第2話

 も、もう無理だ…死ぬ…


 一目散に駆けだした俺だったが、靴下のままで且つ普段の運動不足も祟り、ものの数分で体力が尽きてへたり込んでしまった。石畳とは言えそれほど綺麗に均されている訳ではないので、当然足へのダメージも大きい。痛みに顔をしかめながら足の裏を見てみると、靴下に血が滲んでいた。

 正直もう一歩も歩きたくなかったが、時間、気温などあらゆる面でそうも言っていられない事態だ。俺は諦めて再び石畳の道を歩き出す。少し進むと緩い上り坂に差し掛かった。ふうふう言いながら登り切るとほんの数百メートル先に小さな街が見え、俺は安堵で思わず泣きそうになってしまった。


 これで少なくとも、道端で野垂れ死ぬ事はなくなりそうだ。きっと何とかなる。

 俺は柄にもなくポジティブな事を考えて己を叱咤し、そこから30分ほどかけてようやく街の入り口に辿り付いた。着いた頃にはもう息も絶え絶えだ。本当によく頑張ったと自分を褒めてやりたい気持ちで一杯になる。もし逆方向に走っていたら今頃どうなっていたか…そんな想像は、あまりに恐ろしいので考えない事にした。


 何もなかった道の脇にぽつぽつと建物が増えてくる。そのほとんど全てが赤のレンガを中心に建てられ、現代日本のごった煮の風景に慣れた俺からするとそれだけで見とれてしまう程美しかった。

 もう日が沈んでいるため往来を歩く人は少ないが、それでもすれ違う人の姿が増えてきた事に安堵する。そうしてしばらく歩いていくと、何の種類かは分からないが大きな樹を中心にした広場に出た。ここだけが他の場所と比べて人の数が多く、どうやら街の中心のようだ。


「よし、後は何とか宿を見つけるだけ…だ…な…?」


 しかしそこで、俺はとても重大な過ちに気付いてしまった。


 先ほどのナイフ女の件と道行く人々の会話から、どうやら言葉が通じるらしい事は分かった。俺の服装を見て胡乱げな視線を送ってくるものの、だからと言って変に絡んだりしてこない程度には良識のある住人。動力は分からないが街灯も整備されているし、衛生環境も思った以上にしっかりしている街だ。時折馬を利用する者もいたが、その割に馬糞が放置されている様子もない。


 だが、それだけなのだ。


 当然ながら寝間着のままこちらに来てしまったので、俺は今一円も持っていない。ここに来るまでに気付かないようにしていたつもりだが、実は商店などにかけられた看板などの文字は英語ですらなく、当然ながら一切読めないので宿を探す事もままならない。もちろんこの状況を何とかしてくれる知人がいるはずもない。

 社会性のある人間ならここで果敢に住人に話しかけて情報を得たり出来るんだろうが、会社の人とすらまともに話せない俺にそんな事が出来るはずもない。必然、何も出来ないまま立ち尽くして数十分が過ぎた。


 時間が経つにつれて気温もぐんぐん下がってくる。このままじゃマジで凍え死んでしまう。そんな焦りは、良い意味で徐々に俺の理性を奪っていき…。


 ここでストリートライブ的な事をやってお捻りを貰えれば何とかなるんじゃないか…!?


 そんな、普段の俺では到底考え付かないような、楽観的でバカげた結論にたどり着いてしまった。この時俺は、本気でどうにかなると思っていた。いや、そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。

 とにもかくにも、このまま立ち尽くしていても仕方ないと、俺は傍にあった古いベンチに腰掛け、ギターをケースから取り出した。お捻り箱としてケースは開けたままにして目の前に置き、楽器を構える。


 どういう演奏がウケるのか分からなかった為、自然と一番得意な曲を弾くことにした。俺は目を閉じると、軽く息を吸ってから最初の一音を鳴らすと、心地よい振動が体に伝わってくる。

 某名作RPGで一番人気のその曲は、少し捻くれたコードが随所に散りばめられた、少し切なくて、だけど何となく勇気をくれる。俺の一番のお気に入りの曲だった。

 引き始めてからしばらくは、周りの反応が怖くて目が開けられなかった。しかしそうしている間にも曲は終わる。俺は恐る恐る目を開き、そして愕然とした。


「っ…!」


 相変わらず人通りはそこそこあるが、誰一人として俺に目を向ける者はおらず、まるでそこに何もないかのように目の前を通り過ぎていく。静かな曲だから雑踏に音がかき消されたのかもしれない。そんな風に思う事もできず、俺はその無関心に恐怖した。

 ネット上にアップしていた動画は少しは評価されていたし、演奏技術に関しては自信を持っていた。しかし、実際に生身の人間を前にして演奏するのはそれとは全く違う。相手に音が届かない事がこれほど恐ろしい事なのだと今更ながらに実感した。

 いよいよ終わりかもな…。結局、現実でもこの妙にリアルな夢のような世界でも、俺は何一つ残せないまま死んでいくのだろうか、なんて大それた事を考えながら空を見上げる。


 その時、数メートル先で見覚えのあるシルエットが見えた。杏色の髪、手にはナイフ…は流石に持っていない。こちらを見てぽかんとしているので咄嗟に目を逸らそうとした瞬間、ばっちり視線が合ってしまった。


「あ~っ!あの時の変た…」

「すいませんでしたぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

「ちょっと!また!?」


 いくらシリアスを気取っても、事案で捕まるのだけはごめんだ。惨めすぎる…!俺は一瞬で意識を切り替え、今度はギターも放り出して一目散に逃げ出した…のだが。


「ちょっと!どうして逃げるのよっ!」


 お前が追いかけてくるからだ!と心の中で叫ぶ。しかも俺より足速え!それに足も普通に痛くてまともに走れない。俺の息が上がるのにつれて、ナイフ女との距離はぐんぐん詰まっていく。もはやこれまでか…などと追い詰められた戦士のような気持ちで速度を緩めようとした瞬間――


「ぶへっ」


 数センチだが盛り上がった地面に足を引っかけて、思い切り前のめりで転んでしまった。思わず変なうめき声が出てしまった。こんなに豪快に転んだのは多分小学生以来だ。直後、俺は派手な音を立てて地面と熱いベーゼを交わしていた。

 そして往々にして不幸は重なるものである。激痛の走る顔面を両手で抑えようと仰向けになったのと、すぐそばまで迫っていたナイフ女が止まり切れず俺に躓いたのはほぼ同時だった。俺はどう反応する事も出来ず、スローモーションのように迫ってくる少女の顔だけが鮮明に見えていた。

 あぁ、驚いた顔、めちゃくちゃ可愛いなぁ…。ていうかこのまま行くと、唇どうしがぶつかりそうじゃない?


 ゴチンッ!


 しかし、そこから先の感触は互いの額が思い切りぶつかり合った衝撃で少しも感じる事が出来ず、俺はそのまま意識を手放した。

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