第1章「旅人たちの前奏曲(プレリュード)」

第1話

 鬱蒼と茂る深緑に囲まれ、俺はパチクリと目を瞬かせた。あまりに突然の事に意識が追いついていない。

 その時、何か虫のようなものが視界の端で動いたのを見た瞬間、俺は思い出したようにビクリの肩を震わせその場から飛び退いた。その拍子に木の根に足を取られて思いきり尻餅をついてしまう。


「〜〜〜〜っ…!!」


 尻から脳天に電流が走り、声にならない呻きが漏れた。地面を転がりしばらく悶えていると、痛みも少しずつ引いていく。そして、それと同時に現状を把握して今度は冷や汗が流れるのを感じた。


 確かに今の今まで、自分の部屋でギターを抱えて座っていた筈だ。だが、気分を上げようとかき鳴らした瞬間、周囲の景色が自室から森の中に変わっていた。


「いや、嘘でしょ…えぇ…」


 自分に言い聞かせるように呟いてみたが、すり替わった景色を目にして、ある一つの答えが頭の中を支配していくのを感じた。


 ---異世界転移


 日本では秋も終わり本格的に冬の兆しが出てきた所だが、どうやらここも同じらしい。スウェットの上下だけだとかなり肌寒く、そのリアルさだけで夢じゃないと断言できる。

 某テレビ番組のドッキリ企画という線も捨てきれないが、そんな事を仕掛けるほど親しい友人は一人もいない。悲しいかな、ぼっちである事により迅速な状況判断が出来てしまった。


 そして次に感じるのは命の危険。正直、タチの悪いいたずらであればどれだけ良かったかと思う。当然部屋着のままだから靴も履いていないし、他にあるものと言えば愛用のギターだけだ。この寒さの中立ち尽くしていても、その先に待つのは凍死の二文字。そうでなくてもこの深い森の中だ。熊のような獣の類がいてもおかしくない。

 最悪の未来を想像して二重の意味で震える。兎にも角にも、暖のとれる所を探さないと本当にマズい。俺は辛うじて(都合よくと言った方が良いのか)いっしょに飛んできていたケースにギターを仕舞い、とぼとぼと歩き始めた。


 そうして三十分ほど歩いただろうか。少しずつ視界が開けていき、ようやく森の端まで辿り着いた。適当に進んだ割には都合よく森から出られてしまった。

 そのまま歩いていくと、やけに月が明るい気がして空を見上げる。


「いやいやいや…マジで冗談きついなぁ」


 まるで、ここはお前のいた世界ではない、とドヤ顔を決めるかのように、地球から見るそれより遥かに大きな月(と思われるモノ)が浮かんでいる。ぱっと見で直径が3〜4倍くらいはありそうだ。いよいよドッキリ企画の可能性が低くなってきた。こんな大掛かりなセット、作れるわけないもんな…。今思えば森の中も結構明るかったのは、このやたらでかい月の明かりだった訳か。


 とりあえず森からは出たがこれから先どうしようかと周りを見渡すと、少し先に草木を踏み分けたように道が続いているのが見えた。どこに繋がっているのかなんて分からないが、今はこれしか手がかりがない。

 決して平とは言えない道を悪戦苦闘しながら十分ほど歩くと、今度は石畳の、いかにもファンタジー世界の街道のような所に出た。アスファルトの道路に比べると幾分かデコボコしているが、今まで歩いてきた道に比べると歩きやすさは天と地の差だ。


 それにしても。


「何とも都合の良い事で…さて、問題はどちらに進むか、だけど」


 訳もわからぬままこんな所に飛ばされてそろそろ一時間。大した苦労もなく人の手の入ったものに出会えてしまった。そりゃあ相変わらず認めがたい状況が続いているのは確かだし、街道に出たからと言って寒さを凌ぐ方法が見つかった訳でもない。だが俺は基本的にネガティヴな人間で、こんなにすんなり事が運ぶとは思っていなかったのだ。

 そもそも、本当に都合良くいくというのなら最初から人里に転移させて欲しいし、早々にエルフの美少女と出会い特殊な力を目覚めさせて欲しい。


 そんなくだらない事を考えていると、今度は虫ではなく何か小動物が視界の端で動くのを見つけた。ピクピク動く長い耳は一見すると白ウサギのようだが、尻尾がやたらと長い。初めて見る動物であることは確かだが、こちらの存在に気付かずに道のはずれにある茂み逃げ込んでしまった。

 そしてそのまま姿を消すと思われたが、白ウサギはそこでピタリと動きを止めた。


 --直後、ウサギ、というよりその周辺の景色が陽炎のように揺れ、言いようのない悪寒が走る。直感的にヤバいと感じたものの、怖いもの見たさというのだろうか、こういう時人は意外と見てしまったりする。

 そんな気持ちで目を凝らしてその場所を注視すると突如白ウサギが痙攣し始め、直後に信じられない事が起こった。


 まず始めに眼の色が変わり、続いて全身の筋肉が盛り上がり始めた。あまりの膨張に血管が切れたのか、至る所から血が流れている。そうしてものの数秒のうちに可愛らしいウサギは見る影もなくなり、まさに魔獣と呼べるような恐ろしい姿に変わり果ててしまった。


(や、ヤバいっ…)


 信じられない話だが、その体躯は明らかに一回り以上大きくなっているし、一目見ただけ凶暴性を増したのが分かる。俺は恐ろしくなって思わず後ずさりした。


「誰っ…!?」


 突然聴こえたその女性の声に、俺は反射的に振り向いた。その場にそぐわず通りがよく凛とした声の主は、戸惑いと警戒心を持って俺に対峙している。

 歳は俺より3〜4つほど下だろうか。月明かりを受けて淡く輝く杏色の髪が印象的な少女が立っていた。少女は警戒を解かぬままこちらに一歩踏み出す。

 その瞬間、月明かりを受けて少女が手にしていた「何か」がきらりと光る。それが何か分かった瞬間、俺は思わず後ずさりした。


「ちょ、ちょっと待って、落ち着いて…何か悪いことしたんなら謝りますからっ!」

「ちょっと、大きな声出さないでよ…!落ち着くのはそっちでしょ…!」


 いやいや、出会い頭にナイフ構えられて落ち着けってのが無理な話だ。心の中で思わずつっこむ。そして、先程の白ウサギが豹変した場所から物音がしたのと、視界が逆転したのはほぼ同時だった。


 驚きすぎて、目の前の状況に声が出ない。というか、口を押えつけられているのでそもそも無理な話なのだが。

 どうやら物音に気を取られた瞬間に押し倒されたようだ。仰向けになった俺が下で、ナイフ女が上。無論、俺の胸の上では女の胸が押し付けられているし、顔は数センチ程の距離しかない。


 とりあえず落ち着こう。いや、無理なのも無駄なのも分かっている。魔法使いとなってしまうのも時間の問題であるこの俺が、こんな状況で落ち着ける筈もない。

 そんなシャイな俺が動けずにいる中、ナイフ女は俺をぶっ刺すでもなく食べちゃうでもなく、ただじっと息を殺して辺りを警戒している。どうやら俺が恐れていることも、実は密かに期待していた事も起こりそうにはなかった。


 俺はほんの少し、それこそBB弾くらいのちっぽけな程の落ち着きを取り戻し、ナイフ女をまじまじと観察した。夜なのではっきりとは分からないが、肌は透き通るように白い。目はぱっちり二重、長い睫、鼻と唇は上品にちょこっと、それらのパーツがバランスよく顔に乗っている。後ろで結われた杏色の髪は一本ずつが驚くほど細く、重力に従って垂れたそれが俺の頬をくすぐる。おまけに何とも言えない良い香りが漂ってくるもんだから、気が気ではない。女と言うには少々幼い顔立ちだし、少女というには色々と柔らかくてけしからん体である。


 ヤバい、完全にタイプだ。というか、タイプじゃなかったとしても、普通に美少女だ。魔法使い見習いの俺には刺激が強すぎる。しかし俺も一端の社会人。恐らく年下であろう(しかも多分10代だ)の見知らぬ少女に手を出せばどうなるか、想像に難くない。


 そうしてしばらく自分自身との死闘を繰り広げていると、ふと強張っていた少女の体から力が抜けるのを感じた。気付けば先程の白ウサギも姿を消している。どうやら、見つからぬよう俺を庇ってくれていたらしい。


「ふう…危なかった…」


 吐息交じりにそう呟いた少女の声が右耳をくすぐり、俺は思わずびくりと体を震わせた。それに気付くと、少女は思い出したように俺の口を塞いでいた手を離した。ごめんなさい、という表情を作って、離した手を地面につき起き上がろうとする。


 よーし、そのまま何事もなかったように離れろよ…何も気付くなよ…。心中でそんな事を呟きながら、俺は下半身の状態を少女に知られぬよう祈った。バレれば冗談抜きで事案だ。

 しかし、人生は山あり谷あり。そして谷の中にもまた大きな谷があったり、山だと思っていた所が谷だったりするのだ。つまるところ、俺の下半身が少女との接触で反応しているのが、実に呆気なくバレた。


 まるで「かーっ」という擬音が浮かびそうな程、少女は目に見えて頬を赤くした。そしてほんの数瞬の戸惑いの後、わなわなと体を震わせて口を開いた。


「このっ…!へんた…」

「すいませんでしたぁぁぁ!!」

「きゃっ!」


 逃げ腰と逃げ足には変な自信を持っていた俺はすかさず少女の避難に謝罪をかぶせ、そして言うが否やその細い体を突き飛ばして一目散に逃げ出した。


「ちょっ…こらっ、待ちなさいよ〜!」


 そんな叫び声を背中に浴びながら、俺はがむしゃらに走る。

 やっちまった…完全に事案…。あまりの出来事に頭の中はグチャグチャで、現状も、そしてこれからの事も全て吹き飛んでいる。

ただただ今起こった事を忘れたくて、ひたすらに走り続けた--

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