第26話 「Joker」から見る社会問題ー(1)-

今回からしばらくの間、こないだ見た「Joker」を見て思った社会問題について書いていく。少々ネタバレのようなものがあるかもしれないが勘弁してもらいたい。


(1)不条理な社会


「Joker」を見て私が最初に思い浮かんだ世界観はアルベール・カミュの世界観だった。「不条理」自分ではどうにもならないこと。望まずして身に起きた不自由・不幸。これは避けられようのないことだ。他者からの同情では慰められないもの。どうにもならないもの。彼にはそれらが複雑に混濁していた。それが彼を「悪の英雄」という象徴へ押し上げていったのだろう。彼に同調する人たちもまた社会の不条理に悩まされていた人たちだ。彼らも望んで貧困になったわけではない。親の代からそうだったのかもしれないし家庭の崩壊などの災難にあったのかもしれない。これは人によってさまざまだが逃れようのないものは世の中たくさんある。彼の病気も望まずに手にしたものだ。彼の母も彼が選んだわけではない。結果としてその環境に生きざるを得なかったのだ。これには逆らえない。逆らいようがない。子供は親を選べない。また親も生まれてくる子供を選べない。「こんなことなら子供なんて生まなきゃよかった。」虐待する親たちはそう思っているかもしれない。しかし、それが子供を虐待する理由にはならない。彼らもまた不条理の中にあるのかもしれない。この不条理を解消するためには様々な方法があるがそれらは急進的になりすぎると危険な状態を引き起こす。映画の最後シーンのようなもので秩序ある社会の放棄。無秩序・ある意味自由ともいえる。ただこの自由は文明とは逆行している。暴力による弱肉強食の世界を作り出すのだ。では、これを穏便に解消することはできるのか。そこが難しいのだ。不条理に苛まれている人間が社会の多数を占めるならそれは民主主義に基づいた政治がやればいい。しかし、社会の少数を占める人間が不条理の中にいるならそれは不条理の外側の人間が寛容に手を差し伸べることでしか解消へは向かわない。社会において不条理なことは絶対に起きる。それは私の知る限り誰にでも起きることだ。不条理は他者の寛容によって部分的に解消へ向かうことが一番楽になる近道だと私は考える。これを大多数に求めるようでは押し付けになってしまう可能性がある。不幸は絶対に解消されるべきか。私は冷たいようだがそうは思わない。不幸も不条理も絶対に解消されるべきなどということは偽善以外のなにものでもない。誰しもが経験するだろうそれらを無理やり他者に解消してもらえばそれは新たなる不条理を生む。不条理は他者の寛容によって部分的に解消される。あくまで部分的な話だ。観世に解消してもらおうなんて思ってはいけない。自分もまたその不条理に対して寛容でなければいけない。意見をいうことは構わない。助けを求めることも構わない。活動することも構わない。ただ、自分の抱えた不条理、これは自分の所有物だ。譲渡も贈与もできないものだ。ゆえに他者を通じて解消してもらおうという贅沢はしてはいけない。どのような悩みであれそれはその人だけのもので強引な手法を使って変化を求めると大変な事態を生む。これは世間を騒がせる殺人鬼などの犯罪者と変わらない。社会はもっと寛容になることで密接につながることで不条理による個人の負担は部分的解消へと向かうのだ。

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