長靴をはいた侍女
霧島まるは
第1話
「こんにちは、手紙を持ってきました」
ノックノック。
父の跡目を継いだばかりの若い執事であるファウスは、そんな呼びかけにためらいなく玄関の扉を開けた。
灰色のフードつきレインコートとは不似合いの、やたら上質な編み上げ長靴の女性が、そこには立っていた。
今日の雨(プリュイ)は、少しひどい。レインコートや顔からは、それを知らしめる水が多く滴っていた。
最初は勝手口を訪ねていた彼女が、ついに玄関から招かれるようになった。ただの配達人の侍女には、過ぎた対応である。
実際、ファウスもそう思っていたが、彼の主がそれを望むので、しょうがなく従っていた。
扉が開くと、中に入る前に彼女はレインコートを脱ぎ始める。
どうして扉をノックする前に、脱いでおかないのかと、その手際の悪さにいつもイライラしていた。それは、どうも彼の主にとってもそうだったようで、二階の階段の角の辺りで、まだかまだかとソワソワしている。
濡れたレインコートを外にかけ、コートの内側に入れていたカバンからハンカチを取り出す。そして、濡れた部分を丁寧に拭き始める。顔や首に始まって、両手を特に念入りに拭く。最後は、帰りにまた濡れるだろうに、長靴まで丁寧に拭き上げるのだ。
この辺りで、主が階段からそろそろと降り始める。
ハンカチをエプロンのポケットにしまうと、次に彼女はカバンの中から何があっても濡れないように、厳重に手紙を包んだ皮袋を取り出す。一重ではなく、何重かの袋を重ねているそれを、ひとつずつ丁寧に取り払っていく。
もうその頃には、主は玄関の側までフラフラと来ていて、ファウスの隣に立っている有様だ。
全部の皮袋を開けると、ようやく封に包まれた手紙が現れた。それをゆっくりと彼女が両手で捧げる。
もちろんこの侍女が、貴族である主人に直接渡せるはずはない。この家で代々執事をしてきた一族のファウスが、「確かに受け取りました」と言って預かるのだ。
だが、それは本当に形式だけの一瞬のこと。次の瞬間には主がそれを奪い、脱兎のごとく二階の自室に駆け上がってゆくのだから。そんな後ろ姿を、配達人の侍女はニコニコと見送る。
ファウスは、ふぅとため息をついた。どうにも、この女性が手紙を運び始めてからというもの、主の様子がおかしくなっているので、彼は困惑を覚えているところだ。
父が執事をしている時代からずっと見習いをしてきた彼だったが、あんな主の姿を見たことはなかった。
この女性が、何か変なものを手紙に混ぜているのではないかと、疑いたくなるほどだ。彼女をちらりと見ると、ファウスに期待のこもった笑顔が向けられた。
白い肌にカワセミの背色の瞳を持ち、髪はしっとり濡れたような黒。実際、いつも雨でしけっているのかもしれない。やたら白い肌が目立つ気がするのは、太陽の出ない雨の日ばかり出歩くからなのか。
同じ黒でも、ファウスの髪は少し湿度が足りないため、日々整髪料でしっかりと固めている。そうしないと、非常に見栄えが悪かった。
いま二十七である男の目から見て、彼女はどう見ても十七、八くらいにしか見えない。ふっくらとした頬と、大き目の瞳が、女性を若く見せている。
最初は騙された彼だったが、ほかの使用人に「二十四ですって。若く見えますよね」と言われ、心底驚いた。彼の褐色の目は、女性の年齢を当てられるほどの眼力は備わっていないようだ。
「暖炉に火が入ってます」
そんな彼女の顔をもう一度まじまじと見て、「女とは分からない」と思いながら、ファウスは火のある部屋へと案内した。
これから主は手紙を熱心に読み、そして熱心に返事を書く。それをまた彼女は、丁寧に皮袋に包んで持ち帰るので、待たせておかなければならなかった。
身分が高くない侍女なのは、衣装や様子から分かる。こんな仕事を任されていることで、それは更に決定付けられる。しかし、主が玄関から招く相手なのだから、ファウスはそれに従い、最低限の礼儀は尽くしていた。
「ありがとうございます、助かります」
暖炉に手をかざし、その暖かさを味わうように表情を緩める女性。
この屋敷の侍女が、ホットチョコレートを持ってきたのを、匂いで気づいたのだろうか。彼女は、ぱっと表情を明るくする。
「これ、大好きなんです。嬉しいです」
不似合いなほど上質な長靴を、暖炉にちょっと伸ばすようにして乾かしながら、彼女はいつも幸せそうだった。しかし何故か今日の彼女は少し、その表情に影があった。
彼女の雇い主は、子爵令嬢である。
貴族の中では、残念ながら位は低い方だ。少なくとも、ファウスの仕える伯爵家と比べると、相当な身分の開きがある。
主人の花嫁候補の一人。
彼は、その程度の認識しか持っていなかった。しかも、候補の中では一番成立しづらい順位の相手だと。
時折、上位の候補の女性が訪ねて来る事はあるが、この子爵令嬢が訪ねて来たことはない。
舞踏会などで主と会うことはあるだろう。ただ執事である彼が、目にする機会はなかった。
なのに。
この侍女が、ある雨の日に現れた。勝手口の戸を叩いて、手紙を預けて帰っていった。主人は、「ふーん」という気のない様子で手紙に目を通して、机の端にぽんと置いた。
次の雨の日、再び彼女は現れた。同じように、手紙を預けて帰っていった。主人は「また来たのか」と言って、読んで机に置いた。
その後、三日雨の続く日があった。彼女は三日すべて手紙を運んできた。そこで主人もファウスも気づいた。子爵令嬢の手紙は、雨の日に届けられる、と。
実際、晴れた日に手紙が届いた事は、いまだにない。
それから、主人の態度に少しずつ変化が現れ始めた。朝、窓の外を見る目が変わった。雨の日を楽しみにするようになり、晴れの日にため息をつくようになった。
そしてついに主は、手紙の配達人が来たら引き止めるように言った。それは一方的だった手紙の流れが、双方向になったということ。彼女は、返事を持ち帰れるようになった。
更に主は、多くの人の手を介して自分まで手紙が届く時間に耐えられず、玄関から招き入れ、直接ファウスに渡せるよう手配した。
この手紙にどれほどの価値があるのか。彼は、いまだに理解できなかった。
「子爵令嬢は、何か特別なことを手紙に書いてらっしゃるのですか?」
だからつい、出すぎたこととは思いつつ、彼女に声をかけていた。自分より低い使用人であるだろうことが、ファウスの口を軽くしたのかもしれない。
「普通の言葉で結構ですよ。ご想像の通り、私は下っ端の侍女ですから……ロニとお呼びください」
彼女は、少し困ったように笑う。
これまで、何度となく手紙を受け取ったファウスだが、必要最低限の言葉以外、彼女││ロニに語りかけたことはなかった。
「では、言葉に甘えることとする。ロニ……子爵令嬢は、私の主人にどんな魔法をかけたのだ?」
彼の聞き方が、おかしかったのだろうか。
真面目に聞いたつもりなのだが、ロニはクスクスと笑い出してしまった。
「いいえ、執事様。手紙は、いたって普通のものでございます。花が綺麗だとか、伯爵様を気遣う言葉だとか……目新しい奇抜な手紙ではございません」
そんな手紙など、伯爵ともあろう主が読み慣れていないはずがない。なのにあの態度は、まるで主は子爵令嬢に熱い恋心でも抱いているかのようだった。
そんな怪訝の目は、彼女まで届いたのだろうか。暖炉の火を一度見た後、彼女は雨に濡れる窓を見た。
「しいて魔法をあげるとするならば……雨、ですかね」
ふふふと。
ロニは、笑った。
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