第2話

 ロニが、最初に仕えた女性は、騎士の娘だった。

 さかのぼれば、当主は男爵の息子であり、貴族とまったく無縁というわけではない。だが、当主の息子たちは、誰一人と騎士になる道を選ばず、金を稼ぐ道に走った。

 その家には、娘は一人だけ。遅く出来た末の娘だ。

 騎士は、良い血筋の相手と婚姻させようと、躍起になって娘を社交界に送り出した。もし、このまま彼が老いて亡くなれば、娘の行く末は寂しいものになると考えた。

 しかし、見た目が平凡なせいもあってか、なかなかよい縁談にめぐり合えない。

 そんな時、彼女はある男に恋をした。

 舞踏会で出会った、子爵の子息だ。上には上の目論見があるように、下には下の目論見がある。次期子爵という立場は、同等以下の女性からは引く手あまただ。

 他の女性を押しのけてまで、前に出るような性質ではなかったこともあいまって、彼女はそのまま顔も覚えられずに恋を終えるはずだった。

 だが、誰かが彼女にこう言った。

『手紙をお送りしてはいかがでしょうか』

 気の利いた言葉を、その場でするすると出せないのならば、ゆっくりとした時間の中で思いのたけを綴ればいい。その案は、彼女にぴったりだった。

 一枚目を書く時は、何度も何度も書き直しをし、次の日に破いてはまた書いてを何日も繰り返していた。

 そして、彼女がようやく手紙を書き上げた時。出来上がった喜びの心とは裏腹に、外はひどい雨だった。これでは、手紙を今日は届けられそうにない。せっかく書いたのにと、騎士の娘はため息をついてあきらめようとした。

 そんな中。

『私なら、雨の中でも届けに行けます』

 そう言った侍女がいた。

 騎士の娘の侍女である。節約のために安く雇える、平民の少女だった。

 はしっこい娘で、ちょっとしたお遣いを任せても、人より速くこなせるので重宝されていた。もともと都の生まれのおかげで、地理に明るいところも頼もしい。

 彼女は、初めての手紙が決して濡れないように、幾重にも幾重にも皮袋で覆ってから、少女に託す。

 それが──ロニの初仕事だった。


 貴族は、雨の日の外出を好まない。

 王宮で毎日仕事をしなければならない立場なら別だが、資産で暮らす貴族は、外が雨だと確認するや、屋敷でたまっている書類の決裁でもするかと考える者も多い。

 そんな貴族の隙間に、ロニの運んだ手紙はするりと入り込んだ。

 一回目と、二回目の雨までは偶然だった。

 だが二回目の配達の帰り際に、ロニは相手方の執事にこう聞かれたのだ。

『わざと雨の日に持ってきてるのか?』と。

 その頃の彼女には、まだ自分の主人の考えはほとんど伝わっておらず、ただの配達人のつもりだったので、首をひねって曖昧な返事しか出来なかった。

 しかし、それを主人である騎士令嬢に話すと、突然彼女は目をキラキラと輝かせながら『それは名案だわ、そうしましょ』と手を打ち合わせたのである。

 そこから、雨の日に外に出るという侍女にとって嫌なはずの仕事は、すべてロニに任されることとなった。

 上はレインコートを借りられたが、足元は普通の靴。そのため、相手方にたどり着く頃にはいつもグチョグチョになって気持ちが悪かった。

 それでも、彼女は雨になる度に、主人の手紙を運んだ。

 そして、気がつく。

 相手方での自分の待遇が、だんだん良くなっていくことに。

 最初は、本当にただのお遣いくらいにしか思われず、ジロジロ不審がられた目を向けられたり、『こんな日に手紙なんて』とぶつぶつ言われたりもした。

 けれど、ある日。

『雨なのに、いつも大変だね』と、配達先の使用人に声をかけられた。『持っていきなさい』と、執事に小さなお菓子の袋をもらった。

 その変化の理由をロニは気づかなかったが、主人には報告をした。騎士の娘は、たいそう喜んだ。そして『手紙にお礼を書かなくては』と、新たな手紙に向かい合うのである。

 そんな主人は、晴れの日には外を見てため息をつくようになっていた。


 晴れが長く続いた後の、雨の日。

 ロニがいつものように手紙を持って相手方の屋敷を訪ねたところ、玄関に回るように伝えられる。首をひねりながら玄関をノックすると、なんと執事自ら出迎えてくれたではないか。執事といえば、この屋敷の使用人の長である。何度か会ったことはあるが、いきなりこの人を相手にしたことはなかった。

 それでも、彼女はいつものように手紙を渡して帰ろうとした。

『少し待ってくれるかね?』

 初老の執事にそう言われ、彼女は濡れた靴を気持ち悪く思いながらも、玄関で待った。結構待たされた。動けないせいで、身体はすっかり冷えてしまった。

 ようやく戻ってきた執事は、手紙を差し出しながら『これを、届けておくれ』と言ったのだ。

 初めてもらった返事だった。慌ててカバンに厳重に返事をしまいこむ。それではと挨拶をして帰ろうとしたロニの口から、立て続けに三回もくしゃみが飛び出した。

 その結果、持ち帰った返事は主人を喜ばせたが、ロニは熱を出してしまうこととなる。下っ端侍女にしては、ありえない看病と食事を与えられ、彼女は何とか次の雨の日までには元気になることが出来た。

 次も、ロニは玄関で待たされた。また冷たいまま捨て置かれるかと思っていたら、一度主人の元へ消えた執事が、急いで戻ってきた。

 もう返事を書いたのだろうか、助かったと思っていたら、ロニは彼に火の入っている調理場のかまどの前に連れて行かれた。

 ここで待っていなさいと言われ、気づいた。きっとロニの主人が、手紙で一言書いてくれたに違いないと。暖かいところで待たせてもらえたおかげで、彼女は返事を持って帰っても風邪をひくことはなかった。

 その次からは、わざわざ火を入れただろう応接室で待たされた。ぐちゃぐちゃな靴が、恥ずかしいほどの立派な部屋だ。勿論、ソファなどには座らず、暖炉の前で立って待った。

 使用人の女性が、温かい飲み物まで運んで来て、ロニは腰が抜けそうになるほど驚いた。

 どんどん好待遇になる自分の環境に、彼女はあまり賢くない頭で考えた。彼女の主に向ける好意の大きさの表れが、代理としてロニに向けられているのではないか、と。

 それは間違っていなかった。騎士の娘は、ついに子爵家に嫁ぐことが決まったのである。

 ロニは、本当に喜んだ。これまで一度も配達を失敗することなくこなした結果が、主の幸福につながったのだから。

 そして彼女は、もうひとつの喜びを味わうこととなる。とても綺麗な編み上げの長靴を、主から贈られたのだ。

『いままで、よく働いてくれましたね』

 自分の給金では、一年間働いたってきっと買えないだろう上等品。

 これでまた雨の日に配達に行っても、靴がぐしょぐしょで気持ち悪いことなんかない。

 そう思ったロニは、同時にもうその必要はないのだと理解した。子爵家に嫁ぐということは、主人は思い人と一緒に暮らすということだ。もはや、手紙を運ぶ必要はなくなる。

 それ以前に、侍女は誰も連れずに嫁いでいくという。


 ロニの配達業は、これで終わり──のはずだった。

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