第2話「霜鳥晶の一番長い一日(前編)」
Chapter A-1
はぁぁぁぁぁ……もう、今日は本当に驚きの連続ですわ
ええ?! それは私の事ですか?
当たり前です、セレクトさんの所にいたり、いきなり……を見せたり、はぁ
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銀髪さんは私が逃げる時に通ったラブホテル街を横目に入り組んだ裏路地を迷いなく歩く。
渋谷の道はある程度知っているつもりだったけれど「こんな所に道なんてあったっけ?」と思うような小径に入る。
そして「え? ここに出るの?」と思うようなルートを通って辿り着いた場所は、何度か通ったことのある稲荷神社の近くだった。
その近くのビルの間に地下へ階段が伸びていた。
「あの……なんというか時間がおかしいんですけれど」
「……」
「どうして誰にもすれ違わなかったんでしょうか」
「まぁまぁ、食事のあとで聞くから」
二階層分ぐらい降りた先、古い木製のドアがあって、案内されるまま部屋に入る。
扉を抜けた先は思ったより広いけれど殺風景な部屋。
「道玄坂の魔女……」
という、都市伝説になっている存在が住み処にしているとは思えないぐらい、この表現をなんと言えばいいのだろう。
そうだ「ガッカリ」感というべきか。
魔女なら大鍋があったり、ホルマリン標本が陳列されていたり、古い木造の図書室みたいだったり、フラスコとかビーカー、薬草なんかが所狭しと置かれていたりっていうイメージなんだけれど、ここはコンクリートの殺風景な壁に、フローリングの床と、中央には四畳半分の畳、ブラウン管のテレビと古いテレビゲーム機が無造作に置かれ、中央にはちゃぶ台が置いてある。
壁際には業務用流し台に何故か最新型の冷蔵庫、使い込まれた古い食器棚と年代物の桐箪笥。
イメージも年代も、コンセプトもばらんばらん。
「はいはい、適当に座ってください」
申し訳程度の広さの玄関(らしい)スペースで靴を脱ぎ、ちゃぶ台の前に正座する。
「はいお茶です」
「あ、どう……もっ?」
どんと目の前に置かれたのはペットボトルの
魔女って紅茶を嗜むイメージがあるのに烏龍茶!? しかもペットボトル!? それでもって紙コップって。
銀髪さんはいそいそと座り、嬉しそうに袋から牛丼パックを取り出すと、七味唐辛子をぱらぱらふりかけて「いただきます」と手を合わせるとぱくぱく食べはじめた。
「ええぇぇぇ……」
三ヶ月前ぐらいだと思う。
友達のSNSから「こんな話があるんだけれど、知ってる?」とメッセージが届いた。
-東京に天使がいるらしいよ。
そんなメッセージからはじまって、雑誌やネットニュースでは尾ひれと手ヒレだけでなく脚までついたような噂が流れはじめた。
-山手線、終電の二つ前に乗ると誰も乗っていない車両があって、小さな女の子が渋谷で乗るらしいよ。
-渋谷に凄腕の占い師の女の子がいるらしいね。
-小さな女の子が猫を百匹連れて歩いているらしい。
-真夜中の渋谷で銀髪の女の子を見たら死の呪いを掛けられるとか。
-道玄坂には魔女がいるって。
ウサワの種類はいくつもあるけれど、ほとんどに「渋谷」「女の子」どちらかの言葉が入る。
そして、つい最近では「道玄坂には魔女がいる」という噂を耳にするようになった。
広域な噂の拡散とは裏腹に、合成や捏造と判定された以外の写真はネットや雑誌、テレビでも見た事が無い。
だからよくある「都市伝説」みたいなものだと思っていた。
「噂は本当だったけれど」
私を救ってくれた魔女さんは、ものすごい勢いでぱくぱくぱくーっ! と大特盛り牛丼を平らげたあと、お茶を飲んで「ふひ~」と息を漏らす。
「ご馳走様でした……ええと、それでなんでしたっけ?」
「え、ええと、なにをって……えーと、ええと……あ、そうだ、時間っ!! 時間ですっ!!」
「時間がどうかした?」
「マークシティからここまで結構な距離を歩きましたけれど、5分しか経っていませんでした!」
「勘違いじゃない?」
「勘違いでないですっ、マークシティの前を通った時が24分、ここに到着したのは29から30分」
「歩いている時って思っていたよりも時間は長く感じる時ってあるんですよ、錯覚じゃない?」
「神泉駅の前を通りましたよね? マークシティからあそこまで歩いたら10分ちょっと掛かります! それに歩いている時、誰にもすれ違わなかった……それっておかしいじゃないですか!」
思わず身を乗り出していた事に気づいて、慌てて座り直す。
「よく気づいたね……でもおかしい事ではないよ」
「おかしいじゃないですか!」
「それは君らのいうところの『魔法』を使っていたからね」
銀髪さんが指をくるくる回しながら、何のことは無いのですという表情で飛び出た「魔法」という単語。
常識ではあり得ない、胡散臭い話は信じない筈なのに『道玄坂の魔女』の言葉は不思議と受け入れた。
「じゃぁ、私を助けてくれた時に出た騎士……あれも魔法、なんですか?」
「違う」
「こんばんわ」
予想外の答えに拍子抜けした途端、突然扉が開いた。
「あら、霜鳥さん?」
「へっ……もしかして花鶏さん!?」
「おや?」
そこにはクラスメイトの「
「小姫さん、霜鳥さんとお知り合いで?」
「あまりお話をした事はございませんが、クラスメイトです」
「花鶏さん、どうしてここに……」
「それはこちらの台詞ですわ」
花鶏さんは勝手知ったという顔で流し台へ向かうと、袋の中身を冷蔵庫に詰めていく。
彼女とはクラスの伝達関係で一言二言用件を伝えた事があるだけで、会話らしい会話はしたことが無い。
それは私が花鶏さんと友達関係じゃないという話ではなく、彼女には学院内に友達らしい人がいないという話だ。
「セレクトさん、遅くなって申し訳ございません」
「いいよ~、霜鳥さんに牛丼を買ってもらって食べたから」
「セレクトさん?」
「ああ、名乗るのが遅くなってしまったね。私はセレクト・アーシャッテといいます、セレクトと呼んでください」
ようやく銀髪さんの名前を知る事ができた。
花鶏さんがセレクトさんの隣に正座して、私に向き合う。鋭い目つきはあまり歓迎されているという雰囲気ではない。
「ところで霜鳥さん、どうして貴方がこちらにいるのですか?」
「え、ええと、どこから説明したら……いいんでしょう?」
「彼女は天使に追い回されていた所を私が助けて、終電が終わってしまったからついてきただけ」
「そう、そうなんです……は?」
今、私が天使に追い回されていたとか言いましたか?
あの、血走った目を剥き、口から涎を垂らし、警視庁の「やめよう危険ドラッグ! でないとこんな風になっちゃうぞ!」というポスターがあれば間違い無く即採用されそうな、あの半分ゾンビみたいな人が天使!?
いやいや「てんし」という私が知らない方言だったり、固有名詞のことですよね?
「霜鳥さん……あなた、神罰を受けるような悪行をされたのですか?」
「はぁぁぁぁ!? 神罰って」
花鶏さんは神罰とか言いましたか?
じゃあなんですか、あの狂犬みたいな二人は私が知る所の「天使」と仰いますか?
あの全裸で羽がついて、頭に輪っかがついてる、アレですか?
「小姫さん、違うちがう……霜鳥さんは悪行じゃなくて信仰の方、多分連中の気まぐれで追いかけ回されたんだよ」
「そうでしたか」
「信仰? 気まぐれ? ちょっ、ちょっと何ですかそれ?」
二人はお互いに目線を交わして、花鶏さんが小さく溜息をつく。
「どうして連れて来てしまったのですか……終電が終わったのならファミレスなり、漫画喫茶などありましょうに」
「彼女はね、私になけなしのお金を払ったから無一文らしいよ」
ああ、三人の情報共有が全然されていないから、さっきから話があっちこっちに飛びまくっている。
「さっぱり要領を得ませんわ。どういう事ですの?」
「私の方がさっぱりなんですけれど……花鶏さん、ええとですね順を追ってお話します」
花鶏さんに私の経緯を説明し終わると、セレクトさんが補足をつけてくれた。
「霜鳥さんは、どうも祝福を受けたらしいね」
またしても「祝福」という初耳の単語。
「ああ、それで信仰不足として追いかけ回されたという事ですか……はぁ、やっと理解できましたわ」
「私はまったく理解していないのですけれど……もしかして、私は何か特別な能力とかあるんですか?」
「いいえ、有り体に言えば信仰心のない普通の方ですわ」
「はぇ?」
花鶏さんの回答に、思わず間抜けな受け答えが口から漏れてしまった。
正直に言うと、ちょっと期待していたかもしれない。
もしかして自分が特別な存在だったりして、物語のヒロインとか、そういうの。
「霜鳥さん、君のお母さんかお父さんはクリスチャンではなかったかな?」
セレクトさんが飲み干した紙コップを弄びながら、頬杖をついて私を見る。
「あぁ……はい、亡くなった父が」
「それでね、霜鳥さんは子供の頃に教会で洗礼を受けたと思うよ」
「ご家族の方が信者でしたら、一般的な儀式ですね」
「はぁ……」
「それで、ミサとか行った事はあるかな?」
「ミサ?」
花鶏さんが小さく「ふぅ」と溜息をつく。
「典礼儀式……ええと、礼拝みたいなものですわ」
「ありません」
セレクトさんはやれやれと手を振って、花鶏さんは立ち上がって、無言でお茶を沸かしに行った。
「信じるかどうかは勝手だけれど、この世界には『神』みたいな存在がいてね。普段は何もしないんだけれど、気まぐれで信仰心がない者に罰を与えるんだよ」
「神様って……その、キリストさんみたいなものですか?」
「ちょっと違うけれどね……判りやすく判断するならそれに近いものだと思って欲しい」
神って複数いるものかと考えると、日本だって神はいっぱいいるという話をぼんやり思い出していた。
「それで、たまたま霜鳥さんは目を付けられて、抜け殻に憑依された天使に追いかけ回された、という話」
「抜け殻って……あの金属バットの二人ですか?」
「そう、あの二人は薬か何かで精神が朽ちて死んだ、幽霊みたいな存在だよ」
ふと、惨殺された筈なのに跡形もなく消えた二人組を思い出す。
「だから普通の人にも見える事はあるけれど、存在を認識できない」
「見えるけれど……認識できない? え? ええと??」
「小姫さん、説明を」
ガス台の前でお湯が沸くのを待ちながら話を聞いていた花鶏さん溜息交じりに口を開く。
「霜鳥さん、貴方は街を歩いている時に一人一人を確認していますか? 視界に入っているけれど、その人がどんな人か注視しますか?」
「え、えぇぇと……しません」
「それに似ています、あれは例え視界に入っても意識には入らない……そういう存在なのです」
「でも、そんな話は聞いたことがありませんよ!?」
「当たり前、その事実を知った人は大体死んでいるからね」
テーブル向かいのセレクトさんが手を組んで私を上目使いで見る。
「あの二人に襲われた時、私が来なかったら君はどうなっていたと思う?」
「え、えと」
二人に金属バットで殴られていたらタダでは済まないと思う。
「表向きは犯人不明の通り魔事件に巻き込まれたってなっていただろうね……よく判らない事故死、突然の心臓発作や自殺、そんな事件のいくつかはあなたの知らない類の仕業だよ」
「そんな……」
「どうぞ、熱いのでお気を付けて」
花鶏さんが私にお茶を煎れてくれた。
「あの、聞きたい……」
セレクトさんが手を出して私を制する。
「今後の為にちょっと話をしたけれど、ここいらで引き返さないと戻れなくなるよ? 世界には知らない方が良かった事なんていくらでもあるのさ」
「……」
「まだ君は半歩、ドアから出ただけだから引き返せる」
「霜鳥さん。タクシー代をお出ししますから悪い事は言いません、もうお帰りなさい」
湯気立つ湯飲みの横に、花鶏さんがすっと一万円札を差し出す。
「花鶏さん、ご厚意は嬉しいですけれど、あなたにお金を恵んで頂く理由がありません」
折りたたまれた一万円札をそのまま返す。
「どうしても今すぐ帰れというなら、歩いて帰ります」
立ち上がろうとした時、セレクトさんが手を挙げて制する。
「ふぅん……小姫さん、もう一杯お茶をくれないかな?」
「え? あ、はい……」
セレクトさんが青い瞳でじっと私を見つめた。
「霜鳥さん、天使に襲われるなんていうのは雷に撃たれるぐらいの確立だから、今後の生活は安心していいよ」
彼女が言ったとおり、このまま帰れば今まで通りの日常が送れるのだろう。
ちょっと知ってしまった事があるけれど、見ないフリ、聞かないフリを続けていけばいい。
正直に言うと……もう、あんな怖い思いはしたくない。
けれども知りたいという欲求もある。
さっきの言葉が確かなら……ぐっとちゃぶ台の上に置いた手を握る。
「霜鳥さん……死んだ人は帰らない、それに神に報復なんて全く無意味でできっこないからね」
「え?」
花鶏さんが煎れてくれたお茶を一口飲むと、セレクトさんが私をじっと見つめている。
なんだか、心を見透かされている気がして落ち着かない。
「小姫さん、今日はもういいから霜鳥さんを送っていってくれないかな」
「はい」
「霜鳥さん、これをあげるよ」
「これは……懐中時計?」
セレクトさんが腰に下げていた時計をすっとテーブルの上に置く。
「いっ、いえ、こんな高価なものを頂く訳にはいきません」
「高価じゃ無いよ、40年ほど前にイギリスの古道具屋で見つけた安ものでね」
「え?」
「またあんな事に逢わない為の……日本でいうお守り代わりさ、三千円のおつり」
「はぁ……」
銀色の鎖がついた、掌大の丸い懐中時計。
時間は正確に時を刻んでいるようだけれど、何故か秒針が動いていない。
「あの、これ秒針が」
「それは止まった時に動くのさ、気にしないで」
「はぇ?」
「さぁ、霜鳥さん行きましょう」
色々まだ聞きたい事はあったけれど、花鶏さんに促され、道玄坂の魔女の部屋を後にした。
扉が閉まる瞬間、セレクトさんが「またね」と言った気がした。
「はいこれ」
階段を上がって、花鶏さんは階段の横から古いスクーターを引っ張り出してエンジンを掛けると、予備らしいヘルメットを手渡される。
毎朝鯨みたいな大きな外車に乗って登下校をしている彼女からは想像ができない程、古くてくたびれた感じのスクーター。
「ヘルメットをつけたら乗って」
「これ、花鶏さんの?」
「そうよ、霜鳥さんのお住まいは幡ヶ谷方面だったかしら」
「あ、はい……よくご存じですね」
「それでは参ります」
私が座ると、返事も待たず花鶏さんはスクーターを急発進させた。
色々聞きたかったけれど、背中から「何も聞くな」という雰囲気をひしひしと感じる。
これもセレクトさんの言う「世界には知らない方が良かった、なんていくらでもある」という事なのだろう。
私は一般人なのだから、もうこの件は忘れて普通の生活に戻ろう……そんな事を考えながら、ふと流れる道路の景色を見つめる。
「あれ……車が一台も走ってない」
山手通りと甲州街道の大きな交差点の手前でスクーターがゆっくりと速度を落として路肩に停車する。
夜中でも車通りが多い交差点には車が一台もないし、歩道にも誰もいない。
角にあるオレンジの看板の牛丼屋のカウンターには客どころか店員の姿すらない。
「はぁ……申し訳ありません、霜鳥さん、少々こちらでお待ちになってください」
「え?」
花鶏さんは脱いだヘルメットをミラーに引っかけて、交差点の真ん中へと歩いていく。
彼女が向かう先には、黒いコートを纏った異様な長身の人影がいて、輪郭だけが信号機に照らされている。
余りにも日常の景色からかけ離れているので、まるで映画かドラマのような作り物のような光景に見えた。
「こんばんわ、随分手の込んだ結界を引かれていますが、どのような理由で人の営みを阻害されておられるのですか?」
「これはこれは……夜回り中に貴方様をお見かけしました故、小生から最低限の礼儀……と受け取って頂ければ」
-キィィィィンっ!
花鶏さんと黒コートの間で青白い火花のようなものが散って澄んだ金属音が響く。
「花鶏さんっ!!」
「そこから動かないでっ!!」
彼女が叫ぶと同時に、火花と金属音の乱舞が始まった。
目の前の光景を理解する事ができず、ただ呆然とみているだけしかできないけれど、光が弾ける度にひんやりとした風が頬を撫でる。
「すごい……」
乱舞は数秒で治まり、高架を走る高速道路と交差点の間で音だけがわんわんと響いた。
花鶏さんが透き通った「何か」を持っているらしく、手を払うと辺りの光を反射する粒子のようなものを散らしながら「ヒュン」という風切り音を立てる。
次の瞬間、大量の硝子をまとめて割ったような「ばしゃんっ」という音と共に花鶏さんの目の前で大きく広い範囲で火花が散る。
それが立て続けに数回続いたけれど彼女の表情は変わらず、余裕さえ感じられた。
「貴重な時間を無駄にしたくありません」
花鶏さんが何かを払いのけるような仕草をした瞬間、交差点の真ん中で大きく青い火花が散ると何かを避けるように黒コートが後ろに飛んだ。
「次で終わりにさせて頂きます」
「ほほう、流石は道玄坂の魔女……小生の全力をもっても微動だにしないとは、いやはや」
「え?」
黒コートの意外な言葉、それがどういう意味なのかを考えようとした時、地面に「何か」が見えた。
見間違い……ではない、それで片付けては駄目、本能的に危険なものだと頭が警鐘を鳴らす。
目を大きく開いたり閉じたり、視界のピントをずらしたりすると確かに「何か」がある。
「……うーっ、何……だろう……模様?」
ラジオのダイアルを回して放送局を探すように、ぼんやりと見え隠れする「何か」の正体を探ると、突然スイッチが入ったように黒い地面に描かれた幾何学模様のような「線」が見えた。
その「線」は黒コートの足元から、まるで花鶏さんを避けるように大回りなコの字を描き、ゆっくりと彼女へ近づいている。
「花鶏さんっ! 足元に何か「線」がきてる!!」
私が叫ぶと同時に、コの字状に広がっていた幾何学模様はざわっと波打つと花鶏さんの足元へ殺到する。
彼女は言葉を理解する前にとんっと地面を蹴って後ろに飛ぶと、追ってきた「線」の束を、目の前に出した小さな硝子のようなもので弾く。
着地と同時に、花鶏さんが信号機の光を照り返す「何か」を投げたらしいけれど、よく見えない。
そして再び音と光の乱舞が始まった。
「そのちらのお連れ様、私の術式が見えているのですか……まずいですねぇ……まずいですねぇ」
黒コートがぐりっと首を回して、穴が開いたような真っ黒な瞳で私を見つめた。
「ひっ」
首筋がざわっとする。
大体、こういう嫌な予感というものは当たるもの。
黒コートの足元から伸びていた幾何学模様の一部が進路を変え、ものすごい勢いで私に向かってきた。
「霜鳥さん、お逃げください!!」
「え!? 逃げろって……にげっ」
おろおろしているうちに地面を這う「線」が噴き出し、空中で束になってぐるぐると回転すると、鋭い銀の針のようなものへと形を変えて、私の額めがけて飛んできた。
交差点の端っこで、大きく目を見開いて私に何かを言っている花鶏さんの顔が見えて、そして目の前数センチに針の先端が迫っていて……ああ、これが走馬燈って奴かな、鋭い針だから目に刺さったら痛いだろうな、もしかして死ぬのかなぁと……不思議とそんな事を考えていた。
-あれ?
銀色に光る針は目の前数センチで止まっている……走馬燈にしては長いし、景色もなんだか夜にしては明るいし単色だ。
視界の次は首が動いて、驚いたポーズのまま、今度は指先が動く。
まるで水中にいるように、ねっとりとした抵抗があるけれど、身体を動かすことができるのに事に気づいた。
-動ける……
止まった世界で私はゆっくりと針を避け、手を伸ばして驚いた表情の花鶏さんの方へと歩こうとした瞬間。
「うわっと」
急に身体の抵抗がなくなり、つんのめってぱたりと前のめりに転ぶ。拍子にスカートのポケットからセレクトさんにもらった懐中時計が落ちた。
目の前に迫っていた針はそのまま街路樹に突き刺さった後、穴を開けて砂のように消えていく。
「いてて……何?」
懐中時計を拾い顔を上げると、音と光の乱舞は消えて花鶏さんと黒コートが「信じられないものを見た」という表情で私を見ている。
「なっ、なんなのですかっ! そこのあなたはっ!?」
別の「線」が三つに分かれ、アスファルトに幾何学模様を描きながらものすごい勢いで迫ってくる。
「霜鳥さんッ!!」
花鶏さんが叫び、三つの「線」が私の半径1メートル以内に入って、噴水のように飛び出した所で再び世界に色が消えてゆっくりと速度を落とし……完全に停止した。
止まった世界では色も消えて、音もしない……筈なのに、どこからか「こつっ、こつっ」と何かの機械音がする。
掌を見るとセレクトさんに貰った懐中時計の止まっていた秒針が15、16、17……刻々と動いていた。
重い身体を起こして立ち上がってみる。やはり止まった世界で、身体をゆっくりと動かすことができるらしい。
-声は出ないんだ……
私がいた場所に迫っていた「線」をよく観察すると水銀のような材質で、どういう原理か判らないけれど、あの黒コートが動かしているらしい。
-とりあえず、これを避ければいいんだよね……身体が重い……
脇に移動したと同時、秒針が12時の位置で止まると急に身体の抵抗がなくなって「世界」が動き出す。
三つの線は目のも止まらぬ速さで針に変形すると、私がいた場所のアスファルトにザクザクっと刺さり、穴をあけたあと砂のように消えた。
「まっ、また瞬間移動を……」
黒コートが妙な事を言っている。
「ここは引かせてもらいますよ……またお会いしましょう、お嬢様方」
黒コートがふっと暗闇に溶けて消える。
花鶏さんが駆け寄って私を歩道まで連れて行くと、あれだけ静かだった交差点に車が押し寄せ、ヘッドライトの川となっていつもの喧噪を取り戻した。
「霜鳥さん、お怪我はありませんか!?」
「え? あ? いいえ……特に何も……」
「よかった……」
花鶏さんがへなへなと崩れそうになったので、慌てて抱えるように支える。
「花鶏さん、大丈夫ですか!?」
「すみません、本来ならわたくしがあなたの心配をしなければならない筈なのに……」
二人で交差点歩道の隅で建ち並ぶ自販機脇の壁に寄りかかる。
なんとなく、今は小さな灯りでも近くにあるだけで安心できるような気がした。
「どうぞ、これぐらいは今日のお詫びに受け取ってください」
「あ、ありがとうございます……」
花鶏さんが缶コーヒーを奢ってくれた。
「失礼かもしれませんけれど、花鶏さんみたいなお嬢様はこういう缶コーヒーとか飲まないのかなって思ってました」
「……意外な言葉を最初に言いましたわ、割と好きですのよ? 缶コーヒー」
「へぇ、ちょっと意外です」
「気にならないのですか? さっきとか……私も貴女に聞きたい事があるのですけれど」
「う、ううぅん……なんとなく、聞かない方がいいのかなぁとか、私もうまく、その、説明できるかどうか……」
実際は、もう今日は色々な事がありすぎて頭が本当にパンク状態。
これ以上情報を詰め込みすぎると、大切な話でも即座に寝落ちしそうなぐらい疲れている。
セレクトさんの懐中時計を見ると秒針は相変わらず止まったままで、3時を回っていた。
「はぁぁぁぁぁ……もう、今日は本当に驚きの連続ですわ」
花鶏さんが学院では絶対に見せないような、大きな溜息をつく。
「ええ?! それは私の事ですか?」
「当たり前です。突然セレクトさんの所にいたり、いきなり不思議な……を見せたり、はぁ」
「ええと、そうですね、私も花鶏さんの事でも驚きがいっぱいなんですけれど……また今度にしませんか?」
「……そうですわね」
普段飲まない微糖ブラックの缶コーヒーを一気に煽って、二人ともほぼ無言のままスクーターに乗る。
アパートの前で簡単な挨拶だけ交わし、花鶏さんはそのまま帰っていった。
「疲れた……もうだめ」
そう呟いて布団に倒れ込むと、着替えやお風呂などの欲求の贖いも空しく、意識が深い眠りの淵へと落ちていく。
こうして私、霜鳥晶のもっとも長い一日が始まった。
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