第16話
「聞いて聞いて、アリス!」
妙にはしゃいだ父の声。
振り返りながら、幼いアリスは気だるげに父を見上げた。
――最近、夢を見ることが多くなった。アリスは、幼い自分を見下ろしながら思う。
だから、これも夢だ。しかも、よりによってと舌打ちしたくなる。
これは、アリスが未だ迷う、運命の日。
「何。どうしたの」
「ふっふっふ、聞いて驚くんだよ」
悪戯っぽい笑みと共に、父は人差し指を口元に立てた。
「アリス。今日は、私のお友達が来るんだ」
うきうきと、童心に返りながら弾んだ父の声が空気を満たす。あまりに弾み過ぎて、アリスの頭を空気がリズミカルに叩いている様な錯覚まで起きてきた。痛い、と一発殴ろうかと思ったが、そこは根性で堪える。
「ああ、いつも話してる」
「そう! お父さんの、自慢の親友なんだ。今回、遂にアリスにも紹介出来ることになってね。アリスも楽しみだろう?」
「……それ、何十回目の発言だと思ってるんだよ。もう一ヶ月前からずーっと言ってんだろ」
むしろ、三桁を超えているだろうか。
呆れて腕を組みながら事実を突き付けてやれば、「そうだっけ?」と可愛らしく父は首を傾げるだけだった。首を傾げれば何でも許されると思っている父は、やはり一度頭から殴るべきだろうか。アリスは真剣に悩む。
「ったく。一ヶ月前から、食事のメニューはこれでいいかな、私が着る服、あんまり気合いが入ってると『豪勢だな』とか笑うよね。でも、アリスはおめかしした方が良いと思うんだ、とか散々うるさかっただろ。今更だ」
「うーん、でも、一ヶ月じゃ準備が足りないよ。アリスを紹介するんだから! もちろん世界一可愛くて男らしくて優しくて頭が良くて強くて良い子なんだから、気に入ってもらえるって分かっているけど! それでもやっぱり心の準備が足りないよね」
「おい、親馬鹿。それ、間違ってもその親友には言うなよ」
「え? もう毎回会うたびに言ってるけど」
「……………」
きょとんとした顔で、さも当然と言わんばかりに暴露する父に、アリスはもう顔を押さえるしかなかった。その親友も災難だな、と同情する。
が。
「カーティウスもね! 娘が可愛くて可愛くて仕方がないんだって! 世界一可愛くて甘えてくる姿なんかもう最高、難しい本も小さい頃から読めて天才だし、これはもう将来は世に名だたる研究者になれるって、笑いながら自慢してくるんだ! 私も会うのが楽しみだよ」
親友も大概だった。
同じ穴のムジナとはこういうことか、とアリスはまた一つ悟りを開いた。
アリスと親友を会わせると決まってから一事が万事、父は浮かれてばかりだった。
特に今朝の浮かれっぷりと言ったら、まず扉の角に頭と手と足をぶつけ、何もない床で盛大にすっ転び、ナイフとフォークを逆に持って「あれ? 切れないね。まあ良いか」と笑いながら食べているくらいに酷かった。
本当に世界に名だたる勇者なのだろうか。この父を見たら誰もが疑問視するだろう。実際、アリスは疑問だ。
「父さん、しっかりしてくれ。たかが俺を紹介するだけなんだろ」
「そうなんだけど。アリスのことを紹介するとなると緊張してね。……気に入ってくれると良いな」
お見合いか。
十一歳という年齢の割に冷めた目線で物事を見る癖があるアリスは、白けたツッコミを内心だけで飛ばして溜息を吐いた。
もう父は放置しておこう。何を言っても無駄だ。
しかし。
「……仕方ないな」
浮かれるのも当然だと、アリスは納得もしている。
今でこそ魔族との和解に賛同する者は多いが、父が即位したての頃は反発も半端なものではなく、反対論を声高に叫ばれていたらしい。
対等に接しようと考えてくれる勇敢な傑物もおらず、友人は当然皆無。母と結婚したのは就任してから五年後だと言っていたから、それまでは真にミシェリアでは孤立無援の状況を強いられていたのだ。
会って話をし、打ち解けて。同じ志を抱く者として、変わり者としても馬があったらしい二人。
父にとっての、初めての親友。
それが魔王だということに、アリスは特に反感は抱かなかった。
幼き頃から、父の笑顔の裏に潜んでいた苦渋を間近で見て支えてきたアリスは、素直にその人物を歓迎していた。
ただ、表に出さないだけだ。流石に恥ずかしい。
「楽しみだね。ねえ、アリス?」
「分かったから。本当、落ち着けよ」
「うん、落ち着くね。……わわわ」
がしゃん、と言った傍から派手な音を立て、テーブルの上にあった花瓶を落とす。無残な破片が床に散らばり、アリスはびしっとソファを指差した。
「もういいから。そこに座っとけ」
「……ごめん」
しょぼんと肩を落としてソファに座る父に、アリスは密やかに溜息を吐いた。父は何故か、舞い上がっていると途端に究極の不器用になる。その分、こちらの仕事も増える。
なので、例え落ち込んだ姿に心が痛んでも、大人しくしてもらうことにしていた。さっさと箒と塵取りで手際良く片付ける。
準備を進めながら、アリスは父に分からぬ様、ちらりと時計を眺めた。
「……俺だって」
楽しみだ。
あれだけ散々、父が自慢をしてくる親友なのだ。父が誇りに思う親友と顔を合わせるその瞬間が、待ち遠しい。
自分や母以外に、赤の他人でありながら父を支えてくれた人に感謝していた。
それを伝えられたら良いと、秘かに願っている。もちろん、父になど伝えてはやらないが。
「でも、でもね。本当に良い人なんだ。気さくだし、茶目っ気たっぷりだし、民思いで、亡くなった奥さん思いで、娘思いでね」
「はいはいはいはい。良かったな」
「だから。きっと、アリスも好きになるよ」
「――――――――」
目を細めて、木漏れ日みたいな笑みを浮かべる父。あまりに嬉しそうに微笑むから、アリスも苦笑してしまった。
「……、そうだと、良いな」
声に出して、同意する。父が、にぱっと本当に幸せそうに笑うから、アリスの心も自然と弾んでいった。
本当に、そうだと良い。どんな人かと思い浮かべながら、アリスも待ち望んだ。
父の親友と顔を合わせるその瞬間を、馬鹿みたいに望んだ。
――覚えているよ。
予兆も無く、『それ』が現れた時のこと。
「……、え、……」
我ながら、
喉を圧迫する様な空気が、室内を突然押し潰した。禍々しい気配を
――ああ。
覚えているよ。この日、お前が現れた時のこと。
「――カー、ティウス?」
父さん、呆然としてた。
声が、からからに乾いてた。それまで、心が弾んでいるのを隠しきれないくらい熱を持っていたのに。
全部、持っていかれた。
日常も、信頼も、笑顔も、ささやかな幸せも。全部。
風の様に降臨した彼。濁り切った紫紺の双眸が別の生き物の様にぎらついて、こちらを殺すように射抜いてきた。
心臓を無遠慮に手づかみされた衝撃に、自分は身動きが取れなくなって。
「――アリスッ!!」
父の叫び声。抱き締められる温もり。体越しに伝わる鈍い衝撃。真っ赤に染まる視界。
テーブルが、椅子が、ベッドが、壁が、吐き気がするほどの臭気で充満して、汚れてしまった。
用意していたティーセットも、紅茶も、お菓子も。全て、血飛沫で水浸しになって、駄目になった。
父の、血で。部屋中が、真っ赤に染まった。
楽しいはずの時間は終わりを告げ、絶望だけが取り残された。
――骨が、見えたよ。
肉が切断される音って、あんなに鈍いんだな。
口から灼熱が吐き出されるっていうのも、本当だった。
臓器がスプラッタになるところを直視しなかっただけ救いだったと、今なら思える。
ずるりと、不穏な物音と共に崩れ落ちた父。自分の衣服が、父の血で生温く濡れた。
まるで、本の中の出来事を体験している様だった。現実味が無い、倒錯的な光景。
「……無事、か、……な。アリ、ス……っ」
弱々しく伸ばされた腕を、受け入れるしかなかった自分。
手を握り返したかったのに、恐怖や驚愕や拒絶や色んな感情がごちゃ混ぜになって、何の反応も打ち出せなかった。
なのに。
「……、ア、……リ……っ、ス……」
父は、呆ける自分を慰める様に撫でた。
安心させるために、微笑んでさえ見せた。
「……アリ、スが、……無……、事で。良か、……った」
私の、大切な宝物だから。
唇の動きだけで読み取って、もはや声で空気を震わせることさえ満足に遂げられない父を、自分はただ凝視するだけだった。動けなかった。
言いたいこと、たくさんあったはずなのに。何で、何も言えなかったのだろう。
情けない。親不孝だ。こんな自分。
それなのに、不甲斐ない自分を、父は一言も責めなかった。
嬉しそうに、幸せそうに、笑って。
「……、リス、っ」
最後の力を振り絞って、父は自分の手を握り締めた。
実際は、ぴくりと指が一本動いただけだったけれど。確かに、父は握り締めてきた。
そして。
「……どうか、……の、意志を、継い、で……」
最後まで、あいつのことを信じて、逝った。
「……あい、し、……私、……かわ、い、……………ア、リ、……ス……、―――――」
息子の自分を案じて、いなくなった。
殺された、くせに。
自分なんか庇わなければ、死ななかったかもしれない。
なのに、真っ先に自分なんか庇って。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、泣くことさえ出来なかった。
いつの間にか、彼がいなくなっていたことにも気づかないまま。ただひたすらに、物言わぬ亡骸になった父を見つめ続けることしか出来なかった。
復讐すれば良いのか。
それとも、善政を敷く博愛主義の勇者になれば良いのか。
どの道を採るべきなのか、判断はまるで付かなかった。
その後、あいつの訃報を耳にして、益々自分はどうすれば良いのか分からなくなった。
ただ、最後の父の遺言が繰り返し再生されて、魔族討伐の強硬手段にだって出られなかった。
そんなことをすれば、今まで築き上げてきた、父が文字通り総力を挙げて積み重ねてきた努力を粉々に打ち砕き、破壊し尽くすことになってしまう。
昔から、魔族に反感を抱いてなどいなかった。
むしろ、父と同じく、両者の仲を一層深めていこうと思っていた。
いつか。勇者と魔王が、公の場で肩を並べて歩ける日を夢見ていた。
けれど。
〝――カー、ティウス?〟
ちらつく、紫紺の残像。真っ赤に点滅する世界。
狂おしいほど憎いのに、動けなくて。胸を焦がす激しい殺意は、嬉しそうな父の笑顔で揺らぐ。
嫌いになりきれない。憎みきれない。
でも、好きになりきれない。許しきれない自分がいた。
先にも後にも進めない。過去にも未来にも歩めないんて、最悪極まりない。
だから。へばり付いた足の裏を滅茶苦茶に
魔王に、会おう。そう、決意した。
別に、魔族が害だけの存在でないことは充分過ぎるほどに把握していた。
実際、魔族との和平工作を無感動にこしらえている合間。国境の街の進歩が届くたびに、魔族からの積極的な交友には感嘆していた。外交の手紙のやり取りだけで推し量れた、現魔王の聡明さにも一目置いていた。
父の仇の娘。
最初は穏便に顔合わせをするつもりだったのに。
〝……アリ、スが、……無……、事で〟
決意の最中で、父の死が甦った。
結果、私情が先走って、愚行を犯して、これこそ父の意志を無駄にする所業だ。
魔王を討伐する意思が、本当にあったのかどうかは分からない。魔族が魔族らしくしてくれれば踏ん切りがつくのにと、甘い考えもちらついていた。
魔王が父を殺したのは事実。目の前で、魔族の本性をまざまざと見せつけられた。
それでも、魔族全員が悪いとは思えなかった。
ばらばらに引き千切られそうな心を引きずって、霧で覆われた未来のために、遠い地へ足を運んだ。宰相や幼馴染に無理を通してしまって、感謝しかなかった。
そして。
そこで、掴んだのは。
『異端児と囁かれた自分に、初めての親友が出来た』
〝お父さんの、自慢の親友なんだ〟
辿り着いた、真実の一欠片は。
『互いに妻を早くに亡くしてしまったが、支えになる子供がいること、親友がいることは本当に幸せなことだと思う』
――なあ。
本当にそう感動したのなら。
心から、思い描いていたのなら。
何で、殺したんだ。
何で。俺の父さん、殺したんだ。
教えてくれよ。なあ。
何で、俺の父さん殺して。俺が問い詰める間もなく、お前まで死んだんだ。
何も、聞けないまま。語らないまま。
どうして、逝ったんだ。
なあ。
教えてくれよ――。
「アリス。父さんな、親友がいるんだ」
春真っ盛りみたいに、幸せそうに笑う父の顔が。
瞼の裏に焼き付いて、離れない。
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