第10話
かちゃかちゃと、陶器が小さく音を立てて気品の漂う室内に和音を作り出す。
クレスの私室に丁重に通された後、テーブルを挟んだソファの一つに促され、アリスは一瞬だけ逡巡してから結局ソファにもたれかかった。弾力に富みながらも柔らかく受け止めてくれる感触に満足し、静かにクレスの挙動を見守る。
ここが、魔王の部屋か。
初めて入る私室に落ち着かない気分になりながら、アリスはさりげなく見渡してみる。
一見簡素に見える家具は、どれも一級品の材質であることが判別出来た。王族としては恥ずかしくない、けれど無闇に存在を主張せずに空気に溶け合う雰囲気はアリスの自室に通じるものがあり、好感が持てる。
視線を戻せば、シエルが置いたワゴンの上に、愛らしい花が描かれたポットとティーカップが乗せられていた。クレスはアリスの目の前で、鼻歌交じりに手際良くお茶の準備を進めていく。
不器用と言っていた割には案外手早い作業に、慣れたものだと少しだけ見直した。
「どうぞ! 今日はカモミールにしてみました!」
「ああ。サンキュ」
丁寧にカップを差し出され、アリスは礼を述べてそれを手にする。
表面から立ち昇る甘い香りはリンゴの様に思えるが、微かにオレンジも連想させた。ブレンドしているのだろうかと、少しだけ興味を引かれる。
誘われる香りに負けて一口啜ると。
「……、ん」
ふわりと、口内を優しく満たしていく芳醇な香気。体の隅々にまで浸透し、
こくりと喉から通る香りが全身を潤わせ、羽の様に軽くなっていく。満たされる感覚に、アリスは満足気に目を細めた。
「美味い。お前、ハーブティ淹れるの上手いんだな」
「え! わわわ、ゆ、勇者様に褒められるなんて……! シエルと毎晩徹夜で練習した甲斐がありました!」
「……ぶっ!」
音符を飛ばしてシエルとハイタッチするクレスに、アリスは小さくカップの中で噴き出した。たらったらったとアカペラで踊り出す――相手役のシエルはもちろん全くの無表情だ――彼女に、アリスは手を滑らせ、危うくカップの中身を床にぶちまけそうになる。
「徹夜って、ちょっと待ておい」
「一応小さい頃からハーブティは淹れていたのですけど。勇者様が来ると知って、この三日間完徹しました!」
「か、完徹!?」
「魔族は人間と違って三倍は生きるので平気です! バッチリです!」
「……って、アホか!」
どん、と胸を叩いて誇らしげに種族長所を挙げるクレスに、アリスはソファを蹴り倒して立ち上がった。乱暴にソファが床に転倒するのを、クレスは驚いた様に見届ける。
「え、あ、あの、勇者様?」
「寝ろ」
厳かな、却下は万に一つも許諾せぬ強制力に、クレスはびくりと体を引いた。
「え。で、でも」
「お前な、いくら人間より体力あるからって、三日間完徹だと!? そんでもって、昨夜は俺と遅くまで喋って、今朝は仮眠取らないで朝食の準備手伝ってたのか?」
「あ、あわわわ、は、はい!」
「お前な! 今はハイテンションだから良いかもしれねえけど、疲れ自覚したら一気にぶっ倒れるぞ!」
「え、あの、いえ、でも私大丈夫で」
「自分の体力過信すんな! 俺たち客人がいるからって、無理して倒れられたら元も子もねえだろ。お前もこのカモミール飲んでさっさと寝ろ!」
ぴっとカップを指差して、アリスは顎をしゃくる。有無を言わせぬ態度に、クレスは当惑した様だが言う通りにした。
ポットとカップを温め、蒸らし、慣れた手つきでカップにティーを注いでいく。室内に、また新たな優しい匂いが舞った。
「座れ」
「は、はい!」
命令口調に思わず敬礼して、クレスは光速でアリスの目の前に座った。「飲め」と、さも自分が淹れたかの様に指図すると、彼女がおかしそうに笑う。当然、その反応にはぎろりと睨んで黙らせた。
アリスが無言の威圧をかける中、クレスはこくりとカモミールを口に含む。
途端、ほうっと彼女の口から落ち着いた吐息が漏れた。目元が微かに緩み、指先の動きが緩慢になったのは、体中にカモミールのリラックス効果が循環し始めたからだろう。
「……美味しいです」
「そうか。良かったな」
「……っ」
心持ち安堵した故の同意だったのだが、何故かクレスはびしっと固まってしまった。
そのままカップの向こうにさりげなく顔を隠そうとして盛大に失敗し、目が半分だけ隠れるという意味の分からない様相を呈していて、アリスは笑ってしまう。彼女は本当にやることなすことが意味不明だ。
笑っていたら、彼女は更に隠れる様に顔を伏せ――カップの下から口元が見えるという酷い隠れ具合を披露してくれた。口をへの字に曲げたりにんまりさせたり、口元だけで百面相を表現する彼女は本当に表情が豊かである。アリスには真似出来ない。むしろ、したくない。
そうして、愉快で不思議な空気を二人の間で漂わせていると。
「良かったですね、クレス様。一年に一回しか収穫できないルシエル科のカモミールを、勇者様と共に飲むことが叶って」
「はい! ……って、あっ! し、シエル!」
「……は?」
クレスの影の様に、優雅に丁寧に直立不動の姿勢を取っていたシエルが、とんでもない説明をしてくれた。
クレスが頷いてから慌てて
「ルシエル科? 確かその名が付く植物は、魔国でしか育てられない特殊なものだったな」
「さすがは勇者様、よくご存知で。クレス様が直々に育てられているのですが、今回の勇者様のご来訪を機に、是非とも一緒に味わいたいと」
「し、しししシエル! そ、それ以上は、だ、だだだ、駄目です……っ!」
「クレス様の健気で奥ゆかしき大胆な願いを耳にし、このシエル、是が非にでも勇者様に胸の内を知ってもらいたいと思ったのです。しかし、クレス様のお気持ちも考え一分ほどだけ悩み、断腸の思いで今、白状致しました」
「一分しか悩まなかったのかよ」
いや、一分でも悩んだのならばシエルとしては上々なのかもしれない。彼は、自分が「これ」と思い立ったらほとんど躊躇わなさそうだ。短い付き合いのアリスでも、何となく読めてきた。
しかし、一年に一回。
つまり、ルシエル科の中でも相当希少な材料ということだ。初日の晩餐といい、本当によくここまでぽんぽんと大盤振る舞いするものだ。
「どうりで、普段飲むカモミールよりも味が洗練されていると思ったぜ。お前な、こんな特別なもん出すなよ。一応俺、勇者なんだぞ」
「え、と。ゆ、勇者様だからお出ししたかったんですけど……」
少しだけ恐縮すれば、逆にクレスの方が恐縮して縮こまってしまった。何でだよと呆れたくなったが、彼女はそういう魔王なのだろう。
昼間に語り聞かせていた『勇者と魔王』の物語を掛け値なしに慕い、教訓にしてしまう彼女。アリスに会った時も、本当に嬉しそうにはしゃいでいた。
こうして心を開き、瞬く間に距離を詰め、隣で笑う。昔ながらの友の様に。
誰に対しても同じなのかもしれない。裏表なく真っ直ぐに。だからこそ、民にもあれだけ慕われているのだろう。
だが、今回は特に力を入れている様だ。接待されている自分にも強く伝わってきた。
それは相手が、アリスだからか。
「……なんて、な」
違う。そうではない。うぬぼれるほど、自分は愚かではいられない。
そう。
――俺が、『勇者』だから。
〝ようやく会えました! 会えたんですね!〟
勇者であるアリスという人物に憧れ、歓迎し、そして。
〝勇者様に会えたこと。私、一生忘れません〟
何かを、期待している。
まるで、物語にある『希望』を見るかの様に。
「あ、あのですね、勇者様。その、葉っぱは全て使用したわけでは……」
「……お前さ」
弁解する様なクレスの発言を遮って、アリスは問いかける。
己の懐である城に呼び込み、大切な者達がいる城下を案内し、物語を聞かせ、こうして貴重な飲み物まで提供する。
そうして、極めつけに言うのだ。アリスと共にいるのが夢の様だと。夢なら醒めないで欲しいと。まるで、夢見る少女の様に。
なのに、現実を見据える様に教訓を促し、人々の意識を柔らかく
彼女の素顔は、一体どんなものなのだろうか。
別に演技をしているとは
だが、全てをそのまま捉えるには少し大人に過ぎた。
「何で、『勇者』にそんなに心許すんだ」
「……、え?」
「城下にしょっちゅう出かけて、魔王倒される物語平気で話してるみたいだし。人間に偏見持たない様に呼びかけてるっぽいし。そんなに勇者を――人間を信用してるのか」
問いかけてみれば、クレスは考え込む様に首を捻った。その顔から一瞬笑顔が落ちたのをアリスは見逃さない。
緩く巻かれた艶やかな漆黒の髪が、優雅に彼女の横顔に流れる。初めて会った時、憎悪や高揚が無ければ、きっと見惚れていた。
夜の様に深く、見る者全てを穏やかに安らぎに導く黒い髪。磨き抜かれた紫の双眸はまるで水晶の様に澄んでいて、彼女の心をそのまま映し出したかの様だった。
凛と背筋を伸ばした姿は、夜にひっそりと、けれど気高く咲き誇る一輪の花。闇に溶け込まずに辺りを照らす様な立ち居振る舞いに、あの時確かにアリスは目を奪われた。
高潔な君主だ。それは間違いない。これだけ色々部下や民の姿を見せつけられれば一目瞭然だ。
だからこそ、知りたかった。
〝本当に会いたかったです!〟
何故、そんな風にあけすけに体当たりをしてきたのか。
彼女の奥底に、一歩踏み込んでみたくなった。
「……私」
迷った様にクレスが口を開く。
それでも決心はした様だ。受けて立つ様に、彼女が柔らかく、照れくさそうに真っ直ぐ見つめてくる。
「五歳くらいの時に、一度だけそちらの勇都に行ったことがあるんです」
「――――――」
突然の告白に戸惑ったのも一瞬。
意外性の高さに、アリスは「へえ」と思わず感嘆を漏らした。
「勇都? つまり、ミシェルにか?」
「はい! 父に連れられて」
魔王が人間の国に、しかも勇者の直轄地である勇都になど。随分と度胸のある魔王だと、他の者なら辟易しただろう。
だが、アリスにとっては何ら不思議なことではない。
現に、アリスの父も魔王の本拠地である魔都には何度も
そうして、帰ってきてから決まってアリスの元に駆け寄って。
〝アリス! すごいんだよ! 今回はね、魔族の人達と腕相撲をしたんだ!〟
意味が分からない。そう突き放すのが通例だった。
大体父のお忍び感想は、「だからどうした」と切り捨てられる内容が多かったのだが、いつも父はにこにこと楽しそうに、頭に花を咲かせて笑っていた。
本当に嬉しそうに、事細かに、それこそ「一分刻みの話はいらない」とアリスが却下するくらい詳細に報告してくれた。
父の笑顔は、魔族との交流が増えるたびに輝きを増していた様に思う。最初は遠巻きにされたと少し悲しそうにしていたから、父の笑顔が増えるたびに内心はアリスも喜んでいた。
クレスの話を聞くに、先代の魔王は断片的にだが父に通じるものがある。
それがひどく苦しくて、握り潰す様に右手に力がこもった。
「それでですね。勇都に着いた後、『よし、別行動してみるか』と父が言い出しまして」
「……、はあ?」
何だか、話が怪しい方向に転がっている。
まだ気の抜けない勇都で、子供を一人にして。仮にも父親が、自由気ままに歩き回る。
いくら何でも、とアリスが打ち消す暇もなく。
「そうして、一人で私は城下を見て回ってみたんです! うきうきでした!」
クレスは全面的に、そのとんでもない意見を全肯定した。しかも、とても素敵な満面の笑みである。呆れるしかない。
「……お前ら」
「お父様が言ってくれたんです。『大丈夫だクレス。ここで殺されるようなことはない。何しろ、あの魔族と手を結ぼうとする変わり者の勇者が治める国だからな。そんなことが万が一、いや、億が一にでもあったならば、お父様が全身全霊で力の限り魔力を振り絞って、あのにこにこへらへら勇者を血祭りにして逆さ吊りにして二度と日の目も見れない様な恥っずかしい姿にしてからすり潰す。だから、安心して勇都を冒険してきなさい』って。だから、わくわくしながら冒険をしました!」
「……、……ああ。そうか。本当、何事もなく、今ここに生きていてくれてありがとよ」
恐らく、にこにこしながら本気で宣言したのだろう。流石は魔王。本気で敵に回していたならば、父も大変な事態に陥っていたかもしれない。
ただ思うのは――逆の立場だったならば、父も同じ様な宣告をしていただろうということだった。どれだけ息子である自分に、平静に『勇者たれ』ということを説いていても、時折自分のことで過保護になりすぎるきらいがあったから。
――どこまで似てんだよ、こいつら。
そこまで思って、アリスは舌打ちしたくなるのを全力で押し止める。クレスの話を中断させるわけにはいかなかった。
「でも、何というか、えー。まあ、迷ってしまいまして」
「当たり前だろ。仮にも首都、しかも勇者お膝元の勇都だぞ。馬鹿広い上に、中央広場から外れるほど道が入り組んで複雑化してんだ。初めて来た奴が探検するには無謀すぎる」
「は、はい。それはもう、身をもって。……それで、細い裏通りみたいなところで、遂に泣いちゃいまして。子供でした……」
「ははっ。……それで?」
想像通り過ぎる結末に、アリスはつい笑ってしまった。
クレスは恥ずかしそうに頬に手を当てて、それでもどこか懐かしそうに目を細める。
「一人の男の子が、手を差し延べてくれたんです」
「―――――、……」
泣いて
そんな風にクレスは語っていく。
「どうしたんだ、って。ぶっきら棒でしたけど、とっても安心する声で」
クレスの黒髪は、魔族の象徴。
人間だらけの街中では、さぞかし浮いた存在だっただろう。
「彼は、躊躇いなく右手を差し出してきてくれました。魔族だと一目でわかったはずなのに、彼は進んで話しかけてきてくれたんです」
嬉しそうに両手を合わせて、クレスが笑う。
彼女も、幼くとも知っていたのだろう。
当時は、今よりも更に魔族への偏見は根強く残っていた。勇者のお膝元であろうとも、人間の中で何も思わずに魔族に近付く者は稀だ。
だからこそ、喜びが何物にも勝ったのだろう。アリスには、そんな風に聞こえた。
「迷子かって聞かれて、迷子なんですって答えました」
「……素直だな」
「はい。広場で待ち合わせしてるのにって、また泣きそうになったら、その男の子は『ついてこい』って私の手を取って歩き出しました」
ずんずんと早足で歩いていくから、歩幅の小さな自分は
「でも、時々確認する様に、ちらっとこっちを振り向いてくれて。おかげで、何とかついていけました」
「……、そうか」
そう、答えるしかない。聞いているだけで、どんどん気持ちが落ちていくのが分かったからだ。
聞かなければ良かった。
思いながらも、実際にそれを口にするわけにはいかない。
故に、黙ってアリスは彼女の思い出話に耳を傾ける。
「歩いている間は、一言も喋らなかったんです」
「……」
「でも、その沈黙がとても心地良くて。冒険みたいと楽しんでいたとはいえ、やっぱり一人は心細かったみたいで。広場に出たところで安心して、また泣いちゃって」
「災難だな、その子供」
「はい。……その子は、困った様に周りを見渡してから、仕方なさそうにハンカチを差し出して」
頭を、撫でてくれたんです。
語るクレスの響きは、とても優しい。恐らく、彼女にとっては優しい思い出なのだろう。それは語り方からも、語る時の仕草や目元の和らぎ方からも見て取れる。
自分の頭に手を当てながら嬉しそうにはにかむ彼女は、その時のことを回想しているのだろう。
子供みたいに幸せそうに笑うその姿に、アリスは自然と視線が下に落ちていった。
「私にとって、大切な思い出です。その思い出があるから、私はずっと人間を信じています。仲良く出来ると、共存は叶うと、信じて疑わないんだと思います」
それ以来、人間の国には行けていないけれど、と淋しそうにクレスは眉尻を下げる。
「そして、久しぶりに出会えた人間である勇者様も、ロッジさんも、アデルさんも。とっても良い人でした」
「……そうか?」
「はい! だから、私、確信したんです」
ぱん、と両手を合わせて、自信満々に胸を張るクレスはとても輝いている。
その先の言葉を衝動的に止めたくなったが、そんなことが出来るはずもない。
「私、人間が好きです。ロッジさんもアデルさんも、――勇者様も。大好きです」
だから。警戒するなんて、考えられないんです。
そう締めくくるクレスの笑顔は、暴力的なまでにあけすけだった。
大切な宝物を抱き締める様に柔らかく、幸せそうに語るクレスの表情は綺麗だ。アリスの目が、矢に射抜かれた様に鋭い痛みを訴えてくる。
正直、眩しかった。そんな風に、過去を幸せそうに語れることを。
〝なあ、父さん。今日――〟
自分は、未だに赤く囚われているから。語るには、思い出が真っ赤に過ぎる。
だから、一言「そうか」と漏らしたっきり。アリスは、クレスと視線を合わさずに黙ってカモミールを啜った。
ぱたん、と極々少量の音を立ててシエルは扉を閉めた。
その向こうでは、重苦しい静寂ながらも、ぎこちなく歩み寄ろうとしている勇者とクレスがいる。これ以上二人の傍にいるのは無粋というものだ。
今のうちに夕食の用意を、とシエルが踵を返しかけた時。
「姫様のお守りも大変じゃのう」
「――――――――」
背中から無遠慮に声で刺され、シエルは嘆息しながら向き直った。
「じいや様。姫様ではありません。魔王様です」
「ほっほっほ。そうだったの。しかし、いつも言っておるじゃろう。気軽にデューと呼んで下され」
「では、デュー様。どうしたのですか、こんな所で。彼らに、何か用でも?」
「いやいや。お二人の仲の進展具合を冷やかしに――って怒るでない。冗談じゃ、じょ・う・だ・ん」
背景でどす黒いオーラを炎の如く立ち昇らせるシエルに、デューは飄々と白い髭を撫でつけた。茶目っ気たっぷりに深い紫色の瞳を細め、素知らぬ顔で口笛を吹く。
「邪魔などせぬよ。心配するでない」
「邪魔などしたら、いくらデュー様でもそれ相応のお叱りを受けていただきます」
「ふむ、それは勘弁ですじゃ」
ほっほ、と愉快そうに笑うデューに、シエルはしかし気が抜けない。無表情の鉄仮面を張り付けながら、これみよがしに溜息を吐いて右手で道を促す。
「ならば、そろそろお部屋に戻っては? もうすぐ夕食の支度を……」
「しかし、良かったのう。『計画通り』に事が進んで」
「……………」
世間話の様に挟まれた単語に、シエルは険しい顔つきになる。
それは長年の付き合いの者にしか見通せぬ微量な変化だったはずだが、デューには充分だっただろう。面白そうに髭を人差し指に巻き付ける表情が、雄弁に物語っていた。
「あの勇者殿も人が好い。初手で姫様を殺しておけば、情けなど生まなかったじゃろうに」
「……何が言いたいんですか」
「もっと楽になれたということですじゃ。これで、勇者殿は思うツボ、というわけじゃな」
「…………………」
ほっほっほ、と実に愉快気に体を揺らすデューから視線を外し、シエルは無感動に扉の向こうを見つめる。
デューが出現してから、こちらの声が漏れぬ様にシエルは魔法で防護壁を張っていた。微弱な魔力しか使用しないから、クレスにはともかく、魔法を得手としない勇者には感付かれていないだろう。そう願うしかない。
「安心せい。誰も聞いてはおらぬよ」
「デュー様。お
「いざとなれば、あの双子騎士も利用できるのじゃろ? まさか、勇者殿の幼馴染とはのう」
その一言に、ざっとシエルの顔から血の気が引いていく。心臓が跳ねそうになるのは、根性で静めた。これ以上ヘマは踏みたくない。
「……聞いていたのですか」
「なに、噂話には目がなくての」
努めて冷静なシエルの問いに、しかしデューは全く意に介さずにくるりと背を向ける。廊下を歩き出した背中は、もはや用事は済んだと物語っていた。
「まあ、計画の成功を前祝でもして待っておるぞ」
最後まで飄然とした風情で立ち去るデューに、シエルは耐え切れぬ様に視線を落とす。見えない圧力が耳元で嘲っている様で、胸が真っ黒に圧迫された。
彼の紫の瞳が、未だに自分をぎらぎらと追いかけてくる様で落ち着かない。ぐっと喉を引き絞り、拳を固く握り締めた。
〝――大丈夫だ〟
昔、かけてくれた声が耳元で反響する。
何度も何度もかけられた言葉は、他の者にとっては何の効力が無くとも、シエルにとっては確かに魔法だった。
けれど。
〝お父様? ……お父様!〟
「……、旦那様」
魔法をかけてくれた魔法使いの姿はもう、どこにもいない。
だから。
「クレス様。……お許し下さい」
決意をして目線を上げた時にはもう、デューの姿はどこにも見当たらなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます