第19話


 あらゆる生命が活発に動く時間帯を過ぎ、生い茂る葉や大地が眠りに向けて穏やかな茜色に優しく抱擁されていく中。

 アリスとクレスは、言葉もなく城へと続く坂道を登っていた。さらさらと控えめに風が流れる感覚に、アリスは委ねる様に目を細める。


 勇者と魔王の物語を語った帰り道。


 クレスは終始無言だった。

 何かに対して大袈裟なまでの反応を披露していた彼女にしては珍しい。静かすぎて恐いくらいだ。

 時折、ふわりと風に棚引く彼女の長い髪を、アリスは誘われる様に目で追う。

 夜を模した黒い髪の在り方は、まさに彼女自身だ。

 艶やかな色は大人の女性を連想させ、緩く巻かれた毛先は無邪気な子供を思わせる。彼女本人の性質が滲み出ていた。

 そして、今は。


 ――『どの』彼女だろうか。アリスは、慎重に彼女の背中を観察する。


 ずっとくすぶっていた違和感を見極める。その一心でアリスは今日、行動に移した。

 果たして、結果はどうだろうか。

 彼女はアリスの問いに、どう返してくるのか。静謐な泉の水面下で、荒々しく乱れる感覚を懸命に堪えて待ち望む。



「勇者様」



 静かな声音。

 なだらかに地面を滑る音は、どこか異端に響いた。


「私、ずっと考えていたんです」


 魔族と人間の在り方を。


 彼女の声のはずなのに、どこか空虚だ。

 ガチリと、遠くで歯車が一噛み外れる音がした。


「私、人間が好きです。お父様がずっと目指してきた、人間と魔族が仲良く笑って暮らせる世界を夢見てきました」

「……ああ」

「それが実現に近付くたび、ドキドキわくわくして」


 彼女の言葉は、一歩ずつ階段を昇っていく光景を呼び覚ます。

 ゆっくりと、時には立ち止まりながら前に進んでいく感触。アリスは、その先に彼女の求める扉があることを願った。

 だが。


「勇者様。私のお父様、殺されたんです」

「……、っ」


 世間話の様に、クレスは真実を風に流す。

 アリスも一瞬流しかけ――瞠目した。


「世間では病死になっていますけど。人間に、殺されたんです」

「―――――――」


 人間。


 その単語は、アリスの頭に空が降ってきた如き衝撃を与えた。どくりと、耳元で別の生き物の様に鼓動が乱打する。

 先代魔王は、殺された。人間に。

 自分の父が親友に――魔族である魔王に殺された様に。

 ――彼も?


「帰って来た時には、もう血塗れで。ちょうどこの辺りに倒れていたんです」

「……」

「傍では、じいやが診察していて。私が来た時にはもう手遅れで」

「……、じいや」

「父は、何かを言いたげに唇を動かしていたんですけど。結局、聞き取れませんでした」


 好奇心旺盛の子供の様に感情表現が得意なはずのクレスは、今は驚くほどに真っ平らで無気力だ。ざわりと、怯える様に傍らの木々が揺れる。

 またも降りる、無言。

 全ての音という音が、二人から切り離された様に消えていく。互いの間に、境界線の如く冷たい風が走り抜けた。


 ――嵐の前の静けさ。


 耳に痛い沈黙が、アリスの心をなだらかに冷ましていく。

 今なら、間違えようもない。



 彼女と言葉を交わしているのに、『彼女自身が抜け落ちている』違和感。



 もやもやしたこの感覚は、いつも無性に己を苛立たせた。

 過去から現在へ振り回し、掻き回し、理性という最後の砦を根こそぎ消し去っていこうとする感覚。

 ――きっと、それが『相手』の狙い。

 今度こそ、『勇者』を消すための静かで狡猾な罠だ。


「なあ、魔王」


 アリスは気楽な口調で背中に投げる。



「お前、人間が憎いか」



 クレスは、そこで初めて振り向いてきた。無感動に。無機質に。

 ざわっと、風が殺気立って巻き上がる。枝から落ちた葉が攻撃的に舞い上がって、空を覆った。


「さあ……」


 透明な曖昧さ。

 ただ、深い紫紺の双眸が濁りながらぎらつく。


「どうだと思います? 勇者様」

「―――――」


 口元には微かに笑みさえ滲ませて、光を削ぎ落とした紫紺が貫いてくる。


「……、さあ、か」


 アリスは過去に旅をする。

 ああ、知っている。この感覚を忘れようはずもない。

 目を、耳を、肌を、心を、無防備に鷲掴わしづかみにされたこと。

 あの時。



〝――カー、ティウス?〟



 父を殺された、あの瞬間に。紛れもなく、自分はこのぎらつく濁った瞳と対峙した。



 するりと、アリスが右手を剣の柄にかける。

 クレスは、静寂でそれを許した。さざ波にも似たそよ風が、ひらりと二人の間を舞った。

 直後。



 大地を揺るがす爆発音が、城の方角で炸裂した。 






「どうされたのですか?」


 波風立たぬ声が、硬質な廊下に響き渡る。

 窓辺から空を見上げていたアデルは、声の主に顔を向けた。隣で城下を俯瞰していたロッジも同じ様に振り向く。


「あ、シエルじゃん」


 ひらひらと手を振るアデルは、もう既にシエルに気を許している。隣のロッジも咎めないから同じだろうと、アデルは勝手に結論付けた。


「何か面白いものでもありましたか?」

「いやあ、アリス……様がどうなったかなーって。ずいぶん悩みながら魔王殿と城下に行ったから」


 辛うじて様付けをしたアデルに、シエルは思わずといった風に微笑んだ。

 普段無感動な彼が表情に変化をもたらすことは、多少なりとも気を許してくれている証な気がした。そのまま機嫌良く、アデルは窓に背を向ける。


「俺たちもここに来てから一週間くらい経つし。そろそろ国に戻らなきゃなんないから、アリス様も覚悟決めたみたいで」

「覚悟?」

「そ。決着、つけられそうだから」


 決着、と口の中で反芻してシエルは黙り込む。

 アデルやロッジからすれば当然の帰結でも、事情を知らないシエルからは不可解な発言だったのだろう。ロッジが苦笑してフォローする。


「まあ、悪い様にはならないだろう。そちらにもな」

「そうそ! 何たって、俺たちの『勇者』だし」


 言い切ってやれば、シエルは淡々と首を傾げた。外へと視線を移し、何やら考え込む。

 平素なら「そうですか」と切り上げそうなものだが、今日に限ってそうはならなかった。ロッジも同感なのか、少し表情が改まる。


「どうかしたのか?」

「いえ。決着は、こちらもつけなければならないので。ちょうど良いですね」

「は?」


 物知り顔でいきなり不可解な発言をするシエルに、アデルはきょとんと目を瞬かせた。ロッジは眉を跳ね上げ、さりげなく腰の剣に手を触れる。

 シエルの唐突さは、今に始まったことではない。真っ直ぐに敷かれた道を歩いていたかと思えば、急に鬱蒼とした獣道に飛び込むくらいのことはやりかねないだろう。


 だが、予感があった。


 いつも通りの無表情。ぴしっと背筋を伸ばした、執事然とした姿勢。

 なのに、警戒心が拭えない。

 まるで、同じ皮を被った別人と対峙している感覚に陥った。


「お二人は、本当に勇者様が大切なのですね」

「……それが?」


 自然と、隣のロッジの声が尖っていく。何かキッカケさえあれば剣を抜きかねない緊迫した空気に、じわりとアデルの背筋に焦燥が広がる。

 何だ、この威圧感は。

 頭から無遠慮に押さえ付けられている様に、膝を付きたくなる。喉元を抉られる光景が脳裏に喰らい付き、離れない。

 何故。

 彼に、何ら怪しい所作は見当たらない。

 それなのに、どうしてこんなにも、呼吸も胸も押し潰されそうなのか。


「実は、今日はお二人にお願いがありまして」

「……、何だよ」


 丁寧に腰を折り曲げて、シエルは丁重に懇願してくる。初めて出会った時と同じ姿勢だ。

 しかし、何かが異なる。警鐘が真っ赤に脳裏を殴打した。

 アデルが震えを抑えた声で尋ねれば、シエルはやはり無感動のまま一礼し。



「死んで下さい」

「―――――――」



 真剣な顔。誠実な声。

 シエルはシエル、そのままに。



 真っ白な光が、爆発した。






 ごめんなさい。



 私は。



 操り人形、なのです。


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