第14話
――何で、助けたんだろうな。
バルコニーの一件から朝食を終え、クレスの私室に案内されるまで、ずっとアリスは模索していた。
女性が一人で部屋に男性を招いたりするな、とか。これは暗殺の絶好の機会なんじゃないか、とか。
本当にまとまりのない思考を脳内に雑多に流しながら、アリスは強烈な疑問を脳裏と瞳の奥に焼き付けて、彼女の部屋に足を踏み入れた。
初日の緊張感を保っていたならば、警戒する動物の様に、牙の代わりに剣を抜き放つところだ。
しかし、五日もこの魔都に居座っていると、ことごとくやる気が空回りする。そんなことをしても、無駄以外の何物でもない。骨を折るだけ折って終了だ。
この魔都は、正真正銘変人魔族のオンパレードであった。
この五日間、毎日連れ出された広場では、アリスの姿を認めると子供は飽きずに群がってきた。
「アリス様ー!」
「勇者だ勇者! あっそべー!」
「ああ? ふざけんな。何で俺が……」
「これ、ゆうしゃさまにつくってきたのー!」
「はなかんむりー!」
「……」
「似合う似合ーう!」
「勇者さま、ますます勇者さまだー!」
「……………」
勝手にアリスで遊び、物凄い勢いで突撃してくる彼らに根負けすること数知れず。鬼ごっこに川遊びをはじめとした、今更ながらの子供の遊戯に勤しんでみたりもした。
その様子を見守りながら、いつも子供達の両親は「面倒を見て下さってありがとうございます」と、謝礼と共に滝の如く食物をアリスの腕の中に落としていく。
大人達は、アリスにとって鬼門だ。
人生経験の差がある以上、子供を相手にしている時よりも言葉に窮する場面が多々ある。
別に、笑顔の皮を被っているといった揶揄ではない。
ただ、大人達は昔の『勇者と魔王』の歴史を抱え、様々な葛藤を乗り越えてきた強さというものがある。だからこそ、未だ迷うアリスにとっては目を逸らしたくなる発言が多いのだ。
それに。
「はあー。クレス様と勇者様。歩いていると、絵になるねえ」
頬に手を当ててうっとりする女性に、アリスは無性に拳を食らわせたくなった。もちろん、女性にではなく、地面にである。
商店街を歩いていると、冷やかしが段違いに多いのだ。
友人として見られるなら百歩、いや一万歩譲ってまだ良い。良くはないが、許そう。
しかし、俗に言う恋愛関係として噂されるのは、一体どうしたわけなのか。
大半は「何言ってんだお前ら」と一蹴するだけに留めているが、量が多ければ捌くのも面倒になる。
だが。
それは、とても平和な象徴なのかもしれない。
ただ歩いているだけなのに、男女というだけで恋人に間違われる。つまり、そういった世俗事や噂話が大好きな人種が、この世界に溢れているということだろうか。
本当にそうであれば、世の中は平和だ。
そう。
――例え、勇者と魔王がいなくとも。
このまま、平穏でゆったりとした日々が続くのではないかと錯覚を起こすほどだ。
それほどまでにここは安息に満ち、穏健派の充実したお国柄だった。彼女らしいとさえ思える。
そう。
――思える様にはなった、けれど。
「……ほんっと」
何で助けたんだろうな。
零れた呟きに、迷いが満ち溢れている。自分の心がどこへ向かっているのか度々見失った。
何故あの時、バルコニーから落ちる彼女を助けたのだろう。
老朽化した手すりが折れ、彼女が落ちた時、アリスは迷わずに床を蹴っていた。そうして、何もせずに無抵抗に落ちていく彼女を見て、得も言われぬ激情が爆発しそうになった。
何度も何度も、あの時の疑問が頭の中で繰り返される。
――お前、もしかして。
問いかけそうになっては、握り潰す。浮かんでは消しての繰り返し。
言葉にしたとしても、終わらない。閉じない。螺旋の様にどこまでも連綿と、規則正しく回りながら、嘲笑と共に歴史は描かれていく。
そう。未来永劫、不変に。
勇者と魔王の因縁は、宿命は、未来は、繰り返される。
出口など無い。あるはずがない。扉も鍵穴も探し当てられない。
けれど。
〝お父さんの、自慢の親友なんだ〟
――けれど。
「こっちです、勇者様」
「――――――」
はっとして、アリスは現実世界に引き戻された。没頭していた世界から急激に変わった景色に、アリスは内心だけで困惑して、すぐに把握する。
そうだ、クレスの秘密基地にお邪魔するのだ。着く早々に今朝の出来事に浸かってしまった失態を呪う。
この魔王は、自分を錯乱させるのが目的ではないか。
半ば本気で猜疑心を向けたくなったが、次の瞬間、そんな自分が滑稽に思えた。
――何やってんだ、こいつ。
見ると、クレスは満面の笑みで壁にこそこそ手を這わせていた。その様子は実に怪しすぎて、夜中に出会ったなら即行で殴り倒しているだろう。正直、近寄りたくない。
だが、他にすることもない。故に、彼女の変態的な動きを観察していると。
――ガコンッ。
何かが大きく外れる物音と共に、まっさらな白い壁がスライドしていった。
否。スライドする様に、片側から物凄いスピードで壁が原子に還る如く消失している。
これも魔法か。
人が一人分通れるくらいまで壁が無くなったのを見て感嘆する。
「ふふふ。ここは、魔王にしか知らされない秘密部屋なんです! もちろん、シエルも知りません」
「……、あ?」
秘密基地と聞いた時点で隠し部屋だろうということは想定内だったが、まさかの魔王にしか伝授されていないという事実。開いた口が塞がらない。
「おい、待て待て待て。お前な! そんな大切な場所、勇者に教えるなよ」
「大丈夫です! 勇者様ですから!」
その自信は、何処からくるものなんだ。
アリスが何事か警告しようとすると、クレスはさっさと中に消えてしまった。見事な早業だ。
――何を言っても無駄か。
ここに訪問してから何度目になるか知れない諦めで見切り、アリスも彼女に続くと。
「……、へえ」
これは、と我知らず感嘆を漏らし、アリスは好奇心と共に辺りを見回した。
眼前に広がっていたのは、天井高くまで敷き詰められた本棚だった。
この部屋自体が魔法で創設されているのか、先程の部屋の天井よりも何倍も天辺が高く、横幅もゆったりと取られている。下手な図書館よりもよほど広大で、膨大な書籍量だ。
割と本が好きなアリスとしては、この部屋は宝庫に映った。
「すっげえな。見てもいいか?」
「はい、どうぞ! 勇者様に見られて、本も本望です!」
その許可もどうなんだ。
心の中だけでツッコミながら、改めてアリスは好奇心に背中を押され、本の背表紙を斜め読みする。
年代物も大量にあり、独特の匂いが充満していた。歩くたびに、足元で土煙の様に埃が舞い上がる。
試しに本に触れてみれば、うっすらと指の腹にも埃が付き、それら全てがこの一室の歴史の重みを伝えてきた。手入れされていないのが残念だ。
「単純に歴史本や娯楽本もあれば、呪詛だの陰謀だの、悪趣味なもんもあるな。さすがは魔王部屋」
「え、ええと。まあ……初代魔王の時代から積み重ねられてきましたから。色々な魔王もいたでしょうし」
「初代から、か。すげえな、年季が違う」
学者が発見したら、間違いなく大騒ぎだ。世界遺産登録もされるだろうなと、苦笑しながらアリスは更に奥へ進む。
絶版の本や禁書指定されたもの、非常に価値が跳ね上がる書物の多さに興奮を覚えた。
「俺んとこも、勇者にしか伝わってない場所ってのはあるが……考えることは同じか」
「似た者同士ってことですか?」
「やめろ。寒気がする」
同族嫌悪というふざけた理由で、現代まで根深い闘争を繰り広げてきたのだとしたら、血塗られた凄絶なイメージが音を立てて崩れてしまう。それだけはご免だ。
とはいえ、そんな戯言で幕を開けた因縁ではなかっただろう。それは、勇者日記の冒頭だけが、どれだけ手を尽くしても開けなかったことからも推測出来る。
そう。
初代は、『始まり』を、敢えて謎の闇に葬った。
後世に伝えるべきではないと判断したからか、それ以外の理由があったのか。今となっては誰にも分からない。
始まりはいつだって突然で、自分の意思など関係なく埋もれていく。地面に埋没し、やがて見えない起源は風化していく。人々からも、当事者からも。
――それは、ともかく。
「……『人間がいかに下等であるか思い知らせる方法』、『信用させるだけさせて叩き落す快楽』、『屈服させる強み』、……ろくでもないタイトルもごろごろあるな」
しかも、この書籍だけは妙に
しかし、開きたくはないので結局戻してしまった。汚れてはいなかったが、何となく手を叩いて払ってしまう。
「あ、そっちはおじいさま……先々代が愛用していた書物です」
「……おい」
「おじいさまは、お父様が話すに人間が嫌いだったそうですから。三代前の魔王――おじいさまのお父様が条約を結んだ時、たいそう反対していたらしいです」
言いながら、クレスが別の本に手を伸ばす。
そうして、背伸びをして本に手をかけ――ばさばさーっと本の雪崩が彼女の頭を襲った。ぶわっと、一気に煙の様に埃が二人を包み込む。
「う、おいっ」
ごほごほと、舞い上がる埃の群れに咳き込みながら、アリスは彼女の頭を払ってやった。灰色に染まる視界が、目にも喉にも痛い。
「げ、ほげほっ! 何やってんだ、お前」
「い、いえ、お父様が見ていた本をご紹介しようと思ったんですけど、……すみません。実は数年ほどここには来ていないので掃除していないんです」
「―――――」
お父様、という単語が反響するのは心臓に悪い。胸を的確に
前触れもなく上がったあくどい呪文に、しかし疑心が勝ってアリスは何とか持ち直した。
「入ってない? 数年?」
訝しげなアリスに、クレスは「はい」と素直に頷く。
「ちょっと色々あって……魔王になってから、どうしても入れなかったんです」
「……」
「でも、勇者様がいるし、もしかしたら! って。そうしたら、やっぱり入れました。ありがとうございます!」
「……何だそりゃ」
覚えのない感謝をされて、アリスは気まずげに視線を逸らす。
詮索はしないことにした。誰にでも、触れられたくない部分は付き纏う。自分にも、覚えがありすぎた。
ざわめく鼓動を静めるついでに、ちらりともう一度本棚を見回して――。
「……ほんっと、胸糞悪い本多いな」
ぼやきながら、入り口を見やった。先々代愛用だったという棚から、『操り人形』という題名を目にしたからだ。
そういえば、禁術の種類に『傀儡』があるな、とアリスは物騒な魔法を連想する。
以前、勇者としての教養のために魔法の勉強をしていた時、禁術項目欄に目を通したことがある。内容を斜め読みし、顔を思いっきりしかめたのは今でも昨日の事の様に思い出せた。
詳細を記憶から呼び覚ましてしまい、心は平定されるどころか、逆に急降下の一途を辿っていった。仕方がないので、アリスは全く関係ない話題を振る。
「そういやお前、シエルやじいやとはどれくらいの付き合いなんだ?」
「……、え?」
「―――――――」
くるん、と振り返ってきたクレスの様相に、アリスは軽く言葉に詰まった。頭の中で、何かがかちり、と噛み外す音が木霊する。
一瞬、ほんの一瞬だけ、クレスの紫の瞳から光が抜け落ちた。
その様子はまるで普段の彼女がそのまま抜け落ちたかの様に思え、その感覚に慌てたが、アリスは素知らぬふりをする。
「最近、うちの幼馴染がシエルと仲良いらしくてな。夜とか、部屋にきてうるさいんだ。特にシエルの名前が出てきてよ」
「あ、私もシエルからお二人のお名前、聞きますよ。ふふ、シエルが他の方のことを話題にするのって珍しくて。もう、大大大親友ですね!」
「あー、……否定すんの面倒になってきたな。で?」
「えっと、そうですね……じいやは、お父様の時代からの側近です。シエルは、私が物心付いた頃から一緒にいてくれました。特にシエルとは、兄妹みたいに育ってきたんですよ」
ぱあっと光の花の様に輝き始めるクレスに、アリスは「そうかよ」と苦い笑みを向ける。
クレスは、本当に何でも楽しそうに話す。驚きで表情が固まるのも珍しいことではないし、ころころと変わる表情は見ていて飽きない。
「私、幼い頃は、今よりよくドジでして」
「……ほー」
「木に引っ掛かった帽子を取ろうとよじ登って、頭から真っ逆さまに落下したり。屋根の上から星空を見ようとして、途中で頭から真っ逆さまになったり。橋を渡っている時に魚が可愛くて身を乗り出して、頭から……」
「お前、自覚してんならもう身を乗り出すな。本当」
朝の出来事をまざまざと思い出しながら、アリスは強い語気で命令する。
今でまだマシだとしたら、幼少期はどれだけの頻度で落ちていたのか。シエルの苦悩が忍ばれ、同情してしまった。
「そういう時、よくシエルが助けてくれて。そんな彼に私は懐いていて、お父様もいつか『養子にー!』って叫ぶくらい彼を可愛がっていて。本当に家族みたいでした」
「……、養子。家族」
「はい! ……でも」
ふっと、クレスの明るい顔に翳りが差す。
過去に沈む彼女に観察しているのがばれないよう、アリスは感情が表に出ない様に努めた。
「様付け、するんです」
「……は?」
意図が読めなくてアリスが聞き返せば、クレスは淋しそうに目を伏せた。
笑って、その裏に心を隠す。
「様付け、やめて欲しいって。兄妹みたいなものだから、呼び捨てで良いって言ったんですけど。『駄目です』って。呼んでくれないんです」
「……、ふーん?」
「魔王になったら『クレスティア様』って呼び始めたんです。せめて愛称でってお願いして、今に至るんですけど。……身分ってそういうものなんだなって、ちょっと悲しくなっちゃいました」
「……………」
非常に酷似した話を耳にして、アリスは居心地が悪いまま腕を組む。泥の塊でも飲まされた気分だ。息苦しい。
――自分も。かつて、ロッジとアデルに全く同じ要求をした。
こちらは、幼馴染や兄弟みたいに育ってきたわけではなく、初対面でいきなり頼み込んだ。
幼くとも立場を弁えていた二人は困惑気味に顔を見合わせ、その場にいた二人の父の顔色を窺っていた。
彼らの父親は「とんでもない」と言わんばかりに青ざめていたが、そこに助け舟を出したのは、当時勇者であるアリスの父だった。
〝よろしく頼むよ。アリスの、良き友でいて欲しい〟
勇者の言葉は絶対だった。いくら内部分裂があっても、勇者は崇高で偉大なる英雄。権力も発言権も絶大で、他の貴族など足元にも及ばない。
当然、父にそんな意図は無かった。それでも『勇者』のお願いによって、騎士であった彼らの父親の意見は封じられた。
とはいえ、あの二人がアリスと仲良くしたいと心から願ってくれたからこそ、実現したわがままだった。本当に、二人にも父にも感謝している。
しかし。
「様付け、か」
意外だ。シエルが、クレスの頼みを頑として受け入れなかったという事実が。
彼は無表情で素直で淡々としてはいるが、クレスに関しては忠誠を超えて、大切な存在と認識している印象を受けた。家族として育てられたなら、尚更納得だ。
そんな印象もあって、シエルならば、クレスに請われたなら呼び捨てにしそうだというのがアリスの見解だった。ロッジやアデルが、自分達しかいない時には呼び捨てにしてくれる様に。
だが、現実はというと、彼はクレスを呼び捨てにしていないという。その上、断ったと。
――噛み合わない。
アリスの中で、また少しずつ歯車がズレていく。違和感が頭をもたげて、嘲笑った。
最初は微々たるもので、気にならない範疇だったのに。留まる期間が長くなればなるほど膨れ上がって、加速していく。
それに。
先程の、クレスの双眸から一瞬抜け落ちた光。まるで、クレスそのものが跡形もなく消え去った錯覚に陥った。
そんなはずはない。クレスは、間違いなく『ここ』に存在している。
なのに。
「……、消える、……」
何が噛み合わないのか。
ばらばらにピースが散らばって、あるべき場所のピース同士が組み合わさっていない。例えるなら、そういう違和感だ。
一体、何が――。
「……そうです! 秘密基地に来たのですから、もう一つ秘密を暴露しますね!」
能天気で底抜けに明るい声に、アリスは現実に無理矢理浮上した。
見れば、ててて、と可愛らしい足音がしそうな小走りをしつつ、クレスは部屋へと戻っていく。
駆けていくクレスの瞳には、きちんと光が戻っていた。秘かに胸を撫で下ろし、アリスもそちらに出る。
すると、背後で密やかに壁が構築される気配を感じ取った。
誰もいなくなると、秘密基地は勝手に閉じるらしい。つくづ魔法は便利な代物だ。
感心しながら戻った先では、クレスが何やら机の引き出しと格闘している真っ最中だった。
その格闘の結果、勢い良く引き出しを引っ張り――引っ張りすぎて全力で開け放ち、中身をぶちまけた上に手近の椅子に手の甲をぶつけ、悶絶するというコントを繰り広げていた。
その結末に、アリスはもう何も言わない。黙って、床にばら撒かれた書類を拾い上げてやる。
すみません、と謝り倒しながら、クレスは今度こそお目当てのものを引っ張り出し。
そして。
「じゃーん! 魔王日記です!」
魔王も、日記書いてたんかい。
ごく自然な流れで勇者日記を連想し、アリスはどん底に叩き落された。先程の、クレスの「似た者同士」発言が、エコーがかって脳内に反射する。
やることなすこと、実は同じなんじゃないか、この血筋。
そう嘆きたくなるのを踏み止まり、アリスが猛然と否定してるとは露知らず、クレスは手で掲げながら楽しそうに紹介してきた。
「これ、正式名称は『魔王がいかに優秀であり誰もが畏敬と畏怖を抱かずにはおられないかを全世界に知らしめるための魔王の魔王による魔王のための輝かしい破壊記録』というらしのですけど。皆さん、『魔王日記』と呼んでいるみたいです」
しかも、名付け方までそっくりだ。
アリスは頭を抱え、空に飛びたくなった。
「……それ、魔王にしか開けられないとか」
「あ、そうです。よくご存知で」
「んでもって、初代部分はほぼ読めないとか」
「はい! その通りです」
「……
「そうですそうです。見た目と違って、中は半端なく膨大でして。……本当によくご存知ですね!」
「いや、……」
こっちにも似た様な本があるから、とは流石に言う気にはなれない。
多大なる衝撃を受けながら、アリスは「続けてくれ」と促した。たんまりと影を背負い、悲しげな歌を口ずさみたくなる。
「えっと、自分のところは読まないで欲しいですけど……読んでみますか?」
「……はあ?」
「『鍵』は外しました。魔王がどんなことを思っていたのか、勇者様、気になりませんか?」
「……」
気になる。
が、それ以前に最重要であろう秘密文書を、そんな簡単に手渡して良いのか。
アリスは苦悩に取り巻かれながらも誘惑には勝てず、渋々と受け取った。
ずっしりと乗せられた重みは、そのまま魔王と勇者の歴史の底知れぬ重圧に繋がっている様だ。暗雲で埋め尽くされた空の如く、気分も鬱々と濃くなっていく。
「……、日記」
この存在があるということは、クレスは間違いなく彼女の父とアリスの父が、どんな交流を重ねてきたかを知っている。
五歳の時に、ミシェリアで己の父が訪ねた相手が、誰なのかも。
〝本当に良い人なんだ。気さくだし、茶目っ気たっぷりだし、民思いで、亡くなった奥さん思いで、娘思いでね〟
まるで自分のことのように、自慢げに語っていた父。
時間が経てば記憶など薄れていくと踏んでいたのに、逆に鮮明になっていく。まるで傷を抉る様に深く、強くなる。
クレスの言動は、何もかも承知の上でのものなのか。
それとも、肝要な部分は目隠しされたままなのか。
――開けば、分かるだろうか。
好奇心など無い。
ただ、純粋に真実の扉を開けたい。それだけだった。
クレスに視線を移すと、にこにこと行儀良く自分を見守っている。その姿は無邪気な少女の様にも映るし、全てを達観した大人の顔にも見えた。
――開かなければ、永遠に、八年前の真実など紐解けはしない。
一大決心をして、アリスは日記をゆっくりと開いた。思う様に動いてくれない指に舌打ちしたくなりながら、石みたいに固まった指をやっとの思いで作動させる。
ぱらぱらと適当に
そう。普通の――。
『今日の焼き魚は最高だ! 流石は息子。天才! 将来はシェフだな』
『あの人はいつでも夜空に煌めく月の様に美しい。この胸はまるで割れたグラスの様に脆く壊れ、……もう死ぬわ。死にそう。死ぬ。そろそろ俺に振り向いて!』
『今日の私も可憐に決まっている。ああ、今日も世の愚かな男性どもが私に跪き、踏まれて喜んでいる。……最高……っ!』
ばっしーん、と思い切り本を叩き割る様に閉じたくなるのを、アリスは根性で堪えた。ぷるぷると顔を真っ赤に震わせ、心と頭を懸命に冷やす。
勇者にも様々な人種がいた様に、魔王にも実に多種多様な人物がいた。それだけの話だ。
決して。勇者と通じるものがある。そんなことは、思わなかった。
そんな風に己を言い聞かせながら、頑張って続きを捲り続けた。
てっきり勇者への罵詈雑言だらけだと思っていた魔王の日記は、本当にただの日常生活に溢れている。不覚にも親近感が湧いて、アリスはしゃがみ込みたくなった。
「ゆ、勇者様? どうされましたか」
「い、いや、……あー。お前のじいさん、本当に勇者嫌いだったんだなーって。いや、むしろ人間嫌いか?」
たまたま目に映った文章を誤魔化す様に挙げてみた。
改めて読み直すと、本当に彼――ハウエルという二代前の魔王は、勇者や人間への不平不満でページを埋め尽くしていた。「不甲斐ない」だの「人間と手を結ぶなど末代までの恥」だの、三代前の魔王が提案した勇魔不戦条約に対する反対論が、これでもかというくらい記されている。
これぞ魔王という印象だが、何となく変な感覚が胸を焦がした。
「ええと……そうですね。ええっと、きっとおじい様の方が、正しい魔王の在り方なのかもしれません」
「そのフォローもどうなんだ」
言いにくそうに言葉を探すクレスに、アリスは遠慮なく却下する。
その、魔王らしい魔王だったハウエルという人物は、日付から推測するに十年ほどで地位を降りた様だ。確か、噂では自害したと聞いているが、真実は定かではない。聞くのも憚られた。
そして。
「第81代魔王、カーティウス・リュシファース。ここより、誠実に真実を綴ることを誓う」
音読してしまって、アリスは気まり悪く口を噤んだ。意識してしまっているのが明白で、顔から火が出そうなほどに熱くなる。
だが、もう目を逸らすことは出来なかった。
父が自分に紹介したかった――たった一人の親友。
〝楽しみだね。ねえ、アリス〟
「……、魔王」
ずっと、会いたかった。
聞きたかったことがあった。胸倉を掴んで、問い質したかった。
もう、永遠にそれは叶わないけれど。
――なあ、あんた。
呼びかけそうになって、アリスは目を閉じた。精神統一も兼ねた仕草だ。
深呼吸をして、昂る鼓動を制御する。
震えそうになる指は死に物狂いで抑え込み、アリスは先代魔王、カーティウスの日記に視線を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます