第11話


「お父様、どこに行くの?」


 幼い頃、クレスは外出する父に同じことを問いかけていた。

 答えは分かり切っている。特に浮足立って何日か留守にすると告げてきた時は、目的地は一つしかなかった。

 それでも質問する理由は、ただ一つ。

 クレスの問いかけに、いつだって父はとても楽しそうに、幸せそうに振り返ってきた。



「お父様の、大大大親友のところだよ」



 そうして胸を張る。

 父のその屈託のない満面の笑顔が、クレスは大好きだった。






『むかしむかし、あるところに――』


 物心ついた頃から、父はクレスによく物語を読み聞かせてくれた。

 タイトルは、『勇者と魔王』。

 平たく言えば悪逆非道の魔王が、正義のために立ち上がった勇者に倒されるという単純明快なお話。

 だが、巨悪な悪に敢然と立ち向かうその姿は、初めて見た時にクレスの瞳に焼き付いて離れなかった。ばくばくと鼓動が暴れ回って、その夜は眠れなかったのを覚えている。


「勇者様……カッコ良いー!」


 いつもの様に読み終えて、クレスはじたばたと手足を動かして感激に身を震わせる。

 たった一人で強大な敵に立ち向かう勇気。迷いなく進む信念。人々の絶望を断ち切り、暗雲を打ち破って光を取り戻すその勇姿。

 まさしく、人々の『希望』と呼ぶに相応しい。

 きっとカッコ良くて、優しい笑顔でみんなを幸せにする、素晴らしい人物なのだろう。想像して益々クレスはじたばたと手足を動かし、昂る心を少しでも落ち着かせた。


「勇者様、会いたいなー」

「クレスは本当に勇者様が大好きなんだな」

「うん! いつか勇者様に会って、ファンですって言うー!」

「はっはっは、そうかそうか。うん。お父様も、勇者のことは大好きだよ」

「ほんとう!?」

「ああ、本当だとも」


 ただし、娘にちょっかい出したら許さん。


 ぼそっと最後に何事かを呟いていたが、小さすぎてクレスには聞こえなかった。ただ、にっこりと笑う横顔はとても輝いていて、父も勇者様のことが本当に好きなのだと嬉しくなった。

 改めてクレスは、手元にある本を見つめる。

 表紙には、剣を掲げて魔王に立ち向かう勇者様の絵が飾られていた。その凛々しい姿は見る者全てを惹き付け、心を奪っていく。この物語を読む者は、誰もがこの勇者に憧れ、熱望し、存在を追い求めるのだろう。クレスもその一人だ。

 そして、この物語はお話の中だけには留まらない。

 何故なら。



 隣の国ミシェリアには、本物の勇者様がいるのだという。



 それを聞いた時、クレスの心はかつて無いほどにときめいた。

 心臓がどかどかと早鐘を打ち、呼吸が苦しくなって意識が遠のき、遂には倒れてしまったほどだ。父が、「クレスー!?」と泣きながら医者を呼ぶほどの大騒ぎになってしまったが、クレスにとってはそれほどまでに衝撃で、天にも昇る光り輝くお告げだったのだ。



 本物の勇者様に、会える。



 人間と魔族は、古来より天敵の仲だ。

 今こそ交流が細々と始まってはいるが、まだまだ笑って肩を組んで話すには程遠い。それくらいは、父の執事のシエルに教えてもらっている。

 だが、父は今、その勇者と仲良くしようと絶賛奮闘中らしい。


 いつか、人と魔族が、笑って手を取り合える日がくる。


 そんな明るい未来を目指し、勇者と魔王が立ち上がっている。それを聞いて、クレスは胸の内がとても優しい明るさで灯されていくのを感じ取った。



 まるで、『勇者と魔王』の物語の続きを見ているかの様だ。



 もちろん、物語は悪い魔王が勇者に倒されて『めでたしめでたし』で終わっている。

 けれど、もし、魔王と勇者に他の道が残されていたのならば。

 魔王が己の過ちに気付いて悔い改め、勇者と手を取り合って新たな道を歩み始めたのならば。

 今の様に、現実に続いている未来も存在したのではないか。そんな風に、クレスには思えてならなかった。

 だから。


「……えへへー」


 急に笑い出したクレスに、父が不思議そうに首を傾げた。そのまま、ひょいっと抱え上げて抱き締めてくる。


「どうした? クレス」

「あのね。お父様と、勇者様。物語の魔王と勇者様みたいだなって」

「ええ?」


 いきなり何を言い出したのかと、父が更に首を傾げた。

 しかし、クレスは構わない。思うままに口にするだけだ。


「何だか、物語の続きを、別にあったかもしれない道を、お父様と勇者様が示してくれているみたいだなって」

「……、っ」

「だから、いつか魔王と勇者様が……お父様と勇者様が、一緒に並んでいる姿が見られたらいいなって、……お父様?」


 ぎゅっと抱きしめてくる腕に力がこもった。そのまま顔をクレスの肩にうずめる父に、今度はクレスが首を傾げる番だ。

 何故か、父の体が震えている。寒いのだろうか。確かに今は冬だが、部屋は暖炉のおかげで気持ち良く温まっていて、クレスは特に寒さを感じない。

 だが、震えは一向に止まる気配を見せない。

 だから、よしよしと、父の肩をクレスは一生懸命撫いっしょうけんめいなでる。昔、母が生きていた頃は、よく父の背中を撫でていたのだと聞いたことがあった。

 しかし、クレスの手はまだ父の背中に届かない。だから、抱き締められたまま肩を撫でる。

 しばらく父は、されるがままになっていたが。

 やがて。


「……、そうだな」


 零した囁きは、濡れた様だ。肩に伝わる震えは笑っている様にも思えたが、確かに声は湿っぽかった。

 泣いているの?

 そう聞こうとしたけれど。


「いつか。クレスにも見せるからな」


 一緒に並んで歩いているところ。


 顔を上げた父は、泣きそうではあったが、とても嬉しそうだった。

 いつだって父はクレスの前では笑っているが、この時の笑顔はとても誇らしげだった。太陽よりも生き生きと輝いていて、その姿がまるで、物語に出てくる『勇者様』の様に優しく、凛々しく映った。

 故にクレスは、頭によぎった質問の代わりに「うん!」と満面の笑顔で返したのだった。






「お父様、出かけるの?」


 クレスも九歳になり、もう少しで十の大台に乗るという時期。

 いつもの様に、うきうきとステップを踏みながら父が外出の支度をしていた。姿見の前で、「これか?」「いや、気合いを入れ過ぎていると分かったらあいつ笑うし」「いやしかしでもこれだー!」と孤軍奮闘している姿を見ていると、クレスはいつも微笑ましくなる。

 この頃にはもう、知っていたからだ。



「ああ。お父様の、大大大親友のところにな」



 魔王である父と隣国の勇者様は、生涯を渡る友であるということを。



 振り返って誇らしげに笑う父に、クレスの顔も自然とほころぶ。

 秘密を告白された時は、クレスの胸は高鳴りを飛び越えて心臓が飛び出し、一緒に体もぴょーんと飛び上がって天井に頭をぶつけ、父に絶叫された。懐かしい記憶である。

 魔王と勇者様が、一緒に夢に向かって歩いている。いつか、両種族が仲良く手を取り合って、堂々と日向の道を歩く未来に。

 今は理解者も少ないが、それでも互いに着実に成果を生み出していた。国境の街に移り住む者も増えてきているのだという。まだ利害が絡む関係も多いが、それでも純粋にお互いを知りたいと願い出る者もいるのだそうだ。

 それを聞いた時、クレスは昔思った『物語の続き』が現実になるその瞬間を体験したかの様な気分になった。


 あくまで物語のはずだった『勇者と魔王』の物語は、今、続きを綴っている。

 両者が分かたれる悲しい結末ではなく、共に生きる、より幸福な未来へ向かって。


 感じ入って、クレスの心は幸せで満たされていく。

 父と勇者様が、一緒に物語の続きを綴ること。

 そして、いつかは自分と勇者様の子供が、その続きを担っていくこと。

 これほど誇らしいことはない。本物の夢に近付いた瞬間だった。



「旦那様、お待たせ致しました」



 しみじみと感じ入っていると、音もなくいつの間にか父の執事であるシエルが部屋に入ってきていた。

 うおう、と飛び上がる父の反応もいつも通りである。


「おお、シエルか。いつも無音だな。その特技やめろ」

「お褒めに預かり恐悦至極でございます」

「褒めてないからな」


 父がむすーっと膨れるのを、シエルは無感動に右から左へ聞き流す。その対応に益々父が膨れ上がるが、本人達は楽しんでいるらしいので、クレスは微笑ましく見守るだけだ。

 シエルは、クレスが生まれて三年ほど経ってから父の専属執事に就任したらしい。詳細はよく知らないが、父がある日突然「俺様、執事が欲しい。だから、来い!」と強引に宣言してどこかから引き取ったそうだ。

 以来、クレスとは年齢も近いので兄妹の様に暮らしていた。シエルも最初の頃は遠慮していた様だが、父の強引さに根負けして、今では普通に家族同然に過ごしている。


「それで、旦那様。ディアルド様への手土産を僭越ながらご用意させて頂きました。旦那様特製生チョコレートケーキに、チョコマフィン、チョコモンブラン、チョコシフォン、チョコクッキー、チョコパイ、チョコプリン……。まだまだありますが、如何いたしますか」

「おお、流石シエルだな! 全部持って行く!」


 即決だ。父がぐっと拳を握るのに合わせて、クレスも思わず両拳を握った。

 今のラインナップは、クレスが聞くだけでも胸躍るものばかりだ。加えて、チョコレートは魔族にとって非常に大切な伝統食の上に、賓客をもてなす際には必ず扱う至極の材料。勇者様もきっと喜んでくれるに違いない。

 そんなうきうきと舞い上がる自分達を尻目に、シエルは無表情に溜息を吐きながらも、淡々と注意点を促した。


「いいですか、旦那様。チョコ魚やチョコ味噌汁など、そういったメニューは外しました。こっそり付け足すのはおやめ下さいね」

「う、ぐ。……えー。あれ、美味いのに」

「勇者様をまた失神させたいなら、加えればよろしいかと」

「……シエルは、良い具合に毒を吐く様になったな。喜ばしい成長だ」

「そんな……照れます」

「褒めてない」


 唇を尖らせて文句を言う父に、シエルは無感動に一礼する。益々父の唇が尖っていくが、一応は納得した様だ。渋々と、シエルが用意したお土産専用トランクを魔法で仕舞う。

 しかし、チョコ魚や味噌汁は勇者様が失神するのか。覚えておこうと、クレスは脳内メモに記した。いつか、自分が勇者様を招待した時に失敗するわけにはいかない。


「ふう。まあ、用意はこんなものか。では、そろそろ……」

「ほっほっほ。またお出かけかの」


 がちゃっと、のんびり入ってきたのはじいやだ。クレスが生まれた時から魔王一族の周りを世話してくれている、頼りになる人物である。

 が。


「……、ああ。今度も数日は帰ってこないと思う」

「そうかそうか。まあ、気を付けての」


 父はいつも、彼と話をする時は少し目を細める。その横顔には一抹の寂寥感が過ぎっていて、見ているクレスは毎回訳もなく胸がぎゅっと締め付けられる感覚を抱いてしまう。

 それに、シエルに至っては彼を見ない様にしている様だった。

 微かに下を向く姿は、まるで感情全てをぽろっと捨て去るかの様な空気を感じて、こちらまで悲しくなってくる。

 ぱたん、と軽くじいやが扉を閉じて出て行く音が、自分達との世界を閉ざした風に響いた。何故と疑問に思うが、本人達から答えが返ってきたことはない。

 先ほどの賑やかな空気から一転、重苦しい複雑な色が混ざった空間に、クレスがわたわたと無意味に手を動かしていると。



「クレス、シエル」



 いつの間にか、父が動いていた。瞬く間に自分達を抱き込んで、ぎゅーっと抱き締めてくる。


「わーい、お父様ー!」

「旦那様。おやめ下さい。暑苦しいです」

「ふっ、やめん」

「うん、やめなーい!」

「クレス様はともかく、誇るところではありません」

「諦めろシエル。俺はな、いつかお前を心の底から賛同してもらってから我が家の養子にするつもりなのだ。さあ、観念してサインをするがいい!」

「しません。というか、心の底からの賛同が早速抜け落ちていますが」

「むー。可愛くないな、我が息子よ」


 嫌がるシエルを尚も抱き締めつつ、父はクレスの髪にキスを落とす。その感触がくすぐったくてクレスは思わず目を閉じてしまったが、幸せを返す様に抱き締め返した。

 そう。幸せだ。

 こんな風に、誰かと抱き締め合えること。軽口を叩きながら、楽しい時間を過ごせること。



 大好きだと、掛け値なく伝え合えること。



 その時間がクレスにはどうしようもなく幸せで、愛しい。


「お父様、大好き!」

「おお、そうかそうか。お父様も、クレス大好き!」

「うん! シエルも大好き!」

「……はい。私もクレス様が大好きでございます。あと、ついでに旦那様も」

「おお、そうか! お父様もシエルが大好きだ! では、サインを……」

「しません」


 ぷいっと振り返ったシエルの顔は、少し照れている。幼い頃から一緒にいるからこそ読めた。口では拒否しているものの、シエルは父に愛されるたびに嬉しそうだ。

 だからきっと、シエルと兄妹になる日も近いだろう。そうなったらお祝いだ。今まで以上に幸せな日々が咲き乱れるだろう。

 もし養子になったら、父は感激にむせび泣いて、シエルを抱き締め。シエルは口では嫌そうにしながらも、嬉しそうに笑って。自分は、そんな二人を見てやっぱり感極まって泣いて、二人に抱き付いて。

 そうして、互いに大好きだと伝え合うのだ。これほどまでに幸せなことはない。

 本物の家族になれる時が楽しみだ。

 楽しみと願いが、また一つ積み上がったその日。


 笑顔でシエルと一緒に、勇者様の元へ出かける父を見送って。






 ――そうして、もう八年が経つ。






 魔王である父と先代の勇者様が亡くなって、互いに子供が即位した。

 親同士はあれだけ直接交流があったのに、子供の代になってからは手紙だけの簡素で無機質なやり取りだけとなった。

 両種族の関係に亀裂が入ることはなかったが。


 魔王と勇者様の間には、あの八年前をきっかけに決定的なヒビが強く、深く、走ってしまった。


 シエルは変わらず傍にいてくれる。

 いつか兄になったかもしれない人。今でも親身になって助け起こしてくれて、不甲斐ない自分を支え続けてくれている。

 本当は、もう解放しなければならないのに。それが出来ないのは、ひとえに自分が無力のせいだ。

 自分に、力が足りないから。現状を打破できるほどの頭も無いから。



〝お前が――〟


 ――『魔』を振り払えるほどの勇気も、知恵も、力も、何もかもが無いから。



 シエルを縛り続けている。自分も、縛られたまま。

 そんな風に、無力を嘆く日々を送っていると。






「……お招きいただき、ありがたき幸せ。『魔王殿』」






 勇者様が、現れた。


〝……すごーい! 勇者様は、そのあくぎゃくひどうな魔王を倒しちゃったんだね!〟


 あの、物語の通りに。

 悪い魔王の前に、正義を貫こうとする勇者様が、現れた。


「俺は、アリスティード・ミシェリア。第96代勇者として、ここに参上した。――その意味、分かるよな?」


 真っ直ぐに差し向けられた夜の訪れを思わせる、勇者様の紺瑠璃色の視線。

 忘れられない。この強く冴え渡る刃になら、何度だって貫かれても構わないと、馬鹿みたいな願いを抱いた。

 太陽の様に眩しい金色の髪と、夜の中に月を閉じ込めた様な凛と鳴り響く瞳。


 自分は。眩い太陽と、穏やかな月を同時に象徴する彼に、一目で焦がれた。


 嬉しくて、惹かれて、高鳴って、どうしようもなく心が『彼』を渇望した。 

 勇者様。本当に会いたかった。会って話がしたかった。どんな人なのかと、触れ合ってみたかった。

 だから、勇者様。聞いてみたいことがあるんです。



〝お父様? ……お父様!〟



 あの日。血塗れで倒れていた父を助け起こしたその日から、自分はたった一つのことを願い続けてきた。それさえ叶えば、全てが無事に終わる。

 ――ねえ、勇者様。



「勇者様! 勇者様! 会いたかったです! 本当に会いたかったです! ようやく会えました! 会えたんですね!」



 どうして。



 ――『この時』に、勇者様は――。


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