「四月、咲き乱れる桜と嘘。」(下)
誰もいない休日というのは実に二週間ぶりだった。
「まさか帰ってこない、なんてことはないよな」
毎週の癖で見たくもないドラマを見る俺だったが、今日はいつにも増してドラマに興味が湧かない。意識が向いているのはドアのみである。
「…………」
不思議なものだ。つい一週間前に養うと約束した時には、寂しいという感情などおまけに過ぎなかったのに。今では寂しいと切実に思う。たった一週間——一緒に過ごした時間などもっと少ない。それなのにここまで変わってしまうものだろうか。
「はぁ……園田がいなくなって、ちょっと感傷的になりすぎてたのかもな」
俺は独りごちて、時計を確認する。永井が出て行ってから、かれこれ二時間が経った。もう昼時だ。彼女のことだ、お腹が空いたと嘆いていることだろう。探してやらなければいけない。いや、もう見つけてはいるのだが。
俺はソファから立ち上がり、窓の外にいる幽霊に目を向ける。アパートの裏に住むおばあさんが育てている桜の木の下でうずくまっている永井に。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「おい」
俺は家主に聞こえないくらいの小さな声で永井を呼ぶ。アパートの裏手から直に庭に入れるくらいの塀の低さではあるが、まさか侵入するわけにはいかない。そして大声を出して、家主に怪しまれるということがあってもいけない。
しかし、俺のささやきが聞こえないのか、永井は俯いたままだ。
「おい、永井……!」
今度は少し声を張り上げて名前を呼ぶが、依然反応はない。いや、あえて無視をしているのだろうか。どちらでも構わない。とにかく俺が家主のおばあさんに見つかる前に戻ってきてくれれば——、
「あら、お兄さん。どうしたのかしら?」
と、件のおばあさんが家の陰からひょっこりと顔を出した。噂をすればなんとやら、だ。
「いや、その、桜が綺麗だなーと思いまして……」
「あらあら、嬉しいわね。もしかして裏のアパートに住んでいる方? ぜひお茶でも飲んでいかないかしら?」
おばあさんはニコッと可愛らしい笑みを浮かべ、俺をお茶に誘う。まさか怪しまれるどころか家に招待を受けるとは。しかし、断ろうにも永井を置いて家に戻ってしまっては振り出しだ。
「それじゃあお言葉に甘えて」
塀の周りをぐるっと一周して、俺はおばあさんの家に案内された。ごく普通の一軒家という感じだが、特徴的なのは桜の木が生える庭を眺めるための縁側があることだった。都会の住宅街には珍しい家の造りだ。そして、小さなお茶会はその縁側で行われることになった。
おばあさんが白い湯気を放つ煎茶を運んできて、俺の横の小さな椅子に座った。こうやって隣に座って気づいたが、腰は曲がっていて椅子に座る時も煩わしそうにしていた。はきはきと話してはいるが、ご老体には間違いないらしい。
「ごめんなさいね。強引に誘っちゃって。私の桜を見てくれる人は久しぶりでつい、ね」
「大丈夫ですよ。俺も今日は休日で暇でしたし。それにしてもずいぶんと立派な桜ですね」
おばあさんが桜に視線を移すのを追って、俺も桜を見上げる。初めて見るわけではないが、こうやって近くから眺めるのは初めてだ。いつもは窓ガラス越しに、ちらっとしか見たことがなかった。
ここで永井が桜の木の下でぐずっていなければ、風情というものだったのだが。
「あの桜はね……ちょっと近所づきあいだと思って、年寄りの話を聞いてくれるかしら?」
「はい、こうやってお茶もご馳走になりましたから」
俺もおばあさんも一口だけ煎茶を啜って、おばあさんは話を切り出した。
「実はね、あの桜の木は私の夫が毎年管理していたんだけれど……五年前に亡くなってね。それで見よう見まねで育てていたんだけれど、今年は一番良く咲いたのよ」
「すごい綺麗ですよ。本当に見惚れてしまうくらいに」
「あら、それは良かったわ。あの人も喜んでいるわ」
おばあさんは目を細めて、桜を見つめる。その目には亡くなってしまった旦那さんの姿が映っているのだろうか。
「あ、お菓子も出してなかったわね。お茶に誘っておいてお茶だけなんて、失礼なことをするところだったわ」
「いや、お気遣いなく。こうやってお茶を出して頂いただけで……」
「いいのよ。私がしたいからしてるだけだから」
そうやっておばあさんは家の奥の方へお菓子を取りに行ってしまった。このままだと、恐縮すら感じるおもてなしをされてしまいそうだ。出来るだけ早くお暇しなければ。
俺はそもそもの原因である永井を脅迫することにした。
「永井。いい加減にしないと家に入れないからな」
「——っ! ただいま永井、復活いたしました!」
脅迫は効果覿面だったようで、永井は勢いよく立ち上がり宣言したと思えば、俺の目の前まで小走りで駆け寄ってきた。
「どうして最初の呼びかけで返事しなかったんだ」
「だって、染井さん彼女がいるからって……」
「はぁ……お前、そんなこと気にして——」
「何か呼んだかい?」
「あ、いえ。独り言です」
永井に気を取られていたせいで、俺は背後に忍び寄るおばあさんに気づけなかった。いや、別に忍び寄ろうとしたわけではないのだろうが。
「ちょっとお菓子がお供え物しかなくてね。少し年寄り臭いけど、羊羹でいいかしら」
「いや、そんなお供え物を頂くなんて……! 俺が食べていいものじゃありませんよ」
すでに恐縮を感じてしまうが、このおもてなしを受け取るわけにはいかない。旦那さんへのお供え物など、赤の他人の俺が食べていいはずがない。しかし、おばあさんは強引にも、
「いいのよ、気にしなくて。あの人はもういないんだから」
と、羊羹を勧めてくる。そんなおばあさんの厚意を無下にするわけにもいかず、俺はまだ封を切られたばかりであろう羊羹に手を伸ばして——、
「多分いますよ。おばあちゃんが言うあの人が」
「え?」
不意に割り込んできた永井の声に、俺はおばあさんがいることも忘れて声を出してしまった。当たり前のようにおばあさんに、「どうしたの?」と聞かれてしまったが、「いえ、なんでもありません」とその場を濁して、永井にアイコンタクトで話を続けるように促す。
「すごい優しい顔をしたおじいちゃんの幽霊がおばあちゃんの傍に立って桜の木を見てるんです。たぶん、見守ってるんでしょうね」
幽霊。ということは、五年前に亡くなってしまった旦那さんのことだろうか。どうやら幽霊の永井にしか見えない存在。幽霊の永井を見ることができる俺にさえ見えない存在。おばあさんが気付くはずもない。
「こんなに綺麗に咲いたんだから、あの人にも見てほしかったのだけれどね……」
おばあさんは桜の木を見上げて、儚げに笑った。おばあさんは気づいていない。旦那さんは今も、おばあさんのすぐ傍で桜を見守り続けているのに。気づかせてあげたいと、気づいて欲しいと思った。だが、それは不可能だから。せめて、伝えてあげたい。
「——見ていますよ、多分。今も、おばあさんのすぐ傍で見てるはずです」
「あら。それまたどうしてそう思うの?」
「そうですね。俺には見えるからです。そういうこの世のものではない存在が」
正確には見える者が見えるだけなのだが。間違っているわけではない。
おばあさんは俺の言葉に一瞬だけ訝しげに目を細めたが、すぐに柔らかな表情にもどって、旦那さんと同じく桜の木を見上げた。
「そうだと、いいわね……」
「多分——いや、絶対にそうですよ。こんなに綺麗に咲いたんですから」
春の穏やかな風が桜の木をざあざあと揺らす。二枚仲良く、桜の花びらがひらりひらりと地面に落ちた。
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