第17話
室内のソファに深く腰を掛け、アリスはぼんやりと頬杖を突いていた。一冊の書物を膝に置き、こぽこぽと温かい液体が注がれる音を遠くに聞く。
不自然なまでに静かな鼓動。とくり、とくりと己の胸の音に浸りながら、思考も潜る様に沈んでいく。
膝の上の本は、勇者日記だ。
昨日の魔王日記に触発され、思い出が揺り動かされた。引っ張り出してしまったのは、お守り代わりなのだろうか。アリス自身よく分からない。
だが、開くまでには至らない。
――恐い、のだ。
自分の中で、答えが見出せない。見えていたはずの目的地が蜃気楼の様に通り抜け、幻だと嘲笑われる。
敵討ちなんて、望んでいなかったのかもしれない。ならば、何を願っていたのだろうか。
身勝手な願いのせいで、信頼する友人や宰相まで巻き込んで、自分は一体何をやっているのだろうか。
魔王を、討つ。
名目は、しかし砂上の楼閣の如く崩れ去っていく。
〝勇者様! 会いたかったです!〟
自分は、本当に――。
「アリス様ー」
「……………」
ひょいっと、頭上から逆さまに顔を覗き込んでくるアデルに、深刻な岐路に立たされていたアリスは渋面でもって応じた。
あまりに能天気であっけらかんとした調子は、彼らしい。
だが、今のアリスには煩わしさしか無い。故に、存在そのものをスルーした。
「アリス様、アリス様、アリス様ー。おーい」
「……」
「アーリースーさーまー! ココア入りましたよー。アリス様ってばー」
「……」
無視。
存在は、無い。完璧に視界に入らない。耳にも入らない。
アリス様ー、と根気強く話しかけてくるのを十数回ほどやり過ごした後、アデルは、ふーっと大きく溜息を吐いて。
「……アリス、ずいぶん悩んでるなあ」
「―――――」
ぽむぽむと、アデルが頭を柔らかく叩いてくる。これでは、もう無視も叶わない。憮然として、分かりやすく眉をしかめた。
アデルは時折、こんな風に頭を撫でてくることがある。一歳年上だからか分からないが、子供扱いをされている様で腹が立つ。
なのに、今回ばかりはありがたかった。一人ではないと、実感できる。
「……って、相当きてんだな、俺」
思い至って、自虐気味な笑みがアリスの口から零れ落ちた。途端、ロッジがあからさまに眉を跳ね上げてくる。
見抜かれている。この双子は、本当にアリスに対して敏感だ。
「……まったく。一人でぎりぎりまで悩むのは、アリスの悪い癖だな。何のために私たちが付いてきたと思っている?」
「……、それは」
「宰相も言っていただろう。私たちを頼れと。それとも、私たちは置物か?」
「んなわけないだろ」
「ならば尚更、
感心するほど、どすどすと棘と毒を刺し込んでくるロッジに、アリスは頭を下げるしかない。彼らには迷惑も心労もかけっ放しだ。
「……、悪い」
「素直だなー、アリス」
「……何だよ。悪いと思ったから謝ったってのに」
「ふん。アリスが素直に謝る時は、顔が青ざめるくらい罪悪感を覚えている時か、よほど参っている時くらいだからな」
遠慮のない物言いに、アリスは天を仰ぐ。
この城に来てから随分と日が経つが、ここまで
つまり、それだけ気を張り詰めていた。今更ながらに思い知らされて、アリスは目元を隠す様に手の平で押さえる。
「……、……なあ」
「何だよ?」
甘えても良いか。
そんな言葉は、声にならない。こうして弱い部分を曝け出している時点で、甘えている。
ロッジもアデルも、寸分も違わずに聞き取ってくれた。今更だ、と声なく苦笑してくる。
だから、甘えることにした。
この城に来てから、――否。
ずっと、それこそ八年前から。きつくきつく蓋をして、一人で抱え込んできた真っ黒な感情を、掻き乱す困惑を、胸や喉を押し潰すほどの慟哭を、解放する。
「……混乱、してるんだ。ずっと」
何に、とは二人も聞いてはこなかった。ただ沈黙でもって、アリスが話しやすい空気を形成してくれる。
苦しい。胸も、頭も、体も、ばらばらになりそうで苦痛しかない。
浮かぶのは、いつも同じ。笑って、嬉しそうに話している父の顔。
なのにその背後では、血塗れになり、事切れた父が無残に転がっている。
父を殺した、親友のはずの魔王。まだ見ぬ彼に好意さえ抱いていたのに、目の前で父親を惨殺され、いつの間にか彼も姿を消していた。
後ろを振り返ろうとすれば、父が笑って首を振る。
前を向こうとすれば、あの、生き物の如く
八年前から、一歩も動けない。時間さえ進められなくて、アリスは常に置いてけぼりにされた様な孤独を味わってきた。
「俺、……本当は、復讐したかったんだ」
「……」
「何で父さん殺したんだ。何で、あんなに幸せそうに笑ってた父さん裏切ったんだって。問い詰めて、ぼこぼこにして、抵抗できないくらい痛めつけて、殺してやりたかった。……殺して、やりたかった……っ!」
そうだ。
父が自分の腕の中で事切れた時、心に湧き上がってきたのは純粋な怒り。
憎しみが湧き、悲しみに暮れ。
――最後に残ったのは、真っ黒に渦巻く復讐心だった。
混乱が静まり、枯れ果てた心に強く根付き、強く願ったのはたった一つ。
父を殺したあの魔王の首を、取ってやりたかった。
なのに。
「復讐、したかったのに、……父さん、笑ってた」
笑って、自分の手を握った。
「……後は頼むって、最後まで、笑って」
後を継いで欲しいと、はっきり言葉にした。
まるで呪縛だ。自分の心に素直に従うことは許さないと、父は楔を打ち込んだ。
「父さんのこと、恨みたかった。何で復讐させてくれないんだって。……何で、魔族を! 魔王を、殺させてくれないんだ! って!」
ぐちゃぐちゃにしてやりたかった。父が、そうされた様に。
引き千切って、引きずり出して、踏み付けて、滅茶苦茶にしてやりたかった。何もかも全部、斬り刻んでやりたかった。塵も残さず、滅してやりたかった。
でも。
「でも、そんなことしたら……、……正気に戻った時、俺は絶対後悔する」
理性を失い発狂し、暴走し、感情の赴くままに『勇者』としての力を振るっていたならば。
父が命を懸けて築いてきた夢は粉々に砕け散り、罪の無い者達は大勢死ぬ。
その屍の山を、己の犯した深く暗い罪を目の前に突き付けられた時、アリスはどうなっていただろうか。
正気など保っていられなかっただろう。確実に心は壊れていたはずだ。
父は、最初から分かっていた。
だから、言ったのだ。「意思を継いでくれ」と。
――アリスの心を護るために。敢えて、残酷な楔を打ち込んだ。
時間が経てば経つほど、父の言葉にこめられた思いが紐解かれていって、アリスはもう完全に動けなくなった。
「俺、どうしたいんだろう」
何が、したいのだろう。
時が経つにつれ、自分の心も少しは見えてくる。
自分は、魔族を嫌ってはいない。
だが、父を殺したのは魔族の長である魔王だ。
憎いのに、父の日記を目にする度に憎悪は鈍る。父が心から魔王を親友とし、誇りにしていたことを知る都度、怒りが行先を見失う。
願いは、魔族の殲滅か。しかし、父は絶対に望んでいない。
自分も、敵討ちを喉から出るほど欲しているつもりだったが、ここに来て思い知らされた。
そうでは、無かった。
もし本当に心の底から煮え滾っていたのならば、何を差し置いても自分はクレスを真っ先に討っていたはずだ。例え仇本人ではなくとも、迷うことなく刺していたはずだ。
だが、そうはしなかった。
その時点で、自分の問いの一つに答えは出た。
「……殺したいって、思ってたはずなのにな……」
父を殺された直後なら、実行していたかもしれない。
だが、今は願っていない。娘というのならば尚のこと。
それに、父は最後まで親友を信じていた。死ぬ、最後の瞬間まで。だからこそ、息子に楔を打ち込むと同時に、「意志を継いで」と託したのだ。
しかし。
復讐を、願わないのは。
「……薄情じゃ、ないかって」
忘れるのか、あの悲劇を。
それは、見せ付けられた惨劇の一部始終を、何もかも無かったことにしてしまうのではないかと。それが、恐い。
けれど。でも。しかし。
相反する思考をぶつけ合い、アリスは一歩も動けない。
あの日から、一歩たりとも動いていない。
「魔王に会えば、もしかしたら進めるかもしれないって。そんな不確かな要素だけで、俺はここに来た」
関係ない彼らまで巻き込んだ。上層部に真相が知れたら大目玉だ。
だが、それでもアリスは前に進みたかった。いい加減、過去を背負って一歩を踏み出したかった。
それなのに、まだ迷っている。自分の道は、ぼやけたままだ。
クレスに会って、一緒に過ごして、魔族達の暮らしぶりや考え方を目の当たりにした。
伝承にある魔族の在り方ではなく、父が切々と、嬉々として語っていた通りの現実だった。
――みんな、笑っていた。
勇者と魔王の物語とは違う。
彼らは、普通に笑っていた。
自分達、人間と同じ。変わらない。
みんな、同じ様に笑っていた。
「父さんが望んでいた世界は、あいつの父さんと一緒に作り上げたんだなって。そう思ったら、やっぱり魔族も人間も変わらないって、強く思って。……でもっ」
そのまま、無かったことにするなんて。
全てを忘れて、このまま絆を深めていくなんて。
それでは、父のあの死は。
〝カー、ティウス?〟
あの、裏切りは。
「……やーっと吐いたな、お前」
「―――――――」
がばっと背後から腕を回された。いきなりのアデルの行動に、アリスは虚を突かれてされるがままになる。
目の前のロッジも、傍にいるアデルも、安堵した様に笑っていた。少し泣きそうだな、と変に冷静な部分で彼らを観察する。
「わけ分かんないって顔、してる」
「……」
「図星かよ」
「いや、……ああ」
素直に認めると、アデルはやれやれと、アリスの肩を抱いたまま肩を竦めるという器用な真似をした。仕草の端々に呆れが混じっていて、益々疑問符が浮かぶ。
そんな自分の表情に更に呆れたのか、アデルは、ぐりっと拳を頭にめり込ませた。
「あのな。お前、ほんとバカ。ぜーんぶ一人で抱え込んで、何にも言わないで。俺たちがどれだけやきもきしてたか、知らないだろ!」
叩き付ける様にアデルが叫ぶ。ロッジも行動こそ起こさないものの、彼と同じく怒った様に笑っていた。
「俺たちがあの日、お前を見つけた時どんな気持ちだったか……知らないだろ」
抱き締めながら、アデルが顔を肩に埋めてくる。
やはり、その仕草も声も泣いている風に響いたが、アデルは有無を言わさず『あの日』の様子を語っていった。
――あの、絶望に見舞われた宴の日。
異変を察して駆け付けたアデルやロッジが見たのは、父の躯を抱いて真っ赤な部屋の中に座り込んでいたアリスだった。
呆然としながら父を見下ろし、ただただひたすらに、物言わぬ父を抱き締めていた。
それなのに。
アリスは、自分達を目にした途端、無表情で指示を出し始めた。
言葉を失っていた自分達に、「このことは公にしてはならない」と。
死の公表を遅らせ、病死に仕立て上げろと。
それが、父が望んだことだと。平坦な声で、無機質に命令を飛ばしてきた。
故に、先代勇者の死の真相を知る者は、あまりに少ない。駆け付けたのが、アリスが信用を置いた者だけで構成されていたのも幸いだった。
父の部屋は、アリスの手によって片付けられた。
元のままに。綺麗に。誰の手も介入させず。アリスが全て一人で整頓した。
その時のアリスの様子は、アデルやロッジが見ても異様だった。
瞳には何も映さず、表情は最初から無かったかの如く見当たらず、まるで人形の様に真っ平らにこなす彼に戦慄さえ覚えた。
そうして、ぽつりと一言。
「――ほら」
何も、変わらない。
淡々と、無表情に。父の部屋を見つめながらそれだけを呟いたアリスに、アデルもロッジも
なのに。
あの日から。アリスは、本音を包み隠す様になった。
急な即位後、淡々と職務をこなし、忙殺されても弱音一つ吐かなかった。父のことも、魔王のことも、何一つ口にしなくなった。
その事に、どれだけアデル達が歯がゆい思いをしたか。
それでも、アリスは精神的に自分達を頼ってくれている。傍らにいれば安心していると見受けられたから、まだ良かった。
だが、もっと頼って欲しかった。今みたいに、言葉にして欲しかった。
「手を伸ばしてくれたら、いつでも掴める様、傍にいたのに」
もっと頼れ。ちゃんと言葉にしてくれ。
俺たち、親友だろ。
――そんな風にアデルに語られて、アリスの表情が崩れ落ちる。
ああ、そうか。
孤独だと、思っていたけれど。
「……そんなことは、無かったんだな」
そんなはずは、無かったのだ。
だって、さっき自分は、彼らとの遠慮のないやり取りに安堵を覚えたばかりだ。
いつだって、一緒にいてくれた。傍にいて、支えてくれていた。
そんなことに、今更気付くなんて。
「あー、もうバカだなほんと。アリスはほんとバカだ」
「……、……そう、だな」
「そうだ。吐き出していたなら、もう少し早く整理出来ていただろうに。……肩代わりは無理でも、一緒に背負うことくらいは出来るんだ」
覚えておけ。
ごつん、と拳を振らせてロッジが笑う。
それがひどく嬉しくて、アリスは緩む涙腺を堪えながら俯いた。
「……ああ」
ありがとな。
囁く様に感謝を捧げ、置かれていたカップにアリスは手を伸ばす。ふわりと香るほろ苦いココアの湯気が、今のアリスには何よりも救いだった。彼らの想いの形に思える。
「最初から、お前が迷っていたことを承知で動いているんだ。お前がどんな結果を出したって、誰も責めない。もちろん、お前の父親もな」
「……、けど」
「アリス」
尚も言い募ろうとするアリスを遮って、ロッジが静謐に名を呼ぶ。
どこか逆らい難い響きに、アリスは開きかけた唇を閉じた。
「お前と父親は、違うんだぞ」
「――――――」
何を今更。
反論は返せなかった。根本を刺されたみたいに、顔が歪む。
「つまり、先代の魔王と現在の魔王も違う。この意味、分かるな?」
問いかけの形を取ってはいるが、確認だ。
アリスも意図を読み取って、再度俯く。反論は、無粋どころかもう傲慢でしかない。
「確かに、お前の父親を殺したのは今の魔王の父親だ。それは許されないことだ。ただ、……許さないことと、今の魔王の手を取らないこととは、全くの別問題だ」
だから、迷っているのだろう。
図星を突かれて、今度こそアリスは言葉を失った。
この幼馴染達には、本当に隠し事自体が無意味だ。意地を張っているだけ損なのは、分かり切っていたはずなのに。
八年前から盲目に過ぎた。天を仰ぎたい気分である。
「悩んでるってことはさ、アリスはもう答え出してんだよ、とっくにさ」
「……、答え」
「そ。……難しいことだとは思うよ。きっと付き纏うよ、この先も。俺たちだって、そうなんだから」
でも、さ。
アデルは意味ありげに微笑んで。
「アリスはさ――」
アリスにとっての、爆弾発言をかました。
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