……アリス、さん」

「だから、何だ」

「―――――、え?」



 しゃりっと上がった音に、クレスは限界までに目を見開く。後ろではシエルも愕然としているのを、振り向かないまま揺れる空気で察知した。

 この目は、幻を映しているのか。己の目の機能を信じきれなかった。

 それはじいやも同じだったらしい。クレスの眼前に――正しくは、クレスの前で高笑いをしていた彼の首筋にひやりとした刃の感触が存在することで、ようやく現実味を帯びた様だ。

 じいやはかちかちと歯を鳴らし始め、膝を笑わせていた。だらしくなく尻餅を付き、四肢が床に放り出される。

 彼に剣を向けているのは。

 クレスの絞り出した祈りに呼応したのは。



「ゆ、うしゃ、さま」



 太陽の如き光を象徴する金の髪。

 強い炎を秘めた紺瑠璃の瞳。

 己が心を奪われ、焦がれ、求めた勇者その人だった。


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