第18話


 昼下がり。

 深い蒼の波間をゆったりと泳ぐ、ふわふわした純白の雲の下。

 アリスはベンチに一人腰を掛けながら、陽気に駆け回るクレスと子供達を一望していた。出店で購入したチョコクレープにおざなりに噛り付く。味は、よく分からなかった。



 この一週間、城と城下を行き来していたが、魔都の構造はなかなか面白い。



 ミシェリアは城下の中央に大広場を置き、そこから放射線状に道や建物が伸びて入り組み、複雑な構造になっている。逃げ道を確保するためだ。

 対するリュシファースは、城から下ってすぐに広場があり、そこから扇状に街並みが広がる様な地形だ。斜面の上に城が建立しているのと合わせると、逃走という選択肢は最初から排除されている。包囲する場合、逃げ道を塞ぐのは容易い。


 人間と魔族は気が遠くなる時間の中、絶えず対立してきた。


 その過程で、魔族は最後まで人間に背を向けることを考えず、人間は人命を最優先とした。

 同じ『人』でも考え方は違う。十人いれば、十通りの思考が存在する様に。

 同じ時代を生きてきても、地域が異なれば生き方も変わる。 

 それは、人間と魔族という種族で隔たるだけではなく、人間同士でも当てはまることだ。

 魔族との共存を唱える者もいれば、「穢らわしい」と吐き捨てる者もいる。賛同者同士さえも、排斥する者もいる。

 人間にだって、これだけ違いがあるのだ。魔族同士だって同じだろう。

 人間だとか魔族だとか、そんなのは根本的には関係無い。

 人は人である限り、争うのだろう。



 そして、手を取り合うのだろう。



 上手く互いの主張を折り合わせ、歩み寄るのだろう。

 間違いを犯しながら模索する。自分達が望む道を、信じて進んでいく。

 人間も魔族も、きっと同じ様に生きていける。父が願った通り。自分も描いた様に。

 ――理屈では、分かっているのだが。


「俺、子供だなあ」

「おや、勇者様がそんな弱音を吐くなんて、驚きだねえ」 

「―――――」


 体をほぐすためにアリスがベンチの上で伸びをすると、お気楽な女性の声が落ちてきた。

 アリスは苦々しく、声の主へと視線を向ける。


「あーと、確かあんたは……キーファの母親だっけか。で、アクセサリー店の店主の妻」

「そうそう。よく子供の名前、覚えてくれてたねえ」

「毎日、『遊べー』って突進されればな。……そういや名前、聞いてなかったな。何て言うんだ」


 尋ねることに深い意味は無かった。

 しかし、女性は軽く目を瞠り、次いで破顔して隣に腰を下ろしてきた。


「あたしはケイトだよ。嬉しいねえ。初めてじゃないかい? 勇者様から誰かの名前を聞いてきたのは」

「……そうか?」

「そうだよ。あ、隣失礼するよ」


 飄々と事後承諾をしてくる彼女も、魔族らしくマイペースだ。アリスとしては頭痛の種が増える一方である。

 名前を聞く、という行為が初めてだと言われれば、確かにそうかもしれない。子供達の名前は散々相手にしていたから自然と覚えたが、大人達まで気にはしていなかった。

 魔族と、一線も二線も引いていたからだろう。アリスは他人事の様に分析する。


「しかし、悩み事かい? 最初から顔が曇っていたとはいえ、今日は特に酷いじゃないか。風土が合わなかったとか?」

「あー、……いや。魔王の突拍子の無い言動で気疲れは多いけどな」

「言うねえ、勇者様」

「事実だよ」


 うんざりと突き放すと、ケイトは「まあ、変わっているよねえ」としみじみ呟く。実感がこもっていたので、アリスとしても聞き流すには少々引っかかった。


「あんたもそう思うのか」

「まあねえ。私も百五十年ほど生きているけど、あんなに勇者様勇者様懐く魔王は初めて見たね」


 衝撃の事実を軽く流しかけ――アリスは頬張っていたクレープを喉に詰まらせた。根性で飲み干し、どんどんと胸を叩いて何とか胃の中に流し込む。


「ひゃ、ひゃく、ごじゅう?」

「おや、見えないかい?」

「あー、……そういや、魔族は人間の三倍は生きるんだったか」


 罰が悪くて頬を掻くアリスに、ケイトはおかしそうに「いいんだよ」とぱたぱた手を振る。外見上は三十前後に見える若い容姿に、妙に合っていた。

 そう。魔力は、あらゆる『もの』の老化を遅らせる。だからこそ、膨大な魔力を宿す魔族は、人間より遥かに長生きだ。


「すまないな。本で知識は得ていたが、寿命を全うした魔族はほぼいないとも聞いていて。外見のことは、よく分かっていない」

「そうだねえ。寿命を迎える前に勇者と魔王の戦で、というのが多かったからその通りだよ。あたしは天寿全うする気満々だけどね」


 ガッツポーズまでして茶目っ気たっぷりにウインクするケイトに、アリスもつられて相好を崩す。

 そして、子供達と一緒にこけているクレスに呆れながら、疑問を浮かべた。


「……魔王は年相応に見えるんだが」

「魔族も、二十歳前後までは人間と同じ歳の取り方をするよ。その後は、成長が緩やかになるのさ。寿命を十年切ったあたりで、急激に老け込む」

「急激?」

「そう。髪も白くなって、男性なら髭も蓄え始めてしわくちゃな老人になるのさ。体も思う様に動かなくなって、大体一日を座って過ごしているよ。歩くのも億劫になるし、反動かね」

「……」

「あたしは、あと百年あるかないかだけど。キーファが人間と仲良く遊んでいる光景を見るまでは、死ねないね」


 活発に跳ね回る息子を、ケイトは愛しむ様に眺める。そこには、嘘偽りの無い綺麗な本音が映し出されていた。

 アリスとしては、不思議でならない。

 長年培ってきた人間と魔族の互いへの不信感や嫌悪感は、簡単に拭い去れるものではない。根深い確執が、仰々しく横たわっている。

 だから、いくら先代や今の魔王が奮闘しているとはいえ、もっと人間との協調に毛嫌いする者がいたって良いくらいだ。

 なのに、城下では不愉快な態度を取られたことはついぞ無かった。



 そして、『勇者と魔王』の物語を平然と受け止めるその神経。やはり理解しがたい。



「……あんた達、不服じゃないのか?」

「何がだい?」

「人間との共存もそうだが、……勇者と魔王の物語。あれ、あんた達の主がコテンパンに叩きのめされるんだぞ。普通、あんまり良い気持ちしねえと思うんだけど」


 魔王を崇拝してきた魔族にとって、あれが最大の屈辱話だというのは、勇者であるアリスにも簡単に見通せる。もし、勇者が魔王に叩きのめされる話がミシェリアに流通していたら、人間も歓迎はしないだろう。


「まあ、確かにねえ。最初は複雑だったよ。条約が結ばれる前までは、勇者様が惨殺される話や辱める話、処刑する話とか、それはもうバリエーションに富んでいたしねえ。もちろん、破棄されたけどね」


 図らずも想像してしまい、ぐほっとクレープを気管に詰まらせ、アリスは噎せた。自分が惨殺されたり辱められたり、絵空事でも気分の良いものではない。

 やっぱりあったんだな、と酷な想像を散らして納得していると、ケイトにくつくつと笑われてしまった。アリスの頭の中も大概お見通しらしい。


「条約を結んだ時の魔族の反応は、それは酷いものだったよ。人間など征服や強奪をして当たり前の存在。何故、軟弱な人間と手を結ばねばならないとかね」

「まあ、そうだろうな」

「魔族を蹴散らす勇者様の強さに、恐怖も覚えていたしね。反対派の勢力は凄まじくて、当時の魔王様も苦労されていたよ」


 懐古に浸っているのか、ケイトは遠くを眺望しながら続きを紡ぐ。


「ただね。人間と殺伐とした意味で関わらなくなって、こっちも心に余裕が生まれたのかもしれないね。考える様になったのさ。……自分達が当然と思ってしてきた行為は、本当に当然だったのか、とね」


 少し伏し目がちなのは、どんな感情からくるものなのか。口を挟まず、アリスは黙って続きを待つ。


「昔から魔族の本性っていうのは、殺戮と破壊って言っていたけど、違うんじゃないかと思ったのさ。もしそれが本当なら、人間と交流を断った時点で、魔族同士骨肉の争いをしていただろう」

「……」

「けれど、そういう変化は起きなかった。自分達は家族や大切な人を大事だと思ったし、護りたいとさえ思った」

「……、それで?」

「気付いたんだよ。勇者様から自分達の大切な者達を護りたいと思う様に、人間も……勇者様も、同じことをしていただけなんだってね」


 語るケイトの視線は、アリスには向けられない。

 ただ、声にはほんのりと、注意していなければ聞き逃してしまうほど微かに、悔恨の念が混じっていた。


「それにね、勇者様と魔王は討ちつ討たれつな関係ではあったけれど、……根本的に違うなって気付いたのさ」

「……違う?」

「魔王は勇者様の国に侵攻することはあったけれど、勇者様からこの国を侵略することは、歴史上一度も無かったってね」


 言われて、アリスも気付く。

 確かに、日記を見ても国に乗り込んでくる魔王のことしか書かれてはいなかった。勇者がこの国に乗り込んだという記録は、どこにも見当たらない。

 魔族が、その点に着目したのか。目が覚める様な思いだった。


「学校で、侵略が悪いことだと教わったことはなかったよ。つまり、奪うことを恥とも思わなかった。自分達がされて嫌なことを、平然としていることに疑問さえ抱かなかった。……勇者様だって、自分達と同じ考えを持ったっておかしくは無かったのに、一度も魔国へ侵略してこなかった。それって、凄いことじゃないかい?」


 空を見上げて、ケイトは声を高くする。

 空ではピーッと甲高く鳴きながら、鳥が一羽、鼓舞する様に舞い上がっていった。


「勇者様は、勇気、勇敢、勇姿――その名を冠するに相応しい人格者だったってこと。それに、あたし達も気付いたんだよ」

「―――――――」

「まあ、それでもすぐに態度を変えられたわけではないけどね」


 人間が恐いことに変わりはなかったし。


 屈託なく喝采と本音を述べるケイトに、アリスは逃げ出したい衝動に駆られた。かっと頭に血が昇り、沸騰する勢いだ。

 そんな風に称賛される資格、自分にはありはしない。


「でも、俺は……」

「勇者様も、父親と同じだね」

「魔王を……、って」

「魔王討伐に来たって言いたいんだろうけど、クレス様をどうにかしようって感じじゃないね」


 ずばりと核心を突かれて、アリスは本気で心臓が口から飛び出るかと思った。ばくばくと騒がしく胸や皮膚を、雑音が乱打する。


「い、や。俺は」

「魔族のこともよく勉強している。文化もそう。初対面の時、あたしのつけているアクセサリーを見て、『ずいぶんと貴重な宝石だな』って言われた時には驚いたよ。この石は、確かに魔国でも採掘が限られる高価なものだ。それを言い当てるなんて、よほどこちらの文化や地理を勉強していなければ無理だね」

「……っ」


 ことごとく封じ込められ、言葉を濁す。よくぞまあ、そこまで記憶にしっかり刻んでいたものだ。大した観察眼だと舌を巻くしかない。


「ま、この石はうちの店の鉱山から取れるものでね。だから安くできるんだ」

「……、はあ」

「それに、子供達のこと。興味無さそうにしながら、よく面倒を見てくれている。花冠みたいな恥ずかしいものも、その場で取ったりしない。危ないことをしそうになったら口を挟んで説教するし……本当に魔族が憎いなら、そんなことはしないよね」

「……………」


 完敗だ。本当に彼女はよく見ている。

 魔族の知識に注意を払わなかった自分も自分だが、彼女も彼女だ。自分という勇者を見極めようと目を離さなかったのだろう。


「子供も敏感だよ。敵意を持っていたら、察して近付いたりしない。あんたのこと、心から慕っている。キーファも家で勇者様勇者様と、まるでクレス様みたいだよ」

「……」


 クレスの子供バージョンが、そこかしこに繁殖する図。「ゆうしゃさまー」とちょこまか走り回るクレス予備軍を思い浮かべるだけで、疲労度が倍増した。

 ぐったりと死にそうにベンチにもたれかかるアリスに、ケイトは楽しそうに喉を鳴らした。

 完全に玩具おもちゃにされている。悔しさよりも、休息を渇望する己の精神力が憎い。



「……クレス様、九歳の頃に先代がお亡くなりになってから、塞ぎ込んでねえ」



 今度は何だ。

 糾弾したくなるのを大人の余裕で受け流し、アリスは仕方なしに座り直す。


「ようやく顔を見せてくれる様になったら、クレス様、それまで以上に『勇者と魔王』の物語を読み聞かせる様になったんだよ。毎日毎日、病的なまでに」

「―――――――」


 どくり、と嫌な感じにアリスの心臓が跳ねる。

 得体の知れない胸騒ぎ。無遠慮に自分の心を手で掻き回されるかの如く、強烈な悪寒が全身を撫で回す。

 一体、何だ。

 ちくりちくりと、胸を刺す痛みが自己主張して、違和感を風船の様に膨らませていく感覚に、アリスは打開策を練れないままケイトの昔話を耳にする。


「一時期大人が心配になるほど、毎日毎日話していたよ。それまでも言っていたけどね。勇者様はカッコ良いし、優しいし、強いし、救世主だし――」


 想像だけで、よくぞまあそこまで。

 呆れを通り越して感心してしまったアリスに、ケイトは愉快そうに更に十項目ほど挙げ連ねてから――ふっと淋しそうに眼を伏せる。

 それは、どこか遠い存在を見守る眼差しに似ていた。


「今は、昔ほどじゃないけどね。でも、自分達の目から見ても、あの時は異常だった。縋るみたいに物語に執着していたよ」

「執着?」

「そう。まるで」



 その物語の通りになることを、切々とこいねがうみたいだった。



 吐息にも似た囁き。ざわりと、風が不安げに舞い上がる。

 ぱらぱらと、アリスの中でピースが砕けていく。その後、再構築して確かな形をかたどっていった。

 かちりかちりと、再生されたピース一つ一つが、流れる様に枠内に収まっていく。



〝勇者様に会えたこと。私、一生忘れません〟



 ああ、そうか。そうだったのか。



 すとん、とアリスの中で唐突に腑に落ちる。

 違和感は、真っ赤な警鐘。自分に道を教えて、照らす明かりだったのだ。

 あの時、クレスを助けた時に閃いてしまった予感は、何よりも正鵠せいこくを得ていた。


「勇者様。こんなこと、頼める筋合いではないのかもしれないけどね」


 クレス様のこと。


 遮って、アリスは手を軽く振った。皆まで言うなと、言葉の代わりとする。

 安請け合いなどもってのほかだ。彼女が、真実にクレスのことを憂えているならば。

 ケイトが落胆で肩を落とし、一緒に視線も力なく地面に落とすのを、アリスは無表情に見つめる。



〝その心を、今感じたことを、絶対に忘れないでおくれ〟



 かつての父の言葉を思い返しながら、アリスは顔を上げる。

 そこには、勇者の天敵である魔王がいた。舞い落ちる陽光を照り返し、艶めく漆黒の髪が、ふわりと風に乗って気持ち良さそうに棚引く。

 子供と一緒に楽しそうにはにかみ、春の陽気を受けてのびのびと笑う彼女は、花の様に咲いていた。



 綺麗だと、素直に感嘆した。



 屈託なく笑い、楽しそうに舞う彼女。見ているこちらまで釣られて笑いそうになるほど、春が咲いていそうな笑顔だ。

 現に、彼女の周囲には笑いが絶えない。いつだって誰かが笑みを咲かせ、それが伝染するみたいに周りも花開いていく。


 目を閉じると、父の幸福に満ちた笑みが明滅する。


〝きっと、アリスも好きになるよ〟


 そして。


〝大好きです〟


 一緒にちらつき、瞬くのは――。


「……おい、お前ら」


 よく通る声で、アリスは走り回っていた子供達に呼びかける。

 誰に声をかけているかも判然としない不親切な内容だったのに、正しく伝わったらしい。一斉に振り返ってきた。


「なになにー?」

「ゆうしゃ、何だ!」


 わらわらと、子供達が好奇心いっぱいに目を輝かせて駆け寄ってくる。ぴょん、と膝に飛び乗ってくる男の子までいて、アリスは憮然とした表情を見せてから頭を撫でてやった。

 途端、ぱあっと桜が満開になる様な笑顔を子供達が咲かせていく。構ってくれて嬉しいと、顔いっぱいで彼らは語っていた。

 何だか気恥ずかしい。咳払いをしてから、「あー」とアリスは仕切り直しを図った。


「お前ら、勇者と魔王の物語に興味あるか」

「うん!」


 即答は凄い。感嘆を禁じ得ない。


「……じゃあ、今日はミシェリアの『勇者と魔王』の物語、聞かせてやろうか」

「――――――」


 静寂が、不自然に舞い降りた。

 子供だけではなく、彼らの保護者、隣のケイトまで絶句している様だ。当惑が、陽炎に模して揺れている。

 やっぱ興味無いかな、とアリスが早々に自分の決断に後悔し始めた時。


「聞きたい!」

「聞かせて、勇者様!」


 きらきらと純粋なおねだりを響かせて、子供達が更にアリスの元へ寄ってくる。

 取り敢えず子供達の関心を向けられたことに胸を撫で下ろしつつ、アリスはクレスの様子を盗み見た。


 彼女は、両手を合わせて期待に胸を膨らませ、子供達の後方に座り込んでいた。


 仮にも魔族を統率する魔王が地面に正座するなとツッコミを投げたくなるが、効果は欠片も生まれないだろう。

 それに、子供みたいな笑顔の後ろに、子供達を見守る母の様な姉の様な一面も垣間見えた。無粋な指摘は、むしろ愚策だ。

 彼らが聞く態勢に突入したところで、アリスは右手を空中に掲げ――。


 結局、下ろした。クレスが不思議そうに自分の仕草を見つめてきたが、無視をする。


 本など無くとも話せるだろう。ページの端が擦り切れるほど熟読した。

 何度も、何度も。それこそ、彼女に比肩するほどの愛読書だった。

 ――話すのは久しぶりだ。

 勇者になってからは、子供達に読み聞かせることなど無かった。喉が、急に砂みたいにざらつき、乾いていく。



「……むかしむかし、あるところに。世界の果てに一人の魔王がおりました」



 出だしが、少しだけ震えた。

 膝の上に乗っていた子供が心配そうに目尻を下げるのには、頭を撫でるだけで返事をする。

 ここで終わるわけにはいかない。虚勢を張る意味で息を整え、紡いだ。




『見渡す限り、地平線しか見えない広い荒野。

 万を超える魔族を従え、魔王は言いました。


「ここに、自分達の国をつくろう」


 魔族はすぐに賛成しました。

 畑を耕し、木を切り倒し、村を創りました。

 魔王は彼らを導き、困っている者に心を砕き、民の声に耳を傾ける良き主であろうと一生懸命でした。

 最初は村から始まり。街になり。やがて、大きな国にまで発展しました。

 さみしかった景色が賑やかになったことに、魔王はとても満足しました。


 魔王は、城から民を見守っていました。

 魔族は、楽しそうに暮らしていました。


 桜の下で、家族が幸せそうに笑っていました。

 夏の太陽の下で、子供達が元気に走り回っていました。

 鮮やかな紅葉の下で、恋人達が仲良く歩いていました。

 真っ白な雪景色の下で、人々がみんなで年を越していました。


 魔王は、ずっと見ていました。

 来る年来る年、眺めていました。



 魔王は、旅に出ました』



 滔々とうとうと感情をなるべくこめずに語る物語に、子供達も大人達もいつの間にか真剣に聞き入っていた。

 全員が一様に同じ表情を浮かべていることが、アリスには何だかおかしくて――共感も覚えた。



『魔王は、人間の国にやってきました。

 彼らも、楽しそうに暮らしていました。


 桜の下で、家族が幸せそうに笑っていました。

 夏の太陽の下で、子供達が元気に走り回っていました。

 鮮やかな紅葉の下で、恋人達が仲良く歩いていました。

 真っ白な雪景色の下で、人々がみんなで年を越していました。


 ただ、違うのは。

 人間は魔族では無い、ということだけでした。


 魔王は、歩きました。

 笑っている人々の中を、歩いて、歩いて、歩きました。

 魔王は、旅をして、旅をして、旅をして。

 ある日、決めました。


「人間を、滅ばしてしまおう」


 魔王は居城に帰った後、魔族に命令を下しました』



 聞いている者の表情が物語へと潜っていく。

 深く、深く。

 アリスも、そうだった様に。ひたすらに深く沈んでいく。



『魔族は命令通りに、人間の国へ侵略を開始しました。


 突然の侵攻に人間は為す術も無く。次々と殺され、服従させられていきました。


 他者を支配することを覚えた魔族の行為は、日に日にエスカレートしていきます。

 あれだけ太陽に愛されていた人間の国には、一筋の光さえ差し込まず。雲の後ろに隠れて震え、姿を見せようとはしませんでした。

 大地はやせ細り、草木は死に、屍が積み上がり、明日の未来さえ絶たれる中。



 一人の勇敢な若者が、魔王に牙を剥きました。



 類稀なる天賦の才を授かった、稀代の剣士。

 駆ける姿は、光を思わせる疾風の如く。

 剣を振るえば、落ちた風が空高く舞い上がり。

 声を発すれば、沈んだ青空は息を吹き返し。

 一歩歩けば、乾き切った大地は潤い、活力を取り戻す。


 まさに、絶望に差し込んだ一筋の希望でした。


 勇者と崇められた若者は、見事魔王を打ち倒し、平和が訪れました。

 太陽は再び空に昇り、大地を神々しく照らしました。

 それは、数年ぶりに見る光の世界。


 人々は勇者に感謝と信頼を示し、一国の主と崇めました。

 勇者は愛する伴侶も得て、末永く国や民を幸せに導いていったそうです』



 しん、と痛いほどの静寂が場を支配する。

 そうだろうな、とアリスも予想していた。


「――その後」


 ぴくりと、全員の耳が動く。

 これには、まだ続きがある。

 目に見える形ではなく、書物に記されているわけでもない。

 聞いた人が感じたままに、この物語はその後を綴っていく。

 だから、これは。



 アリスが感じ取った、物語の続き。



『勇者は、魔王の城へと向かいました。


 それは、予感だったのかもしれません。

 単身で、勇者は城へと足を踏み入れました。


 城に向かうまでは大勢の魔族がいたのに。

 城の中に足を踏み入れた途端、人の気配はぱったり消えました。

 不思議でした。



 その城には、人が住む気配がしなかったのです。



 勇者は進みました。

 一つ一つ、ゆっくりと。噛み締める様に、部屋を覗いていきました。


 部屋。部屋。食堂。浴場。部屋。部屋。部屋――。


 そのどれにも、人が住んでいた形跡はありませんでした。

 無人です。

 そう。


 最初から、魔王以外誰もいなかったかの様に、生活感がまるで嗅ぎ取れませんでした』



 どうしてだろう。

 幼い頃、アリスはずっと疑問だった。



『勇者は最後の部屋に辿り着き、意を決して扉を開けました。

 当然、誰もいません。

 ただ、今までの部屋とは違い、そこには確かに誰かがいたという証が残っていました。

 ベッドの上のまくれ上がったシーツ。手垢がついたタンスや引き出し。中途半端な位置にある椅子。机の上に走る傷跡。散乱する書類。半分だけ閉められたカーテン。

 カーテンを開け、机の横にある窓から、勇者は外を見渡しました。


 そこからは、魔族の住まう城下がはっきりと見下ろせました。


 幸せそうに笑う家族。

 元気良く駆け回る子供達。

 腕を組んで仲良く歩く恋人。

 みんなで顔を突き合わせて、手を取り合う民。



 本当に、くっきりと。そこだけが光り輝く様に見渡せました。



 魔王は、心から魔族を愛していたのだろう。直感しました。

 だから――。


 ――そこから先は、勇者は首を振って濁しました。

 それは、安易に口にされて良い言葉では無いと思ったからです』



 何故、魔王は人間を滅ぼそうと決めたのだろう。



 魔王は、何を思ってその光景を見守っていたのだろう。

 何年も、何年も見守って。

 人間も、魔族と同じ様に暮らしていて。



 ただ。魔王だけが、その輪から外れていた。



 枯れた大地を賑わせて、再び無かったことにすることも出来ず。

 愛した魔族を死に追いやるには、理性が働いて。

 やり場の無い感情を持て余して。



『どうして、話し合いという道を思い付かなかったのだろう。

 どうして、言葉を使わなかったのだろう。


 どうして。魔王の心を、知ろうとしなかったのだろう。


 勇者は後悔しました。

 そして、考えました。


 どうすれば、もう魔王みたいな人を生み出さないですむのか。過ちを繰り返さなくてすむのか。

 来る日も来る日も考えました。


 過去を振り返ってばかりは愚かなこと。

 誰かがそう言って馬鹿にしたけれど、振り返るのと忘れないのとは違う。勇者は信じていました。


 どうあったって覆せない過去は、未来を生きるための道しるべであり、戒め。


 決して忘れてはいけないのです』



 ああ、そうだ。そうだったな。

 自分は、最初から答えを出していた。悪夢にどう対処すべきなのかも。

 解答は、自分の中にこそ眠り、息づいていた。



『勇者は、魔王のことを決して忘れませんでした。

 自分が犯してきた罪を握り締め。


 二度と、彼の様な悲しい人を生み出しはしない。


 その誓いを生涯抱き、勇者は天に召されるまで尽力したそうです』



 ぱたん、と本を閉じる真似をして、アリスは両手を合わせる。

 はっと、子供も大人も、我に返った様に瞳に光を取り戻した。

 まるで催眠術だ。アリスは心の中だけで自嘲する。


「……最初、この物語を聞いた時、不思議だったんだ。魔王が、人間を攻める理由がはっきり書かれていなかったから」


 納得がいかないと、父に抗議したことがある。

 たかが物語と片付けるには、痺れる様な痛みを訴えてくる力が強力に過ぎた。


「そうしたら、父は『そこから感じ取ったことこそが、大切で、意味があるのだよ』って諭してきた」


 笑って抱き上げて、嬉しそうに父は頭を撫でてきた。

 愛しそうに、慈しむ様に。


「忘れるな、そこからは自分で考えろって。……だから、『その後』からの物語は、俺が勝手に作り上げた、俺だけの『勇者と魔王』の物語だ」


 余計な茶々を入れず、子供達は食い入る様に見上げてくる。

 何を意図しているのか。一字一句漏らさずに聞こうと、かじり付いてきた。

 それだけで、アリスには成果があった。

 ――充分、だった。


「人が何かを為す時は、必ず意味がある」


 理由も原因も無い行動なんて存在しない。

 それがどれだけ不規則で、無意味で、例え狂っている様にしか映らなくても、必ず感情が底に眠っている。


「俺たち『人』は、それを知らなければならない」


 時には相手の立場に立って、同じ視線から見ようとしなければならない。

 完全に理解なんて出来ないが、それでも。


「努力をしなければならない。そうすれば、俺たちは歩み寄れる。そのために人には――『言葉』がある」


 物語の魔王は、それを使わなかった。


 最初は小さな破綻だったのだろう。

 それが重なり、絡み合い、最後には手遅れなまでに膨らんで、どこかで亀裂が決定的になってしまったのだ。


「この物語を聞いてどう思うかは、どう続いていくかはお前たち次第だ。……だが、忘れないでくれ」



〝美味しいと思う気持ちは変わらない。魔族も人間もないよ〟



「俺たちは、同じ『人』なんだ」



 父が、魔王にそう言い放った様に。

 どれだけ否定しようと、言葉があり、思考が備わっている限り、変わらない。

 自分達は、『同じ』なのだ。


「言葉があれば、自分の心を、叫びを伝えられることも覚えていて欲しい」


 例え、どれだけ言葉を尽くしても、どうにもならなくて剣を取るしか方法が無くなったとしても。


「どうか、あがいて欲しい。諦めないで欲しい」


〝私は願おう。

 いつか、きっと。人間と魔族が一緒に笑っている世界を、この目で見ると〟


 父が、最後まで諦めなかった様に。

 自分も、もう一度。


「伝えようとすることを諦めれば、それは相手との繋がりを、歩く未来を放棄したのと同じだから」


 俺からはそれだけだよ。


 締め括り、アリスは張り詰めていた息を吐き出す。

 年齢を問わず、それぞれ思索にふけっているのが印象的だった。






「アリスはさ。最初の魔王への一撃、わざと外したじゃん」



 だから、もうお前がどんな行動取るかは、ちゃんと心得てるよ。

 好きにやれ。



 幼馴染二人に苦悶も本音もぶちまけ、アデルに断定された一言に。アリスは、ようやく解放された気がした。

 だから。


 今度は――。


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