第5話

 次の雨の日は、翌日。

 二日続けての雨だった。

 ファウスは、朝から落ち着かない気分に襲われ続けていた。彼が子爵令嬢に送った手紙が、正しく働いたかどうか気になって仕方がなかったのだ。

 もし逆に作用したならば、もうロニが手紙を配達してくることはないだろう。心配のせいで、雨の日の彼の主と同じように自分の手を指で叩いたり、無駄に部屋を歩き回ったりする羽目となる。

 遠くで門番が門を開ける音を聞いた時には、既に彼は玄関に立っていた。重厚な扉の向こうから、雨の降りしきる音とはまた違う、不揃いな水滴が、ぽたりぽたりと落ちる音が伝わってくる。ファウスは、表情を動かさないように気をつけながらも、己の胸が速くなっていくのが分かった。

「こんにちは、手紙を持ってきました」

 ノックノック。

 声と扉を叩く音が聞こえた直後──彼は自分の全身が、ほっと力を抜いたことを知った。

 聞き慣れた、ロニの声がそこにはあった。

 安堵と深い喜びが、彼の心を満たして行く。その気持ちのまま、ファウスは玄関の扉を開けた。

 灰色のフードつきレインコートとは不似合いの、やたら上質な編み上げの長靴の女性が、そこには立っていた。

 今日の雨は、少しひどい。レインコートや顔からは、それを知らしめる水が多く滴っていた。

 彼女はファウスを確認すると、にこりとカワセミの背色の瞳を細めて笑みを浮かべる。そんな彼女を愛しく感じ、いますぐその水滴を拭いてやりたい気持ちになるが、彼はぐっと自分を抑えた。

 それから、いつも通りの儀式が始まる。ゆっくりとレインコートを脱ぎ、ハンカチで拭いていく姿を、ファウスは黙って見詰めた。イライラなんて、心のどこにもない。

 あまりに彼女を見詰めていたせいで、自分の主がすぐ真横に迫っているのにさえ気がつかなかった。

「確かに、受け取りました」

 ようやく彼女から受け取った手紙を、そのまま簡単に奪わせたファウスは、主が二階へ上がって行くのを見送る。いつもなら、ここで少々情けない主の態度に対してため息をつくところなのだが、今日の彼は違った。

 主の気持ちが、とてもよく理解出来たのだ。

 再び玄関の彼女の方に向き直ったファウスは、驚きに目を軽く見張ることとなる。

 ロニは。

 もう一通。

 手紙を。

 差し出していた。

「執事様、昨日はありがとうございました。おかげでもう少し、雨の日の配達が出来るようになりました」

 宛名に書かれているのは、ファウス・ユーベント。

 格上に対する宛名形式ということは、子爵令嬢から彼に宛てられた手紙ではない。ファウスは手袋の指をすっと伸ばして、その手紙を受け取り、彼女の前で裏返した。

 ロニ・アイフォルカ。ただ、そう書かれていた。

 外はただの雨だというのに、彼の中で雷が落ちたような衝撃が突き抜ける。

「下手な文字で、お送りするのも気が引けたのですが……」

 申し訳なさそうに、ロニがその頬に微かな赤みを浮かべた。

 雷の衝撃で、ファウスは完全なる無表情になったまま、手紙を持って彼女に背を向けた。 かろうじて控えていた侍女に、ロニを暖炉の前へ案内するよう指示することだけは出来たが。

 要するに、彼はいますぐこの手紙を確認したかった。一階にある自室に入るや、扉を背にしたまま手紙を開けようとしたが、手袋が邪魔でうまく開けられない。

 イライラしながら、手袋の中指をくわえて右手だけ引き抜き、ペーパーナイフを使うことも忘れて、ロニからの手紙の封を切った。


 親愛なる伯爵家執事さま


 その文から始まる手紙は、昨日の彼の手紙に対する感謝で溢れた礼状だった。

 言葉だけでなく、ロニは手紙できちんと彼にお礼が言いたかったのだろう。町娘出身だと思われる多少おぼつかない文もあったが、彼女の熱い誠意は十分に伝わってくる。

 そう長くはない手紙を三度読み返し、ファウスはそのまま自分の机へと向かった。インクとペンと便箋と封筒を、おそらく昨日よりもっと速く準備し、ペン先をインクに浸した。


 親愛なる長靴をはいた侍女殿


 呼吸も忘れて、ファウスはそれを一気に書いた。

 しかし、ペンはそこでぴたりと止まる。次に一体何を書こうとしているのか、自分でもまったく分からなかった。迷うペン先を何度か揺らしながら、結局ファウスはつまらない文章を埋めることとなる。

 雨の中の配達はいつも大変だろう、とか。身体に気をつけて勤めに励んで欲しい、とか。

 本当に書きたいのは──こんなことでは、きっとなかったはず。

 そんなどうしようもない手紙だというのに、主の手紙の後に彼女に渡すと、あの瞳を雲の晴れ間のように輝かせたのだ。

 宛名は、ロニ・アイフォルカ。格下相手の表現ではなく、同格相手の形式だった。

「まあ、こんな……勿体無い手紙でございます、執事様」

 もじもじと恥ずかしがる彼女の姿は、ファウスにとって最早、愛らしいものにしか映らなかった。

 その日から。

 雨の日になると、彼女は二通の手紙を持ってくるようになった。主に宛てたものと、ファウス宛てたものだ。

 ロニを待たせている間に手紙の返事を書くと、彼女と語ることが出来ないと考えた彼は、手紙はあらかじめ書いておくようにした。これならば、多少手紙の内容に行き違いは出るが、彼女との時間を有効に使うことが出来る。


 雨の音と暖炉の火のはぜる音の中、ファウスは少しずつロニとの距離を縮めていったのだった。

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