第27話 「Joker」から見る社会問題ー(2)-

(2)大衆は空の獣


ここ最近、大衆についてばかり書いている気がしてならない。それくらい自分の中で重要度の高い問題なのだ。この極めて危険な獣はその巨体が持つ意味を理解せずまたそれを知ろうという努力もしない本当に無意識の内に生まれる多大な影響力を保持し明確な意思を持たない集団。これこそが大衆だ。あの映画の中にも大衆となる存在は描写されているがそれは本当の意味で大衆とは言わない。まず大衆は大体の社会問題の中において当事者意識はないのだ。彼らは社会で騒がれる事象の多くは関係ないことだと考えている。たとえ当事者であっても彼らは自分が当事者だと認識できてなければ彼らの内では当事者ではない。ゆえに多くのことに無関心で社会から離れている。「大衆は社会から離れている」という表現をしたがこれは現実としてみれば間違いだ。彼ら大衆は社会の中にある。しかし彼らの認識の中では違う。彼らにとって社会は普段分裂して認識されているのだ。自分の関係ある部分とそうでないところ。関心があるかないかで彼らの対応は全然違う。大衆の中身は個人の集団である。しかし彼らは無関心と自己への関心の高さという点で共通しておりある意味で個人主義に近いかと思える。しかし、彼らは個人主義的な行動を進んでとらない。なぜなら彼らは集団でいることに安心感があるからだ。彼らは個人として欲求を持っているがそれが常識なる集団の暗黙のルールの枠に収まっているかも注目する。時に人のわがままを非難するが自分のわがままが許されると判断すれば通す。彼らは細部で見れば身勝手かもしれないが広く見れば統率がとれている。しかも先導者なしに。ここが危険なところだ。彼らは明確な意思を保持していない。大衆の行動原理は内部から生まれるのでなく、外部から生じるのだ。彼らは進んで自ら思考し行動する連中ではない。それだと足並みがそろわないからだ。ゆえに彼らは待つ。変化を待つ。そしてその変化によって形を変え反応を起こすのだ。これは外部によって統率できるものではない。なぜなら「個」として存在していないからだ。「大衆」とひとまとまりにはできてもそれを「1」という個体として数えることはできない。これが大衆の最たる特徴だ。これは人間だから発生する現象である。シマウマの群れと大衆は持ちうる性質が全然違う。シマウマの群れはきっと人間によって行動予測が可能だが大衆の場合はそうともいかない。人間には本能以外にも行動において頼るものがたくさんある。大衆を構成する60%は予想通りに動いても残りの40%が予想通りの行動にならなければそれによって社会には多大な影響が発生する。ここに大衆の持つ不確定要素があるのだ。それは彼らが簡単に分裂しうるというもろさも兼ね揃えているというところである。協調を主とする大衆がなぜ簡単に分裂するという話になるのか。それは大衆が「個の集まりである」というところに起因する。最初にも述べたが大衆を構成する要件の一つとして無関心がある。しかし、事象によっては無関心ではいられないこともあるのだ。例えばスポーツの試合で日本が負けたとしよう。応援していた人間は反応を示すだろうが興味のない人間は無反応だ。これはある事象において興味のある人間が大衆から分裂し深い共通点のある小集団へと変貌したということになる。自分には何の影響もないスポーツの試合を見て一定の反応を示すということは自分の中に一つ瞬間的な特異性を持ったことになりそれを理由に大衆から分裂し熱を持つ独自の集団となるのだ。さて「Joker」からこの大衆について分析をするとき彼らはどう存在しあの映画の中でどう変化したのだろう。社会における大衆とはマジョリティでありその大部分を占めている。一方でマイノリティの中にはエスタブリシュメントやエリート、他にも社会的弱者も含まれるだろう。マジョリティに貧困層が入るかというのはその社会の環境によって決まることだ。中間層が多ければ多いほど彼らはマイノリティであるだろうしそうでなければ彼らはマジョリティと呼べるだろう。主人公である彼は大衆の中の一部だったと私は考える。しかし彼はその大衆から脱却しようという意思は存在していた。彼の内部にも大衆からの離脱と意思があったが望まずして手に入れた彼の境遇も大衆の中で歩んでいけるようなものではなかった。彼は特異性を有していた。しかし彼はその特異性を知らず大衆の一部でいた。すなわち自己に無関心であったということだ。社会はその特異性からか彼に大衆でいることを望まないかのようにいくつかのきっかけを与える。ここに大衆分裂の要因がある。彼らの姿勢は基本受動的なところだ。ゆえに彼らは機械的な日常の中で偶発的に起こった事象によって大衆から分裂するタイミングを獲得する。彼の場合はエリートの殺人だ。彼にとってそれは偶発的に起こったことで積極的に行ったわけではなかった。ここを転換点として彼はより大衆から距離を取っていくことになる。次に彼(主人公)を除いた大衆を考察しよう。彼らの中にあったのは格差だ。しかしそれを深刻な問題としている層とそうでもない層の2種類が混在していた。彼らは協調姿勢という点で共通し沈黙していた。しかしこの2種類が混在していた大衆が主人公の起こした殺人事件の報道によって分裂する。この時に理解してほしいのは大体分裂するのは大衆の中にいた少数派だということだ。あの映画において最後まで大衆という存在でいたのはあの映画では全然注目もされないモブ達であり活動していた連中ではない。あの映画の大衆はコメディアンの生放送の観客であり最後の暴動の中で逃げ惑っていた人々であり映画に出てこないような人たちが大衆なのだ。一方で分裂した連中はかつて大衆だった連中で外部の影響(主人公の起こした殺人事件)によって分裂した。ゆえに彼らは行動し「熱狂」を保持しデモかた暴力による実力行使へと至るのだ。私は常々人間が「熱狂」という感覚を持つことは必要だと考えているがそれはこの映画のような無秩序の混乱を招くためではない。その感覚が人間を目標へと駆り立てそれが組織や国家などの共同体に好影響を与えると信じているからだ。しかし、この「熱狂」も大衆のようなついさっきまで積極性を欠いていた人間たちに持たせるのには危険だということは理解している。ゆえに大衆は危険だと私は考えるのだ。彼らの中には信じる理念や思想があるわけではないため流動性の高い性質を持っている。だから彼らは安易に熱狂しやすくその理想のために暴力をいとわない。それによる無秩序にも責任を取らない。テロ組織へと成り果てるのだ。大衆は分裂しやすく扇動者によっては狂暴化しやすいほどに思考能力が低い。ロシア革命もこれに近いだろう。モスクワにいたボリシェヴィキの内どれだけの人間がマルクスを理解していただろうかもっと言えば社会主義についてだ。誰もが理想の社会を実現してくれると考えていたのならいかに社会主義の本質を理解せず妄信していたのかと呆れてしまう。そして自分が選んだ体制でありながら簡単に手のひらを返し無責任に先導者の言葉を借りて非難し昨日までの理想を今日の絶望の原因と嘆く。こんなにも非道で知恵も情もなく信用のならない存在がこの社会で権威的な影響力を誇っているということの危険性を私は理解してもらいたいのだ。彼らは受動的かつ空っぽの存在だ。しかし外部の影響によってその空っぽの思考回路に狂気が降り立ったならそこから先の悲劇はたとえどれだけ人が望まなくても止められなくなる。かつての安保闘争時岸首相は


「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」


と述べている。これはまさにその現場で運動をしている人間たちに大衆の分裂を説いているのだろう。私は安保闘争の「熱狂」については好感を持っているが暴動にも類似している行動や彼らの主張していた意見にはまったく賛同できない立場だ。彼らもまた大衆から分裂することにより行動を起こした者たちだ。彼らも暴力的だという面では危険だ。しかし、真に危険なのはそれよりも多くの人間がさらなる暴力性を帯びる可能性を保持したまま今日に大多数を占め自覚のないまま存在していることなのだ。多くの人が大衆から分裂し秩序ある行動者としてマジョリティたる「無」の大衆から多くの意思を持つ分裂した集団として勢力化することを日本社会に切に願うばかりである。

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