第6話

 そして──ついに、ロニの配達の仕事は終わりを迎えることとなる。

 子爵令嬢は、無事伯爵家との縁談を成立させた。子爵家では、娘の玉の輿に誰もが踊り出さんばかりの騒ぎだった。

 ロニもまた、主である令嬢に「あなたのおかげよ」と、最上のねぎらいの言葉を贈られた。

 いつもなら、彼女にとって至福の瞬間である。

 けれど晴れやかな子爵家の中で、ロニだけは心が浮かれ上がることはなかった。これで、伯爵家への手紙の配達は、終わりなのだ。

 ということは、あのファウスという執事と、ささやかな手紙のやりとりをするのも終わりということである。

 それが、ロニにとってこの上なく寂しかった。やはり彼女は主と共に伯爵家へ連れて行く侍女の中に入ることはなく、令嬢に次の女友達を紹介されることになった。

 再びロニは、流浪の侍女になる時が来たのだ。

 侍女部屋で、少しずつ荷物をまとめていると、そんな彼女の気持ちと同調するかのように、窓の外の空もどんよりと曇っているのが見える。

 雨なんか降らなければいいと、ロニは願った。雨が降り出してしまえば、彼女は伯爵家へ駆けて行きたくなってしまうではないか。

 ああ、でも。

 ロニは、片付けていた荷物の中に手を突っ込んだ。どうしても、このまま音信不通になってしまうのだけは、耐えられなかった。

 せめて、別れの手紙を。本当に最後の手紙を。

 これまで、親切にしてくださってどうもありがとうございましたと。

 ロニは、据え付けられた机に向かって、荒れる字も気にかけられないまま、思いの丈を綴った。

 最後の一行。

 さようならと書きかけた時──くすんだ窓ガラスに雨粒が当たった。

 手紙の文字の上にも一滴、雨が降った。

 雨が手紙に落ちないようにするため、ロニはかなり長い間、最後の一行を書き終えることはできなかった。


 長靴をしっかりとはく。手紙を、鞄に入れる。手紙は、一通だけ。

 ロニから、伯爵家の執事であるファウスに宛てたもの。この配達は、子爵令嬢のためではない。自分のためだけの、初めての手紙の配達だった。

 レインコートに手をかけた時、扉がノックされた。

「ロニ……いる?」

 侍女仲間が、おそるおそる声をかけてくる。

 しまったと、握ったレインコートを離せないまま、彼女は固まった。

 確かにロニは、もうすぐ次の屋敷へと行くが、今はまだこの子爵家の使用人なのである。何の用事も言い付かっていないのに、勝手に外に行くことは出来ない。こんな姿を見られたら、きっとどこへ行くのかと問われるだろう。

「ロニ?……あっ!」

 返事が出来ないでいる彼女に、もう一度怪訝な呼び声がぶつけられようとした時。

 変な悲鳴と共に、扉は強引に開かれた。

 その光景を、ロニは言葉を失ったまま見ていた。ぽたぽたと髪や顎から水滴を滴らせ、青い顔で一歩踏み込んできた男が、そこにはいたからだ。

 いつもきっちりと、整髪料で撫で付けられているはずの髪は、雨のせいで見るも無残な様子で、ジャケットも水を吸ってずっしりと重そうだった。ズボンにはいくつもの泥が跳ねているし、革靴はもはや悲劇的な有様だ。

 だがそこにいるのは、間違いなく伯爵家の執事のファウスだった。

 彼は中で驚いたまま固まっているロニの姿を、厳しい表情のまま一度、上から下まで見つめて、こう言った。

「手紙を、持って来るつもりだったのか?」

 レインコートを手に持ち、長靴をはいたロニの姿は、誰にも隠しようがない。

 恥ずかしさの余り、耳まで熱くなった。頭に回る熱のせいで、ロニは冷静に今の状態を理解することが出来ないでいた。

 何故、ここに彼がいるのだろう。一番大事なその疑問を、どう解釈したらいいのか、彼女は分からないまま。答えられないロニに、ファウスは長い手を伸ばす。

「それなら丁度いい、伯爵家に向かおう」

 あっと思ったら、手首を掴まれていた。濡れた手袋はとても冷たかったが、彼の引っ張る強さに、ロニは反射的に足を突っ張って抵抗していた。

「あ、あのっ、お嬢様の手紙は……ないんです。だから……あの……」

 この屋敷を、堂々と出て行ける理由のない彼女にとって、ファウスと一緒に行くことは出来ない。

 だが、逆に彼がここに来てくれたことによって、別れの手紙を直接渡せる機会を得たのだ。もう片方のおぼつかない手で、ロニは鞄を開けた。

「あの……いままで、どうもありがとうございま……」

 何とか掴んだ手紙を引きずり出し、彼女は片手を取られたまま、ファウスにそれを渡そうとした。その手紙の宛名を見たファウスの目が、怪訝に彩られたままロニの目へと映る。

 彼はその手首を離してくれた。そして、くるりと背を向ける。

「すまない……」

 その詫びの言葉の意味も分からないまま、ロニは彼の濡れた背中を見つめていた。

「すまない……少しだけ二人にして欲しい」

 ファウスは──扉の外の侍女に向かってそう言うや、木の扉を閉めてしまったのだ。

 すっかり忘れていたが、部屋のすぐ外には侍女がいたのである。おそらくファウスをこの部屋まで案内してきてくれたのだろう。

 そんな彼女を扉で隔絶した後、伯爵家の執事はロニの方へと向き直った。

「手紙を……あぁ」

 ロニに向けて伸ばしかけた手を、ファウスは一度イラついたように引っ込めて、手袋を外し始めた。ぐしょぐしょの手袋のままでは、手紙の文字は一瞬にして読めないほどにじんでしまう。

 最初の頃の彼はイライラした気配を見せることがあったが、手紙を交わすようになってからはそんなことはなかった。

 久しぶりの態度に、ロニはびくっとしてしまいながらも、手紙を差し出す。しかし、まさか目の前で封を切られるとは思ってもみなかった。

 自分のいるところで手紙を読まれるというのは、こんなに恥ずかしくていたたまれなくなるものなのだと、ロニは生まれて初めて知ることになる。

 失礼なことは、書いていなかったはずだ。お礼にもお別れにも、書ききれないほどの心をこめた。

 針のむしろの上で、ロニは彼が次に言う言葉を、視線を床に落して、ただじっと待つだけ。

 カサ、と。紙が動いた音がする。

 彼が手紙を読み終わったのだろう。ロニは顔を上げる勇気も持てないまま、ただファウスの足元を見ていた。

「これだけか?」

 棘のある言葉に、彼女の心臓は飛び跳ねた。何か足りないと言わんばかりの言葉に、ロニは必死に自分の書いた手紙を思い出そうとした。

「あ、ありがとうございますと……その、さ……さよならを、お伝えしたくて……」

 きちんと伝わらなかったのだろうかと、彼女はもう一度、今度はそれを言葉にした。喉が詰まって、つっかえつっかえになってしまったが。

「ああ、もういい」

 ぴしゃりと、イラ立った声がロニの言葉を切り裂いた。叱られている気分になり、彼女は自分が情けなくなっていく。

 別れの言葉ひとつ、上手に言えない自分が、嫌いになってしまいそうだった。うつむくしか出来ないそんな彼女の視界に、突然茶色いものが差し出される。

 上着から出されただろうそれは、皮袋だった。よく分からないまま袋を受け取って開けると、中から──手紙が出てきた。

 少し乱れているが、ファウスの筆跡でロニの名が綴られている。

 あ。

 彼女の胸が、ぽっと温かい音を立てた。ロニが、ファウスに別れの手紙を送ろうとしたように、彼もまた同じことをしようとしたのだと理解できた。

 わざわざ雨の中、レインコートも着ずに急いで子爵家に来たのは、これをロニに渡すためだったのか。

 ぽぽぽぽぽっ。

 そう思うと、心の音がとめどなく流れ始める。

 ロニは、封筒の端の端を小さく注意深く指で切り取った。この部屋には、ペーパーナイフなんて立派なものはないので、彼からもらった手紙は、いつもこんな風に綺麗に開けるように努力していた。

 彼がそうしたように、ロニもまたファウスの前で手紙を広げる。


 親愛なる長靴をはいた侍女殿、いや、親愛なるロニ嬢。


 いつもと同じ書き出しかと思いきや、文章の後半が形を変えている。違和感を覚えながら、彼女は視線を次の行へと移した。

 そこに書いてある文章を、ロニが読み終える前に。

「私ことファウス・ユーベントは」

 目の前の男が、そっくり同じ文章を言葉にし始めた。

「ロニ・アイフォルカ嬢に、正式に求婚したく思っております」

 甘くもなく。優しさどころか、怒ったような口調で。

 目の前の男は、手紙と同じ言葉を語りきったのだ。

 ええと。

 ロニは、動揺したまま手紙の向こうのファウスを見た。

 仏頂面の彼は──とても、冗談を言う人には見えなかった。

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