第12話
『むかしむかし、あるところに。世界の果てに、一人の魔王がおりました』
粛々と、語られる。
その
「……何で俺、のんきにモーニングココアなんて楽しんでるんだろうな」
朝一番。雪の様にまっさらな丸いテーブルの上で、アリスは遠い目をしながら用意されていくココアを眺めていた。
事の発端は、もちろんこの国の魔王でこちらの心情など欠片も推し量らないクレスである。朝日が昇ると同時に朝の挨拶に訪ねてきたクレスが、「一緒にココアを飲みましょう!」とすっ飛んできたのだ。
当然、アリスはベッドの上で惰眠を貪っている真っ最中だった。きらきらした笑顔で邪魔しにきた彼女の頭をすぱーんと張り倒したのは、間違っていないはずだ。
何やらこの国には、ミシェリアで言う紅茶の代わりに、ココアを飲む習慣があるらしい。起床後、昼食時など一日に計七回飲むのだそうだ。
確かに、ミシェリアでも一日に七回は紅茶を飲む。それぞれに眠気覚ましに安眠など、意味があっての習慣だ。それが、この国では紅茶の代わりにココアというだけの話である。
郷に入っては郷に従え。
相手の国における暗黙のマナーだ。
故に、アリスは渋々ではあるが体験ツアーに参加することにした。一日ココアだらけだと甘ったるくて仕方がないが、これも勉強の内である。
ソファにのんびり座っている合間にも、クレスは着々と準備を進めていく。カモミールの時と同じく、慣れた手つきだ。恐らくこの国の者は、習慣で慣れているのだろう。
カップに注いだココアにホイップクリームをかけ終わったクレスが、客室のバルコニーに繋がる窓を開け放つ。
途端、爽やかな風が部屋の中を吹き抜けていき、アリスの髪や頬を撫でていった。正直まだ眠くてたまらないが、早朝のこの澄んだ空気は気持ちが良い。早くに起きたご褒美に思えた。
「あ、アリス様! おはようございます!」
そんな風に少しだけ気持ちを落ち着かせていると、慣れ親しんだ声が元気良く飛び込んできた。ひらひらと手を振って、声の正体であるアデルが、図々しくアリスの対面のソファにロッジと一緒に座り込む。
「おい、お前ら。何でそこの執事と一緒に行動してんだよ」
「ああ、それはまあ、ほら。来てから五日も経つし、同じく上に仕える者同士気が合ったんだよ。……あ、ですよ」
「我々も勇者様のところにと思っていたところで、シエル殿にお会いしまして。ご一緒させて頂きました」
――こいつら、随分仲良くなったな。
あろうことか、古来より天敵である勇者と魔王の従者が、それぞれ勝手気ままに笑い合っているこの光景。おまけにアデルの話し方で、双子が自分に対して砕けた態度で接しているということもシエルには筒抜けの様だ。ロッジもアデルの迂闊さに呆れてはいる様だが、特に咎めないあたりは大丈夫と判断しているのだろう。
「な、シエルも一緒に飲もうぜ」
「いえ。私はクレス様の執事です。主の前で――」
「まあ、そう言わず。我々もどうせ共犯だ。ここは一蓮托生だろう」
「そうそ! 俺、お前とココア飲みたいしな!」
ロッジがさっと立ち上がり、馬鹿丁寧に一礼して断ろうとするシエルの腕をアデルが悪戯めいた顔で引っ張った。
流石に予期していなかったのか、シエルが少しだけ驚いた様に目を見開いたまま、彼らの隣に身を沈める。すかさずアデルとは反対側にロッジが座り、シエルの身動きを封じ込めてしまった。
シエルは姿勢良く背筋を伸ばし、無表情で数秒座り込んだ後。
「……、お二方。昔から、よく悪戯をされていましたか?」
「ああ! アリス……様と一緒に!」
「まあ、アデルと勇者様の方が回数は爆発的に多かったが」
「はあ!? お前、一人だけ逃れるなよ!」
「そうだな。ロッジ、父のマントの裏側に一緒に落書きしたの、もちろん覚えてるよな? 確か、陛下はラブラ……」
「はて、……。はい。申し訳ありません。く、……事実だというのに」
すっとぼけに失敗し、悔しそうに敗北するロッジの姿に、少しだけアリスの胸が
ちなみに、書いた全文は『陛下はラブラブせかいいちー。アリスがだいすきせかいいちーbyアリス』だった。アリスはロッジが書き始めたのを一目見て、すぐに恥ずかしさのあまり蹲ったため、「byアリス」をみすみす書かせてしまったのだ。あの時の己の愚かさは今でも忘れられない。
ともあれ。
双子とシエルは仲良くアリスの目の前のソファに座り、クレスもココアが全員の元へ配られたのを見てから、自分の隣に腰を下ろす。
そうして、奇妙な形でモーニングココアタイムが幕を開けた。
「……お、美味い!」
いの一番にココアを啜ったアデルが、幸せそうに舌鼓を打つ。ロッジも「ああ」と同意しながら、一口、二口と啜っていった。その歓喜につられるでもないが、アリスもカップに口をつける。
確かに、ふわっと口の中に香る風味は上品で、後を引く味だ。何杯でも飲みたくなる。
ココアをみんなで楽しんでいると、早朝の冷たいながらも凛とした空気が、爽やかな風に綺麗に舞った。その綺麗な空気を吸い込めば脳が活性化し、体内にも活力が満ちていく。
この国に来てから何度も思うが、ここの景色は美麗で壮大だ。昇り立ての朝の日差しはさらりと流れる様になだらかで、一日の始まりを告げるに相応しい。白い光が雄大ながらも、慎ましやかに国全体を抱擁していく姿は見物だ。
本当に、ちぐはぐなメンバーにさえ目を瞑れば、実に理想的で清々しい朝である。
「しかし、初日はチョコレートでえらい目に遭ったけど、やっぱり本場なだけあって、チョコ関連のお菓子は最高ですね! ココアも美味いし」
「確かに。料理に使わないのであれば、私もここのチョコは好きですよ」
「す、すみません、本当に」
嬉々としてココアを啜るアデルと、淡泊でありながらも飲み続けるロッジに、クレスはひたすらに頭を下げている。
だが、チョコレートにトラウマを持たれなかったのがよっぽど嬉しかったらしい。クレスの顔は、懺悔をしながらも桜色の様に色付いていた。
「あ、そうですそうです! 勇者様、大事なことを忘れていました!」
「あ?」
ぱん、と両手を合わせてクレスがソファから立ち上がる。そのまま窓の外のバルコニーへ出て、くるんとアリスの方へと振り向いた。ふわっと広がる裾のドレスが一輪の花の様で、アリスは一瞬だけ目を惹かれる。
「ここのバルコニーからは、街並みを見下ろせるんです」
「……、おお」
「城下の外は森に囲まれていますから、とっても眺めが良いんですよ!」
ぴょん、と小さく欄干に飛び上がって、クレスは「見て下さい」と子供みたいにうきうきと外を指差す。アリスは適当に相槌を打ちながら、眠気に負けて立ち上がるのを躊躇ってしまった。
それでも、こっちこっちと手を振り続けるクレスを見て、シエルが諦めた様に首を振る。
「クレス様、あれほど魔王としての振る舞いを……と言っても無駄でしたね。憧れの勇者様の前では、月とすっぽん。月である私などの言うことでは、忠告にもなりません」
「おい。待て。俺がすっぽんか。いや、いいけどな」
「はい。最近クレス様は、すっぽんという食材に興味があるとのことでしたので。僭越ながら、勇者様にすっぽんの役割を担ってもらおうかと考えた次第でございます」
「はー、執事の鏡だなー。さっすがシエル!」
「……そうか?」
馬鹿丁寧にシエルが無表情で説明するのに対して、アデルは瞳を輝かせて感嘆し、ロッジは胡散臭げに疑問を呈する。
この三人は、本当にこの五日間で友好が深まった様だ。勇者と魔王の関係性さえなければ、アリスも手放しに喜んだだろう。
そんなアリスの複雑な心境には気付かないまま、クレスは飽きることなく手を振り続けていた。ずっと無視をされているのに、根性がある。そこだけはアリスも認めざるを得なかった。
「勇者様、こちらへ来ませんか? 本当に綺麗なんですよ!」
「……」
「特に綺麗なのは、夜の草木が寝静まった頃や今、それから朝日がゆっくり昇り出す時間帯で」
「分かった分かった、今行く。あんまり身を乗り出すと落っこちるぞ。ここ、五階なんだろ」
「大丈夫です! いざ落ちたとしても、浮遊魔法で――」
クレスが笑ったその瞬間。
――ばきいっ!
「―――、っ、え」
突如、不吉な音がクレスの手元で炸裂した。
それを聞き終える間も無く。
「――、っあ」
「―――――っ!」
がくん、とクレスの体が大きくぶれて、手すりの向こう側に吸い込まれていった。まるでスローモーションの様にアリスの視界の中で彼女の体が抵抗無く落ち、見えなくなっていく。
彼女の姿が、完全に見えなくなるその寸前。
〝――勇者様も。大好きです〟
「――、おいっ!!」
「―――――――」
シエルが血相を変えるよりも、ロッジが立ち上がるよりも、アデルが手を伸ばすよりも。
誰よりも早く、アリスは動いた。
だん、と床を力の限り蹴り、アリスは軽やかに手すりを飛び越える。その勢いのまま手すりを蹴り飛ばし、風よりも早く空気を駆け抜けた。
その合間にクレスの表情が視界に入り――瞠目した。意識する間もなく見つめてしまう。
何故なら彼女は、まったくの無抵抗だったからだ。
まるで、祈る様に彼女は目を瞑っていた。空に、ここよりも更に遠い地に祈りを捧げる様に、真っ逆さまに落ちていく。
その先の不穏な結末に愛されているのだと豪語せんばかりに、彼女は何も――本当に何もしなかった。
そんな彼女の姿を見た瞬間。
「……、ふざけんなっ……!」
爆発的な感情が
追いついた彼女を強引に引き寄せ、アリスは勢いを殺すために空中で一回転し、着地する。かなりの荒業だったが、勇者としての類稀なる身体能力があるからこそ為し得た成功だった。
思い出した様に、ふぁさっとクレスのドレスの裾が華麗に舞う。そこで、ようやく慌ただしかった空気が落ち着いていくのをアリスは感じ取った。ざわめきが徐々に静まっていき、安堵した様に風が凪いで行く。
そうしてようやく、まともにクレスの表情を見て。
「―――――――」
ばっちりと、吐息が触れ合う距離で視線が絡み合う。
驚いた様にまんまるになった紫色の双眸に、自分の顔が映っていた。まるで鏡に閉じ込められた様な感覚に陥って、すぐにアリスは首を振る。そんな妄想に一時でも絡め取られたのは不覚だ。
なのに、振り払えない。真っ直ぐに、紫の視線に貫かれた如く縫い止められる。
そのまま。
ずぶり、と。心の奥に根付いていく様に浸食していった。
「……っ」
彼女の紫色の瞳を見ると、時折頭がぐらぐらと揺れる。熱を持った様に頭の奥が疼き、眩暈の様な振動が脳を揺さぶるのだ。
それは。
〝――カー、ティウス?〟
遠くに響く、あの声のせいか。
「……大丈夫か」
「―――――っ」
襲われる不安定な感覚を振り払う様に、アリスは声をかける。
そして、後悔した。紫の視線から逃れ、彼女の顔を真正面から見てしまったことに。
驚き、呆然とした彼女の顔は、図らずも裏側をありありと見せつけてきた。
驚愕しているのはもちろん、己は今どこにいるのか、何が起こったのかといった取り留めもない思考が瞳からも読み取れる。
そして――。
「……わ、たし……」
呆けた声に隠された震えが、全ての答えだった。
恐らく見られたくなかったはずだ。その秘めたる部分を垣間見てしまったことへの背徳感に、自然と眉が寄ってしまう。
ああ、そうか。
〝勇者様に会えたこと。私、一生忘れません〟
――お前、もしかして。
「……で?」
喉元まで出かけた言葉を無理矢理飲み込み、アリスは苛立った様に促す。
そこでようやく我に返ったのか、クレスがもう一度目を見開いてアリスを見つめてきた。ばちっと弾かれた様に更に目を丸くし、わたわたと手足を動かす。
「わ、わわわわわ、は、はい! 大丈夫、で、す!」
慌てて、ぱっとクレスの方から視線を外してきた。そのことに安堵した様な残念な様な複雑な気分になって、アリスは思わず深々と息を吐き出す。
すると、クレスの頬が茹でたリンゴの様に真っ赤になったので首を傾げた。
「どうした? 顔が真っ赤だが」
「ゆ、ゆゆゆ勇者様! ま、真っ赤!? は、はい! 真っ赤じゃありません!」
「……何言ってんだ、お前」
明らかに何故か動揺しまくっているクレスに、アリスは呆れて再度嘆息した。彼女の顔が更に真っ赤に上塗りされていったが、構わずに続ける。
「お前な、いざとなったら魔法でどうにかするんじゃなかったのかよ」
「え? わ、は、はい!」
「だってのに、何なんだ。俺が助けなかったらお前、今頃地面とキスするところだったんだぞ」
「き!? き、ききききき、き、き、っ!?」
「……いや。何慌ててんだよ、お前」
「い、いいいいい、いえ! いえいえいえ! き、キスですね! 私、地面とキスするんですね!」
「いや、落ち着け。するなよ、死ぬから」
更にパニック状態になる彼女に、アリスは益々首を傾げる。先程までの不信感が一気に吹き飛ばされていく光景に、こっそりと息を吐いた。
やはり、彼女にはこれくらい騒がしくしていてもらわないと調子が狂う。
思うと同時に、苦々しい味が舌に広がる様に心に沁み込んでいった。落ちていくクレスの有様を思い返して、更に苦味がすり潰した様に強くなる。
つい先程過ぎった予感は、自分の思い過ごしだろうか。
故に、口をついて出た。
「お前、そんなに恐かったのかよ」
「え?」
これ以上適切な質問は無いだろう。
そして、クレスは完璧にこちらの予感通りに反応してくれた。
「わ、わわわ、……は、はい……?」
疑問形で、誤魔化す様に笑われた。
いつもの彼女だ。騒がしくて強引で、人を振り回し、それでもありったけの心でぶつかってきて、底抜けなまでに優しくてお人よしな彼女の顔だ。
それでも。
「……疑問形かよ」
「え、あ、う。な、何でしょう。あんまり実感が無くて」
もう、自分は隠された彼女の顔を覗き見てしまった。だから、知らなかった自分ではいられない。
予感さえなければ、額面通りに受け止められたのに。完璧に隠し通してくれれば、目を瞑ってやれたのに。
――何故、見せた。
八つ当たりの様な激情が、アリスの胸の内を焦がす。その湧き上がる熱情がまた心をざわつかせて、一層落ち着かなくなる。
知らないままでいたかった。そうすれば、躊躇いなど無かった。
――否。そうではない。
何故なら。
自分は、『知る』ために来たのだ。
彼女を――魔王を、どうするか。
それを決めるために、自分は魔王の討伐に乗り出した。
「ったく。ほんと、変な奴だよな」
「……」
「……どうした?」
一言も発することなく黙り込んでしまったクレスに、アリスは問いかける。知らず、彼女を抱く腕に力がこもり、まだ下ろしてもいないことに今更ながらに思い至った。
離すべきか。
迷ったこと自体に驚愕した時に、クレスがゆっくりと見上げてきた。
「あの、勇者様」
控えめな、けれど強い眼差しを受けて、アリスは逸らすことなく見つめ返す。
真っ直ぐに受け止めた紫水晶の視線は先ほどまでとは違い、どこまでも澄んでいた。
「朝食を終えたら、私の部屋に来ませんか?」
「あ?」
「ちょっと秘密基地、なんてものをお見せしたいんです」
アリスの腕から抜け出し、クレスはぴっと人差し指を立てて悪戯っぽく微笑む。
離れていった温もりが、名残惜しげに触れていた箇所を痺れさせる。その感覚に眉をしかめながら、アリスは一度目を閉じた。
秘密基地。
彼女は、どこまで手の内を見せてくるだろうか。
〝……どうか、……の、意志を〟
未だ、あの日の赤い景色に囚われている自分。
「……分かった」
「良かった! じゃあ、朝食後に!」
ぱあっと輝く彼女の笑顔が眩しい。屈託なく、心から幸せそうな笑みを咲かせる彼女は、風の様に軽やかに舞って、城の中へと駆けていく。
その背中を見送って、アリスは己の手の平を見つめた。表情を削ぎ落とし、ひたすらに彼女に触れた部分を凝視する。
ああ、気付きたくなかった。
だが、気付かなければならなかった。そうしなければ、アリスは今も八年前の真っ赤な空間で佇んでいることしか出来なかっただろう。
だから。
「……、……何が出てくるやら」
重く赤い予感を抱えながら、アリスは未だ見えない道を掻き分ける様に、城の中へと歩き出した。
あの日は、月も出ていない夜だった。
眠れなくて、幼き日のアリスが父の姿を求めて部屋へ行くと、扉が微かに開いていた。変だな、と首を捻って静かに覗き――思わず声をかけてしまった。
「父さん」
はっとして、頭を垂れていた父が弾かれた様に顔を上げたので、悪いことをしたなとすぐさま後悔した。
だが、後悔しても、同じ状況ならきっとまた声をかけただろう。何故なら、父の姿を見た途端、一も二もなく駆け付けたくなったからだ。
首を傾げながら覗き見た部屋は、静寂よりも重苦しい沈黙が胸を潰す様に充満していた。
明かりも点けずに自室のベッドに腰かけていた父の姿は、アリスの胸を締め付け、ひどく真っ暗な焦燥を煽ってきた。
だから、きゅっと口元を引き締めて踏み込んだ。
真っ暗だった室内に、廊下からの光が一筋差し込んだが、何故か気分は暗いままだった。まるで光自体を拒んでいる様な感覚に陥るのは、部屋の主がそう望んでいるからだろうか。
「父さん」
もう一度呟いて、アリスは小さな手で父の手に触れた。そして、驚きに目を
普段あれほど大きくて暖かい手は、氷よりも更に冷たかった。目を開けたまま死んでいるのではと、ありもしない想像を浮かべてしまって、ふるりと小さく首を振ってしまう。
「父さん。どうしたの」
足元から這い上がってくる寒々しい不安に駆られて、アリスは問いかける。
ベッドの脇に膝を付いたまま見上げたから、十にも満たない自分は遥かに父より低いはずだ。それなのに、ベッドに腰を下ろしているという事情を鑑みても、父がとても小さく映った。
「……うん。ごめんね、アリス」
ぎこちなく微笑んで、父はアリスの頭を撫でた。ひやりとした指が、アリスの髪をさらさらと
まるで、縋る様な仕草だ。日中には絶対に見られない憔悴しきった姿に、アリスは益々不安に押し潰されそうになる。負けない様にと反射的に父の手を握り締めたが、それは誰のためだったのか。
熱を伝える様に、アリスは一心に父の手を撫でる。
寒空の下に置かれた様な父の心の冷たさが、少しでも暖かさで埋まれば良い。子供らしい祈りを捧げながら、アリスはひたすらに父の手を撫で、握り締める。
そんな必死な願いを見抜いたのか、父はようやく熱を帯びた笑みを見せた。それは苦笑ではあったが、アリスには救いに思えた。
ひょいっと軽く自分を持ち上げて、父はそのまま自分を膝に乗せて抱き締めてくる。顔はアリスの肩に埋もれる様な形になってしまったから、表情は窺えなかった。
けれど。
「……、父さん」
ひどく、淋しくなった。
父が、泣いている。そう直感してしまって、アリスはぎゅっと抱き締め返す。そのまま背中を撫でれば、微かに肩で父が揺れた。吐息がくすぐったくて、アリスは少しだけ身をよじる。
「ごめんね、アリス」
「……、別に」
「大丈夫だよ。明日になったら、また父さんに戻ってるから」
「……」
「大丈夫だよ」
言い聞かせる様な物言いだ。
それが、果たして誰に対して向けられていたのか。気取れぬほど、アリスは愚かではない。
知っている。最近、また父への陰口が増えた。高圧的な貴族連中がのさばり始めた。
人間と魔族の共存政策。反対する人間は、未だ後を絶たない。
魔族側の体制がどうなっているのかはいまいち
父は、どれだけの心労をその身に背負い、孤立を強いられてきたのだろう。
手を替え品を替え、事あるごとに嫌味と皮肉に心血を注ぐ愚かな部下。態度だけは大きくて、頭は権力しか埋まっていない連中に、父は常に毅然とした姿で接しなければならなかった。
隙など見せられはしない。弱みを見せたらすぐに目の色を変え、引っ張り落とされる。
母がアリスを産んで割とすぐに亡くなって、父の身近な味方は自分だけになった。理解者や賛同者は徐々に増えてきてはいるものの、身分も相まって、父には友人と呼べる者が国内にはいないことを、アリスは既に深く理解していた。
だが、父は止まらなかった。歩みを止めなかった。
人間と魔族は、同じ『人』だと。主張して、譲らなかった。
茨の道を傷だらけになりながらも突き進む父。ひたすらに茨を断ち、引き千切りながら世界を切り開こうと邁進していた。
そんな父を、アリスは心から尊敬していた。
将来は父の右腕になって、勇者の地位に就いたならば更に盛り立てようと誓いを立てた。
父には、幸せになって欲しかった。
苦労した分、傷付いた分、泣いた分、誰よりも笑って欲しかった。
だから。
「アリス。今日は、私のお友達が来るんだ」
アリスは、感謝していた。父の親友に。
――あの日。確かに、俺は望んだんだ。
「きっと、アリスも好きになるよ」
父が誇らしげに語る、親友と顔を合わせる、その瞬間を。
「……アリ、スが、……無……、事で――」
馬鹿みたいに、待ち望んだ。
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