第3話

「最初の長靴をもらったのは、十三の時でした」

 彼女は、スカートの裾から出ているそれを、嬉しそうに足を持ち上げて見せる。

 ファウスは、そのはしたない行為に眉をひそめたものの、何も言わずに目をそらすことにした。

 いまの彼女が二十四歳だというならば、それはもう十一年も前の話だ。同じ長靴を、はき続けているはずがない。彼女も『最初の』、と言ったではないか。

「私は、それで配達のお仕事は終わりだと思っていました」

 予想通り、ロニはそう続けた。暖炉から届く暖かさに目を細め、思い出すように空を見上げる。

「けれど、嫁がれたご主人様が、お友達に私を紹介してくださったんです」

 ファウスは──その言葉で、ぼんやりとだが話の流れが見えた。

 なるほど、と。

 玉の輿に乗った騎士令嬢は、友人にどうしてそんな幸運が手に入ったのかと問われ、手紙とロニのことを話したのだろう。

 そんな幸運の配達人がいるのならば、是非私にも。

 騎士令嬢の友達ならば、そう身分は高くないはずだ。玉の輿を目指す努力を、きっと惜しまないに違いない。

「今度は、その方を主人として、手紙を運ぶことになりました。前の時と同じように、雨の日に運ぶ事にしました。結構な身分のお相手でしたので……二年ほどかかりました」

 そこで、ロニの表情が少し寂しげに曇る。

「最初の長靴は、その途中でついに駄目になってしまいました。私も前より大きくなって、長靴が窮屈になってきたせいもあるのでしょうが、親指が飛び出してしまった時は泣きそうでした」

 ファウスは、別に彼女の長靴の行く末を聞きたい訳ではない。しかし、水を差すような野暮な性質でもなかった。

「私はまた、ぐしゃぐしゃの靴に戻ってしまいました……そうしたら、手紙を届ける屋敷の方が、前と同じような長靴を下さったんです」

 ふふふ。

 いままさに、真新しい長靴をおろしたばかりのような浮かれた笑顔で、自分の足を眺めるロニ。

 いくら貴族とは言え、よその使用人に長靴を与えるなど彼は想像も出来なかった。

 それほど、手紙を楽しみにしていたというわけか。

 しかしファウスには、いっそ『おそろしい』話に思えてきた。実はこのロニという侍女は、魔女ではないのだろうか、と。

 そんな馬鹿げた話を、頭によぎらせてしまった。余りに現実感のない話すぎて、すぐに頭から蹴り出したが。

「何故、主人のお相手の方が、私によくしてくださるのか、最初の頃は分かりませんでした」

 手を伸ばして、愛しげに靴を撫でる横顔。

「でも、だんだん分かってきた気がします……『雨』のせいなんです」

 窓の外は、まだ雨が降り続いている。帰りの彼女は、きっとまた顔をびしょ濡れにするのだろう。

「雨の日って憂鬱でしょう? 外にも出にくいですし、暗くて気分も重くなりますし……そんな日に明るい女性の手紙が届く……少し嬉しくなりませんか?」

 窓ではなく、ぱっとこちらに顔を向け、彼女は晴れやかな笑顔を浮かべる。

「……」

 同意を求められても。いや、待てよ。

 ファウスは、つい真面目に彼女の言葉について考えこもうとした。

「同意を求められても困りますよね……ふふ。でも、そんな憂鬱な日に、必ず自分宛ての華やかな手紙が届くと分かっていたら……雨の日が、きっと少し好きになるんだと思うんです」

 彼の思考を軽く切り、ロニは白い首を傾げて楽しそうに語る。

「その気持ちが、どんどん強くなっていったら、最後には……男の方にとって雨の日は、私の主人と同じ意味になるんです」

 一息つき。

「それって、すごく素敵なことだと思いませんか? 雨の日に私の主人の名前がつくんですよ……そして、次にいつその日が来るかなんて、誰にも分からないんです」

 彼女の唇は、小鳥のさえずりのように早く高く言葉を奏でた。ファウスには理解出来ない部分も多いが、何となくは分かった気がする。

 雨(プリュイ)=女性(ファム)。

 この単純な刷り込みを、彼の主人に対してしているということだ。

 それを愛と呼ぶかどうかは別として、これまで彼女は何人もの主人を渡り歩きながら成功させてきたのだろう。そう考えると、人とはいかに単純な生き物であるか分かる。己の主もまた、それにまんまと乗せられているのだから。

「私が主人に、このことを伝えれば、どうなるだろうな」

 ファウスはつい、意地の悪いことを口にしていた。

 感心するというよりも、女のあざとい駆け引きに感じたのだ。たとえ、最初はそれが偶然の産物だったとは言え、いまでは確信犯的に配達しているのだから。

「そうですね……それは少し困り……ますね」

 おしゃべりな自分に気づいたのだろう。声のトーンを落とした彼女は、視線も暖炉の火よりもう少し下に落とした。

「でも……私のお役目も、もう終わりかもしれません」

 だが、ファウスの思いもよらないことを、ロニは言い出した。

「お嬢様は、もはや毎日でも手紙を送りたいと思ってらっしゃって……晴れの日に、私が配達しないのなら、他の侍女に頼むと言われてしまいました」

 火より下を、見ていたのではないと──この瞬間、ファウスは気づいた。

 彼女は。

 長靴を見ていた。

 雨の日に、彼女が活躍した証であるその靴。

 晴れの日には、用なしの靴。

 ロニは。

 自分が用なしになると思っているのだ。

「……」

 雨の日に、彼女が来なくなる。

 その事実は予想以上に、ファウスにとって衝撃的なものだった。そして、自分が予想以上の衝撃を受けている事について、彼はひどく驚いた。何故なのか、少しも理解出来なかった。

「それは……愚かな考えだな」

 衝撃からようやく立ち直った後、ファウスは言葉を搾り出していた。いつも通りのしゃべり方が出来ない自分に、軽い苛立ちを覚える。

「愚か、ですか?」

 カワセミの背色の瞳を持ち上げて、ロニは不思議そうに彼を見た。

「そうだ。せっかく私の主が、雨の日に君の主の名をつけているというのに、晴れの日にまで手紙を送るようになっては、他の女性と何ら変わらない。きっとすぐに、私の主人は興味を失ってしまうだろうな」

 ついさっき、女のあざとい駆け引きだと思ったことなど忘れ、ファウスは彼女に助言していた。これではまるで、互いの主の恋路を応援しているようではないか。

 仕えている立場としては、自分の主人がより出世することを願うべきだろう。しかしいまのファウスの口は、まったく自分の思い通りにならなかった。

「そ……そう、ですよね、執事様!」

 彼を映している瞳が、息を吹き返したように輝き始める。ロニから離れようとする雨の日の配達という役目を、しっかとその両手で引き戻した目だ。

 ロニは自分のしてきた仕事に、小さいながらに自信や誇りがあったのだろう。だから、玄関でファウスと初めて顔を合わせた時も、これっぽっちも臆する様子はなかった。手紙を渡すのに時間が無闇にかかるのも、彼女なりの長年培った作法だったに違いない。

「私、もう一度お嬢様に、そうお伝えしてみます」

 言葉にはされなかったが、その瞳には感謝の色が宿り、容赦なくファウスに向けられている。

 それに、彼はどう答えたか覚えていなかった。「ああ」とか「そうだな」とか、どうでもいい返事しか出来なかったような気がした。


 その日、彼女が帰った後に、ファウスは自分の奇妙な動揺について冷静に考えてみた。

 そして。

 こういう考えに思い至った。

 いつの間にか、ファウスにとっても雨の日は──ロニという女性の名前がついていたのだ、と。

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