第13話


「……っ、は、……………」

「……シエル」


 バルコニーの手すりに掴まり、蒼白になって地面を見下ろし続けるシエルに、ロッジは控えめに肩を叩いた。その振動にすら怯えたのか、彼の肩が少しだけ跳ねる。

 五階から見下ろした地上では、我らが勇者であるアリスが魔王を抱えて着地していた。その洗練された動きは正しく落下する彼女を捉えて腕に抱え込み、空中で一回転して衝撃を抑えるという荒業を成し遂げた。


「ほら、シエル。落ち着けって」

「……、は、い」

「魔王殿は無事だよ。アリスが動いたんだ。助からないはずがない」


 アデルが語気を強め、はっきりと断言する。いつも以上に強調した言い方なのは、彼なりの落ち着かせ方だ。現実をきちんと認識させるには効果的である。

 実際、効力はあった。シエルが、ずるっと崩れ落ちる様にしゃがみ込む。紙切れの様に蒼白だった顔に、微かにだが生気が戻った。

 それでも、手すりを弱々しく握り締める右手だけが小刻みに震えていて、彼の恐怖や動揺を如実に物語っている。


「しっかし、酷いな。よく見たら結構ぼろぼろじゃん」


 割れた手すりを確かめながら、アデルが眉をしかめる。ロッジも確認して、かなり老朽化が進んでいたことを思い知らされた。長らく手入れされていなかったのだろう。

 故に、魔王が可憐に飛び乗った欄干は無残に破裂し、真っ逆さまに落下していった。

 まるでスローモーションの様だった。彼女の身体が吸い込まれる様に向こう側へと倒れていき、何が起こったのか理解するのが遅れ。


 その一瞬が、命取りだった。


 彼女の体は、抵抗なく消え果てた。そこでようやく頭が追い付き、突き動かされるままに動いたがもう遅い。

 間に合わない。

 絶望に彩られ、傍のシエルが声なく叫びそうになった時。



 誰よりも早く、アリスが駆けた。



 ざっ、と一陣の風が強く駆け抜け、そのままバルコニーの向こうへとあっという間に吹き抜けた。


「――クレス様っ!!」


 その風に押される様にシエルが駆け出し、ロッジ達も慌ててバルコニー側へと走り寄る。

 そうして見下ろした先では、アリスが魔王を抱いて危なげなく着地していた。魔王のドレスの裾が舞い上がる様は、朝日に照らされて花開いていく一輪の花の様に映って幻想的ですらあった。

 だが、シエルにはそれどころでは無かったらしい。

 下界でアリスが魔王に何かを話しているのを、シエルは穴が開くほど凝視していた。つかむ手すりが折れそうなほどに軋みを上げるのを見て、ロッジは彼の肩を叩くしかなかった。


「……っ」


 崩れ落ちてしまったシエルは、何かに耐える様に目を閉じる。いつもの無表情さが嘘の様な横顔に、ロッジは意外な思いもしたし、反面当然の様にも感じた。

 シエルは、いつも彼独特の感性で主人を貶したり褒め称えたりしているが、彼女を深く思っていることは十二分に伝わってきた。無感動な顔ではあるが、彼女に対する仕草も目元も常に柔らかい。それは、ロッジ達が長年勇者であるアリスの傍にいた時に通じるものがあった。


「良かったな、魔王殿が無事で」


 ぽんぽんと、アデルも安心させるために背中を叩く。表情が心配そうに陰っているあたり、弟らしい。彼は朗らかでざっくばらんで、感情表現が素直だ。自分よりも他人との距離の詰め方が上手く、現にシエルに対してもあっさり懐に入ってしまっている。

 その証拠に、シエルの厳しかった顔が、ほんの微かにだが和らいだ。

 一定のリズムで背中を叩き、撫でていたアデルの温もりに徐々に緩んだのか、シエルが細く息を吐き出した。そのままアデルの腕を軽く掴み、頷く。


「……もう、大丈夫です。見苦しいところをお見せしました」

「何言ってんだよ。大事な主が危なかったんだぜ。取り乱すのが普通だって!」


 な、とシエルの肩を軽く叩き、アデルが笑う。釣られる様にシエルが口の端を微かに吊り上げたのを見て、ロッジも胸を撫で下ろした。


「勇者様には感謝しかありません。勇者様のためならばこのシエル、素っ裸で踊ることもいといません」

「うん。やめてくれ。それ、誰が得するんだよ」

「では、クレス様直伝、シャンデリアに華麗に跳躍した後、空中で五回転半捻りをしながらのジャンピング土下座というものを披露すればよろしいでしょうか」

「……いや、やめておけ。普通に、言葉で感謝を伝えるだけで良いだろう」


 シエルが至極真面目に淡々と感謝の示し方を提示してくるので、二人は思わず真顔で却下した。

 首と手を同時に振り続けると、シエルは心底不思議そうに小首を傾げる。


「なるほど。人間とはなかなか興味深いものですね。人間流の感謝の仕方、勉強になります」

「……そ、そうか? 俺たちも、魔族流にはとことん驚かされるけどな」


 頬を掻きながら困り果てるアデルに、ロッジも激しく同意する。

 シエルは極端かもしれないが、城下の者達の態度を見るに、魔族には共通した別の感性が備わっている気がしてならない。初めてここを訪れた時の歓迎の仕方といい、魔族の感覚は理解しがたい。


「しっかし、魔法って咄嗟にだと難しいのか? それとも、アリスが助けなくても大丈夫だったのかな」

「……」


 アデルの何気ない疑問に一瞬、ほんの一瞬だが、シエルが息を詰めた様な表情を見せた。まるで棘を直接飲み込んでしまったかの如く空気が尖り、ロッジは思わず彼を凝視する。

 しかし、それもほんの一時。シエルは従来の涼しい顔で胸に手を当て、一礼した。


「クレス様も動揺していたのでしょう。魔王としてはまだまだ未熟のひよっこ、いつか死ぬのではと未だに気が気ではなくて」

「……、そ、そうか」

「ですから、勇者様には是非とも何か土下座に匹敵する並々ならぬ感謝と敬意と親愛と礼拝を捧げたいと思っているのですが。何がよろしいのでしょうか」

「うん。普通でいい。むしろ、普通がいい」


 アデルが即座に否定し、シエルはやはり首を傾げ不思議そうにしている。

 だが、ロッジは彼の言葉が気になって仕方がない。

 気のせいとも思いたかったが、今目の前で起きた彼の異常なまでの恐怖に、別の可能性を見出してしまった。

 シエルは、前に言葉を交わした時も同じことを言っていた。魔王が、「いつか野垂れ死んでいるのでは」と。

 あの時は、シエル特有の毒舌を毒舌とも思わない率直な冗談かと思っていた。本心も混じっていたかもしれないが、そこまで本気にはせず流したのだ。

 しかし。



〝――クレス様っ!!〟



 あの時の慌て様は、普通ではなかった。

 冷静に思い起こして、ロッジは魔王をアリスに当てはめて考えてみた。

 もし、あの時手すりが折れて、地面に激突しそうになったのがアリスだったならば。

 自分もアデルも肝が冷えただろう。そして、血相を変えて駆け寄ったはずだ。飛び降りて、彼を追いかけ、何が何でも助けようとする。

 だが。



 シエルは、追いかけなかった。



 以前、城下でアリスと魔王が民と触れ合う中、シエルはとても愛しそうに、大切そうに彼女のことを語っていた。何よりも支えたいと想っていた。

 それをロッジもアデルも強く感じたものだ。二人で割り振られた自室に戻った時、彼も自分達と同じかもしれないな、と頬を緩ませて笑い合った。



 そのシエルが、今、むざむざと魔王を見送った。



 まず、その事実に違和感を覚えた。

 そして、シエルの異常な震え方に、不吉な波が胸でざわめいた。



 何故、彼は魔王を追いかけなかった。



 アリスが誰よりも早く助けに向かったとはいえ、それでも彼なら――彼女をあれほど深く思う彼ならば、魔王を追って飛び降りそうなものなのに、何故そうしなかった。

 それに。



 何故、そこまで彼女の危機に怯える。



 魔王を追いかけないで足を止めたのに、彼女の姿を視線で追い求めた彼は、この世の終わりの如き黒い絶望に塗れていた。

 ちぐはぐな彼の様子に、疑心が湧く。拭えなくなる。

 そして、強烈に思い知らされる。 



〝幼少期は正直いつか城門あたりで野垂れ死んでいるのではないかと気が気ではありませんでした〟



 あの言葉は、本当に、本気で、心の底から不安で堪らなかったからこそ口をついて出たのではないかと。

 一息吐いて振り向いたアデルも、思わしげに眉根を寄せてきた。

 彼は単純で真っ直ぐではあるが、それなりにさとい。とっくに矛盾に気付いていたのだろう。だからこそ、明るく振る舞っていたのだ。


 ――何か、あるのか。


 この、魔王城に。魔王に。

 それとも。



『むかしむかし――』



 ――『勇者と魔王』の物語の様に、自分達の手の届かぬところで何かが起こっているのか。



「……、アリス」



 改めて折れた手すりに気を付けながら、地上を見下ろす。

 下界ではアリスが魔王を立たせ、城に戻るところだった。魔王が率先してスキップしながら入っていくのを、アリスがやれやれといった風に続く。

 だが、遠目でも分かる。アリスの顔は苦々しげに曇っていた。影が深く差し込んだ様に、何かを模索しているのは明らかだ。

 彼も、とっくに感付いている。城や魔王を渦巻く異変や悪寒が、じわじわと肌を這い上ってくるのを。

 ならば、もう任せるしかない。彼は『勇者』だ。

 そして、彼が己の心のままに動ける様に自分達は手を尽くし、背中を押す。



 そのために、自分達は、『在る』。



「……アデル。ここの手すりを補修する。手伝え」

「はいはいっと。シエル、怪我とかないか? さっき強く掴んでたけど」

「……、はい。お気を揉ませてしまい、申し訳ございません。このシエル、感激し過ぎて溢れ出す喜びを表現するため、思わず膝を折りそうになりました」

「……折りはしないんだな。うん、分かってた」


 アデルとの軽妙なやり取りに少しだけ噴き出しそうになりながらも、ロッジはほんの一瞬だけシエルを一瞥する。

 彼の表情は、既に全くの元通り。全てを遮断する様な、無表情を示していた。






 後ろからアリスが付いてくる足音を聞きながら、クレスは安堵と落胆の両方の感情がい交ぜになるのを感じ取った。

 先程手すりから落ち、奇妙な浮遊感を覚えて己の事態を読んだ時。



 ――ああ、死ぬのか。



 クレスは、真っ先に死を覚悟した。

 恐怖は無かった。悲観もなく、ただ冷静に理解し、達観し、迫る死を淡々と見つめた。

 ただ、一つの命が終わりを告げる。それだけだ。

 自然の摂理をあるがままに享受しようと、胸の前で両手さえ組んだ。

 なのに。



 ざっと、一陣の風が強く駆け抜けた。



 そのまま風がクレスを抱きかかえ、くるんと一回転する。世界も一緒に回っている間に着地したのか、瞬間的にかかった重圧が身体を押し潰す。

 自分を抱えていた風が腕だと遅れて認め、熱を感じ、クレスは思わず顔を上げてしまった。


 上げてはいけなかったのに。間近で、彼の瞳を覗き込んでしまった。


 磨き抜かれた、怜悧れいりな紺瑠璃の双眸。真っ直ぐに、躊躇いなく自分を映すその瞳に、クレスはあっけなく囚われた。

 ――許されない夢だったはずだ。

 それなのに彼の瞳に囚われ、見てはいけない夢が広がってしまった。ふんわりと甘く広がり、魅惑的なお菓子の匂いに釣られる様に思い描いてしまった。

 ああ、本当に。


 自分は、何と悪い子か。

 何と愚かな子か。

 何と醜い子か。



 自分は、何と酷い魔王か。



〝――しなさい〟



 ああ、本当に酷い。

 それが悪いことと分かっているのに、抗えない。

 シエルがひどく辛そうに顔を歪めているのに、やめられない。

 だから、何度も願うしかなかった。あの日から絶えず夢を見て、一心に祈りを捧げた。

 そうして。



 ――私の夢は、遂に叶った。



 彼に、出会えた。

 彼と、お話が出来た。



 彼に――勇者様に、今、こうして助けてもらえた。



 彼に助けてもらった時、死から遠ざかった時、離れたくないと愚かにも強く願った。

 力強い腕。凛々しい紺瑠璃を閉じこめた瞳。間近で目にすれば、自分が浄化されてしまいそうなほどに冴え渡っていて、涙が出そうになった。



 離れたくない。もう少しだけ。



 思ったけれど、意を決して抜け出した。なけなしの理性を振り絞り、彼から離れた。

 そう。



 自分には、そんな風に願う資格は無いのだから。



 自分は、何と悪い子か。

 何と愚かな子か。

 何と醜い子か。



 ――自分は、本当に何と酷い魔王か。



 それに比べて、彼はどうか。

 穢れなき朝日を背に微笑む彼は、本当に綺麗だった。澄み渡る風を纏い、己の一部にしてしまう輝きは正しく勇者の姿そのもの。

 彼は、自分の思い描いた通りの人だった。強く、優しく、凛々しく、何よりも眩い光を背負う人。

 ああ。



〝お前が〟


 

 耳鳴りが、遠くから迫る。



 痺れる様に脳が揺れた。意識は真っ白に染まっていき、なのに反対に視界は真っ暗に塗り潰されていく。

 だから。



 ――だから、決めました。



 この胸に芽生えてしまった想いは握り潰し、せめてもの救いを求めて私は貴方を誘います。

 どうか、お願いです。私の願いを叶えて下さい。

 それは。



〝私、勇者様にぜったい会う!〟



 貴方にしか出来ないことなのです、勇者様。


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