第4話
伯爵家の執事は、ずいぶんと若い男性だった。
ロニの目には、責任感の強い厳しそうな人に見えた。ただ彼の主が手紙を気にして、だんだん玄関に近づくようになってからは、時折小さなため息を落したりしているのを、ロニは見逃さなかった。
若さのせいか、完璧な執事にはなりきれていないように感じる。彼女を出迎える目も、最初は怪訝と不審の塊だった。しかし次第に彼女と雨を見比べる動きをした後、静かに招き入れてくれるようになった。
そんな彼と、ロニは今日初めてまともに話をした。
他家の使用人に、執事が必要以上の会話を求めることは、これまでにはないことで、どうなることかと心配したが、それは杞憂に終わった。
彼は、雨の日の秘密を知りたかったようだ。ロニにとってそれは、自分の存在価値と同義の話であり、何度も何度も考えたことでもあった。けれど奇術師が自分の奇術の種を明かしてはならないように、彼女もまた自分の仕事のためにそれを秘しておくべきだった。
前回の雨の日に、もしこれを聞かれていたら、ロニは答えなかったかもしれない。しかし、今回の彼女は覚悟に似た気持ちを抱いて、伯爵家に配達に来ていたのだ。
これが、最後の配達かも。
子爵家の令嬢である彼女の主は、盛り上がってきた恋の炎をおさめられる性質ではなく、毎日でも伯爵家に手紙を送りたがった。長靴の誇りは、主には通じなかったのである。
幾人もの女性の恋の手伝いをしてきたロニとは言え、屋敷では最下層に近い侍女だ。主人の気分次第で、簡単に首を切られる立場なので、晴れの日の配達を拒めば暇を出されるだろう。そう思ったら、ロニは気分が沈んでしまって、自分がこれまで信じてきた雨の話を、伯爵家の執事に語ってしまったのだ。
脳裏に過ぎるのは、幸せになった幾人もの華やかな主たち。多くの屋敷を流浪しながら、ロニは雨の中を歩き続けた。
その最後の雨の道が、この伯爵家になるのだろうか。
ここの執事は、とてもいい人だった。
「私が主人に、このことを伝えれば、どうなるだろうな」
彼の言った皮肉は、「でも……私のお役目も、もう終わりかもしれません」とロニが答えた後、明らかに色を変えた。彼女を励ますように助言さえ送ってくれた。
それでロニはもう一度、主を説得する勇気を得ることが出来たのである。その勇気は、あと一度の配達の機会を、彼女に与えてくれた。
もう一度だけ、主は晴れの日の手紙を待ってくれることになった。だが、たったそれだけで、何かが変わるとも思えなかった。
せっかく執事に応援してもらったというのに残念だと思いながらも、手紙の入った鞄をしっかりと抱えて、ロニはそぼ降る雨の中を歩いた。
雨の日ばかりに外出していると、雨の種類が実に数多くあることを肌で知る。
温度、湿度、量、粒の大きさ、強さ──味。
今日の雨を少ししょっぱく感じながら、ロニは伯爵家の玄関へとたどり着いたのだった。
執事の男は彼女の顔を見て、少し安堵した表情を浮かべた気がした。クビになったのではないかと、彼なりに心配してくれたのだろうか。
しかし、ロニのクビは皮一枚でかろうじてつながっているに過ぎない。晴れの日に、他の人が手紙の配達を始めたら、彼はどう思うだろう。
執事を介して手紙を渡す儀式が終わり、主が手紙をさらって二階に消えた後、ロニはこう言った。
「これが、最後の配達になりそうです」
彼女は、心配してくれたこの人を、晴れの日の配達人を見て、がっかりさせるのが心苦しかった。そうなる前に、ちゃんと予告をしておきたかった。
「せっかく助言頂いたのに、申し訳ありません」
苦笑いになる自分の表情を止めることが出来ず、ロニは困ってしまった。
「……」
そんな彼女に言うべき言葉もないのか、若い執事は黙ったまま。
それどころか、他の侍女にロニの案内を任せて、奥の方へと去って行ってしまった。彼の背中を見送りながら、物悲しい気持ちになる。
本当に短い一瞬だったが、彼はただの配達人であるロニに対して、味方であるかのような態度を示してくれた。それがとても心強かった分、彼の興味は一過性のものだったのだと思うと、寂しく辛い気持ちになる。
暖炉の前で、ぼんやりと長靴を乾かしながら、ロニは最後かもしれないホットチョコレートを飲み込もうとした。けれど大好きなはずのこの飲み物が、喉をうまく通っていかない。
お屋敷をクビになったら、どうしようかな。出来たら、長靴をはける仕事がいいな。
そんなことを考えていると、甘い液体がどうしても喉で止まってしまう。結局ロニは、カップの中身を全部飲み干せないという、かつてない失態を犯した。
そしてついに、執事が主からの返事を携えてやってきてしまった。
受け取ったそれを、大事に皮袋にしまおうとした時──ロニの視界に、不思議なものが映った。自分が持っている手紙とは違うもうひとつの手紙が、目の前の男によって差し出されていたからだ。
いつもとは違う整った筆跡で、宛名が書かれている。ロニの主人の名だ。しかし、それは格上相手に向けた、へりくだった形の宛名の書き方だった。
驚きと理解の出来なさに、彼女はそこで不躾なことをしてしまった。思わず受け取ったもう一通の手紙をひっくり返して、差出人を見てしまったのである。
伯爵家執事 ファウス・ユーベント
おそらく、この目の前の男性の名であろう文字が綴られていた。
ロニは、差出人と彼を何度も交互に見つめる。長い配達人生で、こんなことは初めてだった。表情の読みづらいその褐色の瞳は、手紙を渡す前と何ら変わらない色をしているように見えた。
「ロニ……君の主人に、その手紙を渡してみるといい。仕事を失わないという保証は出来ないが、な」
その、変わらない色のまま、言葉がひとつ添えられた。
あれ?
二通の手紙を握り締めたまま、彼女は固まる。いま、彼女の中でひとつ大きな鐘の音のようなものが打ち鳴らされた気がした。衝撃の大きさに、ロニは硬直してしまった。
彼──ファウスは、彼女の味方をやめたのではなかったのだ。
それどころか、ロニが仕事を失わなくてよいように、彼女の主に向けて手紙をしたためてくれたのである。
こんなに心を砕いてもらったのは、本当にこれが初めてで。彼女は室内にいるというのに、少し塩辛い雨の味を味わうことになったのだった。
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