第20話
耳の鼓膜を突き破る轟音に、アリスは思わず顔をしかめた。
世界を引っ繰り返す勢いで揺れた大地に背中を押され、アリスはクレスの横を疾風の如くすり抜けた。彼女に背を向ける形になるが、奇襲を受けてもいなす自信はある。
アリスは、ひたすら駆けた。
嫌な予想が背中に執拗に貼り付いて気持ち悪い。小さな虫がぞわぞわと背筋を這い回る様なおぞましさに、ぞっとした。
何が、あった。
問いかけても返らない疑問を繰り返し、アリスは城の扉を蹴り飛ばした。己の身長の三倍、横幅に至っては十倍はある頑強な鉄扉をぶち破り、アリスは城内のエントランスに躍り出る。
「ロッジ! アデル! 無事か!」
幼馴染の名を、声の限り張り上げた。
彼らも、国では上位を争う騎士だ。そこら辺の魔族が束になってかかっても、蹴散らすだけの力量はある。
だから心配はしていない。そう、思い込みたい。
しかし。
「……おい! 返事しろ!」
直接体内を掻き回される様な胸騒ぎが、収まってくれない。
見回せば、城内では至る所で使用人がぐったりと質の悪い人形みたいに倒れ伏していた。その情景が、一層焦燥を煽る。
「ロッジ! アデル!」
エントランスから曲線を描いて上に続く階段を一気に駆け上がり、アリスはひたすら走った。
当たって欲しくない。不吉な思考に走りそうになるのを、懸命に押しやった。
が。
「―――――――」
〝好きにやれ〟
不意に、笑いながら背中を押してくれた声が、アリスの脳内に木霊する。
廊下の曲がり角を抜けた先。己の姿が映し出されそうなほど磨き抜かれた床に、不規則な斑点が飛び散っていた。
赤く咲く花の様だった。独特の臭気を充満させて、綺麗に咲き誇る。
剣を手にする者ならば、誰もが経験する光景。
アリスの視線の先には、シエルが静謐に佇んでいた。
手には人の腕を掴んだまま、酷く冷静な面持ちでアリスに淡泊に振り返ってくる。
そして彼の傍、床に転がっている人物は――。
「……、お、い」
探し求めていた幼馴染のロッジは、眠る様に床に転がり。
アデルは、シエルに腕を掴まれたまま、気力を振り絞る様にこちらを見上げ。
「……、リ、ス……、――」
「――――――」
にっこりと、こちらを安心させる様に笑って唇を動かし。
がくん、と糸が切れた人形の様に傾いだ。瞼はゆっくりと、眠りに就いたのだと言いたげに安らかに閉じていく。
その体が、彼らの血で塗れていなければ。勘違いしてしまいそうなほど、穏やかな表情だった。
――かつん。
その光景を割る様に、硬質な足音が前方から上がる。
不気味なほど大きく反射し、その音で辺りが闇に滲んで死滅していく。
窓から差し込まれた優しい夕日は、真っ赤な世界を更に禍々しく塗り替えていった。
「……、じいやっ」
シエルの背後から、じいやが厳かに歩み寄ってくる。
紫の瞳が見えるか否かくらい細い目は、残酷な現実を目の当たりにしても和らいだまま。人の死を見世物にしているかの様に、愉悦に満ちていた。
アリスは、呆然と親友を見つめる。
が。
何も、言葉が浮かばない。
あの日、父が死んだ時と同じ。
喉が震えることさえなかった。ただひたすらに彼らを凝視する。
どれほどの沈黙が続いたのか。
やがて。
どさり、とシエルの手から重い物音が落下するのと。
後方から強大な魔力の塊が襲い掛かるのは同時だった。
「……っ!」
反射的に床を蹴り、アリスは半回転して壁に着地した。
ほぼ同時に、どん、と今し方立っていた床が大きなクレーター並にひしゃげる。それを見届け、アリスは壁を蹴り飛ばしてクレスの後ろに飛びのいた。
「……魔王!」
「死んで下さい」
「っ!」
ふっと前触れもなく、眼前にクレスの顔が出現する。
そのまま猫の様に俊敏なしなやかさで、彼女は雷の束を槍の如く振り回した。
咄嗟にしゃがんでやり過ごし、床を蹴る。横で貫通音と一緒に壁が陥没していく様に、アリスは舌打ちした。当たればひとたまりもない。
だが、息つく暇など皆無だ。
「さようなら、勇者様」
あっという間に距離を詰め、クレスは雷の槌を振り
二、三ステップを踏んで間を取るが、間髪容れずに雷鳴の鞭が津波の如く迫り、アリスは仕方なしに腰にある剣を一気に振り抜いた。
しゃん、と凛冽な音を奏で、眩い一閃が風を斬る。
そのまま。
襲い来る雷に疾風を閃かせ、アリスは雷を叩き斬った。
「―――――」
途端。
雷が自身に撃たれた様に勢いを失くしていく。ぱらぱらと鱗粉の様に呆気なく霧散し、アリスの周りを花吹雪の如く舞った。
それはすなわち、魔法の無力化。
雷の残骸が粉雪の様に舞い散るその光景に、クレスもシエルも、そしてじいやも目を瞠った。
「――勇者と呼ばれた所以。物語の由来。まさか、知らなかったとは言わないだろうな」
剣を真っ直ぐ突き付け、アリスは厳かに告げる。
初代より受け継がれてきた、勇者にのみ扱える剣。それは、勇者自身に眠る力を発動する鍵だ。
――『物語』にある通り、勇者は魔を払い、跡形も無く昇華する。
剣を振るえばあらゆる生命は息を吹き返し、己の輝きを取り戻す。
その能力こそが、勇者と呼ばれる最大の所以であり、魔王の魔法に対抗する唯一の手段。
仮初とはいえ平和だったこの百年。魔王側では廃れたらしいこの情報は、勇者側には正しく継がれている。
そして、呆ける隙を見逃すアリスではない。
力強く床を蹴り、一気に間合いを詰めた。滑走する勢いに乗って、クレスの懐に飛び込もうとして――。
急角度で横に滑り込む。
コンマ遅れで、どん、と炎の柱がうねる様に床から吹き上がる。
「――遅いっ!」
頭上から豪速で振り下ろされるシエルの拳を、右足を軸に回転して避け、そのまま回し蹴りを食らわせる。
堪らず吹っ飛ぶシエルに構わず、アリスはクレスに突進した。その際、勢い良く剣を薙ぎ払い、風の波動をじいやに飛ばすのも忘れない。
クレスが鞭の様に振り翳す稲妻の嵐を綺麗に掻い潜り、アリスは彼女の左腕を掴んで壁に叩き付けた。衝撃で酸素を求めて喘ぐクレスを無情に拘束する。
「クレ、さ……っ」
「動くな!」
起き上がろうとするシエルへの牽制をこめ、剣先を彼女の心臓部分に乗せた。
ぐっと歯噛みするシエルに、初めてじいやの笑みが消える。
そんな二人を、クレスは静かに見つめた。ぼんやりと、何度も目だけで確認する。
彼女の瞳には、少しだけ光が戻っていたが。
やがて。
――静かに、目を閉じた。
荒い呼吸音だけが、この場に許された唯一の音源だった。
観念した様に、彼女は全てを曝け出した。首を捧げると、声なく告げてくる。
その瞼の裏に隠された、
「……っざけんなよ、お前はあああっ!!」
遂にぶち切れ、アリスは思いっきりクレスをぶん投げた。
どごおっと、実に派手で豪快な音がシエルの腹の上で鳴り響く。シエルが「ぐあっ!」と、いつもの冷静さを返上する様な潰れた声を上げた。
クレスはというと、ぐったりと、投げられたままの態勢で倒れ込んでいる。よほどダメージが大きいらしい。
だがそんな二人に、同情の余地など欠片も無い。
大股で歩み寄り、アリスは二人の横の壁を熾烈に蹴り抜いた。ぐしゃっと、壁が無残に崩れ落ちていく。
同時に、ありったけの気迫を二人にぶつけ、頭から押し潰す様に見下ろした。
その鬼気迫る迫力に完全に恐れをなしたのか、クレスはひくりと顔を引きつらせてシエルにしがみ付く。その頼みの綱であるシエルも、若干蒼い顔でアリスを見上げてきた。
「きーさーまー……いい度胸してんじゃねえか。ああ?」
「は、ははは、はい?」
真っ黒に燃え上がるオーラに、クレスは半泣き状態だ。
アリスは辛うじて笑みだけ口元に乗せたが、見下ろす目は全く笑っていないのが自分でもよく分かった。頭を抱え込んで縮こまる彼女に、容赦なく責め立てる。
「お前、いい加減にしろよ! どこまで俺をコケ下ろしたら気が済むんだ!」
「え、えええ!? わ、私、そ、そそ」
「俺が何のために恥を忍んで『勇者と魔王』の物語を、その後付きで聞かせたと思ってやがる! この俺が! わざわざ! 恥を捨てて! それを貴様、全部無駄にしやがって!」
「は、はひい!」
「なーにが『死んで下さい』だ! なーにが、『さあ、どうだと思います?』だ! ふざけんのも大概にしろよ! お前何様だ!?」
「え、す、すみ、すみませっ……!」
「言いたいこと言え! 俺に何を望んだのか、はっきり言え! 他ならぬお前の口でな!」
「―――――――」
罵倒と共に叩き付けられた勧告に、クレスは息を呑んだ。ばっと、弾かれた様に顔を上げる。
その驚愕に彩られた瞳には、先程の濁る様な色は見当たらなかった。
そのことに安堵して、アリスはすとん、と心に何かが落ち着いた感覚を味わう。
――もう、誤魔化せはしない。
自分の進む道。信じる道。
そして、彼女に抱く願い。
今度こそ、この足で進む道を踏み締めたかった。
魔都に来てからというもの、アリスは調子を狂わされてばかりだった。
それは、自分が迷っていたからという理由もあったが、何よりもこの魔王の存在が大きかったからだ。
――ああ。そうだ。
認めて、アリスはこの数日を振り返る。
最初に抱き潰されたこと。
怒ったこと。
作ってくれたチョコレートケーキを食べたこと。
一緒に歩いたこと。
ココアを飲んだこと。
城下で子供達と遊んで、一緒に面倒を見て。
どちらかというと彼女は子供に面倒を見てもらう形になることが多かったが、時折見せる母の様な姉の様な表情はひどく大人びていて、虚を突かれたりもした。
そして。
――彼女が笑っていると、何となく眩しかった。
自分に会えて嬉しいと、全力で語ってくれた彼女。邪険にしていたのに、それでも好意を躊躇なくぶつけ、慕ってくれた。
その言動に振り回され、たびたび複雑な気分に陥ったが悪い気はしなかった。
そうだ。
――自分も、きっと。嬉しかった。
くるくると変わる表情。眩しい笑顔。
いつまでも、見ていたい。
いつしか、そう願う様になっていた。
だからこそ、彼女が時々瞳から光を消す異変を見るたび、何かに突き動かされる様な激怒に駆られた。
彼女が、彼女じゃない感覚。目にするたび、クレスという人物がこの世界から消え去った様な喪失感。
けれど。
〝その物語の通りになることを、切々と
やっと、全てが一本に繋がった。
魔王を心から敬愛し、案じていた民のおかげで。
ああ、本当に。
「……言えよ」
彼女は、みんなに愛されている。
アリスの胸が、熱くなる。
きっとそれは、彼女の父が――自分の父が信じた親友が、愛される人だったからだろう。親の心は、正しく子である彼女に引き継がれた。
だからこそ辿り着けた真実に、アリスは心から敬服する。
「俺に、言え」
彼女に笑って欲しい。出会った時の様に、屈託なく笑って欲しかった。
そうすれば、自分もまた笑えるだろうか。昔みたいに。
いつしか抱く様になった願いだが、例え自分は笑えなかったとしても。
「一人で抱え込むな」
彼女には笑って欲しい。
理由なんて、どうでも良い。
泣いて絶望しているのなら、自分が全て振り払おう。
「誰にも言えなかったんなら、俺に言え! 憧れてたっていう勇者である俺に、全部ぶちまけてみろ! 『一生忘れない』なんて、今生の別れなんて言うな!」
だから、笑ってくれ。もう一度。
笑うことを捨てるな。
「最初から諦めんな! 命捨てんな! 父親のことも引っ括めて、何を抱えていたか、全部言ってみろ!」
「……っ」
笑って歩こう。
ココアを飲もう。
バルコニーから落ちても、何度だって助けるから。
「俺は勇者だ。絶望を希望に変え、恐怖を歓喜に塗り替え、闇に蹲る人々に勇気を授け、指し示す希望の光。……勇者様は寛容だからな。例え敵対する魔王であっても等しく光を分け与えるんだよ」
だから。
「言ってみろ。お前が望むこと、俺がこの手で叶えてやる!」
「―――――っ」
もう一度。心から、笑ってくれ。
願いながら、アリスはありったけの願いをこめて彼女に手を伸ばした。
クレスは、信じられない思いで彼が伸ばしてくれた手を凝視する。
シエルも、苦痛に歪みながらアリスから視線を逸らさなかった。いや、逸らせないのだ。それだけの強烈な輝きが、彼には秘められていた。
――何故。何故。
クレスの中で、疑心と焦燥が渦巻く。答えの無い問いかけが、口の中で形になっては溶け去っていった。
ずっと、憧れていた勇者様。
息が詰まる。声が枯れる。舌が乾く。喉が引きつる。
肝心な時に、言葉は形にならない。
それは昔からだった。
正確には、父が死んだ、その日から。
自分に決定権など無かった。願いは握り潰され、いつしか足掻くことにも疲れてしまった。
そう。
今だって――。
「なあ、『魔王』」
痺れを切らしたのか、アリスが先に口を開く。
途端、クレスの心がまた闇に埋もれていった。底など知れぬ、千を超える手の群れに引きずり込まれていく。
「お前、人間が憎いか」
城への帰り道と、同じ問いかけ。
――いいえ。
でも。
「――はい」
するりと滑り出たのは別の解。クレスの瞳から光が消える。
それに満足したのか、アリスは堪えきれないといった様子で薄く微笑を零した。
耳元で、笑い声がさざめく。軽蔑した様に喉を鳴らされた。
なら、とアリスは不敵に見下ろして。
「――クレス」
「――っ」
胸が、かあっと熱くなる。体中が沸騰して火傷しそうだ。鼓動がやけにうるさくなって、熱が集まっていくのを止められない。
初めて、名を呼ばれた。
果たして、彼は気付いているだろうか。
「言え。お前の言葉で。どうしたいかをな」
「―――――――」
〝どうしたんだ〟
求めろ、と手を差し延べてくるアリスに、かつての少年の面影が重なる。
幼き日、勇都で
太陽の如き眩く、月の様に柔らかい笑みを。
〝これ、やるから〟
あの時の、優しく暖かな光を灯してくれた紺瑠璃の瞳を。忘れることなどありはしない。
例え、彼が忘れても。
自分にとっては、掛け替えのない
「……、たく、ない」
勇者様。勇者様。
馬鹿みたいに、クレスは胸の中で繰り返す。ぽたぽたと瞳から何かが溢れて頬を濡らしたが、胸を焦がす熱を冷ますまでには至らない。
「殺、ない、です」
父みたいに。大切な人を、殺したくない。
嫌だ。
――嫌なんです。
いつか、夢見た未来。
人間と魔族が、肩を並べて笑う世界。
勇者様と一緒に、笑う日常。
「と、……、て、さい」
激しい耳鳴りが身体を支配する。
血を搾り取る様に悲鳴を訴え、喋るなと頭の中を掻き乱し、制止しようとする力が働いた。別の言葉を紡ぎ出そうと躍起になっている。
だが、止められない。止まりたくない。
魔王なのに、こんなことを頼むのは筋違いかもしれない。
でも、もしかしたら。もしかしたなら。
彼なら。この人なら。
〝お前も――〟
どうか。
どうか、魔王を。
「――止めて、下さい」
「――――――」
――ドンッ!
絞り出す声と同時に朱色に染まる衝撃が、どこか遠くにクレスには聞こえた。
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