「春、さくらと出会い。」②
「四月、咲き乱れる桜と嘘。」(上)
三月三十一日、四月直前。年度の切り替わりというものは忙しいもので、かくいう俺が勤める会社も多忙を極めていた。あまり残業はないし、週に一日は休みをくれて有給もしっかり取らせてくれる言わばホワイト企業だが、それでもこの一週間は忙しかった。
やはり園田が抜けた分の穴は大きく、仕事にも影響が出たが、何より俺のモチベーションへの影響は大きかった。あんなメールが送られてきて事情を知ったわけだが、同い年の同僚が辞めたというのはやはり辛い。しかし、新たな一歩を踏み出した園田のためにもそんな感傷を仕事に出すわけにはいかない——はずだったのだが。
「おい、大丈夫か? 見るからに疲れてるぞ」
「いえ、大丈夫ですよ。今日頑張れば明日は休みですから」
声をかけてきたのは向かいのデスクでコーヒーを啜る男性——十歳年上の先輩だ。俺がこの会社に就職してから、何かとお世話になっている。
「そうは言ってもな。お前にまで辞められたら会社としても困るし、俺としても困る」
「どうして先輩が困るんですか」
「そりゃあ一緒に飲みに行く可愛い後輩がいなくなるのは寂しいだろ」
先輩は当たり前だというようにそう言った。本当に先輩は素直な人だ。少しの躊躇いもなくこういうことを言えてしまう。——それが仇となって、時に部長と言い合いになることもあるが。ただ、親しみやすさと仕事ぶりで部長に好かれていることは新人の俺でさえわかる。
と、そんな風に先輩の評価をしていると、先輩は俺の目の前に缶コーヒーを置いて、したり顔をする。
「俺からの奢りだ。——その代わりに今日は飲みに行こう。どうせ明日は休みだろ?」
「あ、えーっとですね……」
終業間際。今日はみんなの頑張りもあってか、まだ二十時を過ぎたばかりだ。いつもなら、「はい!」と快諾するのだが、俺の脳内に浮かんだのは一人の少女の姿だった。
永井と出会ってから一週間。もはや彼女は家に住み着く幽霊ではなく、同居人のようになっていた。と言っても、この一週間は本当に仕事が忙しく、永井が起きる前に出勤し、彼女が寝た後に帰ってくる日々だった。まともに話したのは出会った次の日の休日のみ。俺と永井は言わば、本当に同じ場所に居る人——いや、同じ場所に居る幽霊だった。
そのせいもあってか、俺はひどく心配だった。永井のことではない。家のことだ。家の様子を見る暇などなく、家に帰って風呂に入ったら寝るだけ。朝も用意してすぐに家を出るため、彼女が何をしているかがわからない。いくら幽霊と言えども、そこまで常識のない奴だとは思うが。
と、思案する俺に「おーい、聞いてるか?」と声が飛んできた。
「あ、すいません。……少しだけでもいいですか? 今日は休みたくて」
「そうだな。と、決まれば行くぞ!」
「はい」
先輩は仕事終わりとは思えない溌剌さで、帰り支度を始めた。俺もそれに倣って、身支度を始める。
永井のことなど考えても仕方ない。そうだ、俺がここまで気にすることでもない。彼女だって家をめちゃくちゃにすれば家を追い出されることくらいわかっているはずだ。いくら養うと言ったとはいえ、それくらいの節度はあるはずだ。
俺はそうやって少女の姿を思考の外に追い出して、会社を後にした。
※ ※ ※ ※ ※ ※
と、思考の外に追い出したはずだったのだが。予想外にも先輩の言葉によって、俺は永井のことを思い出すに至った。
「お前、なんかあっただろ?」
会社近くの居酒屋。人気店というわけではなく、客もまばらで仕事の疲れを癒すには最高の店だ。ただし、今日は単純に癒されるというわけにはいかないらしい。飲み始めて一時間。先輩が神妙な顔で話し始めた。
「……やっぱりわかりますかね?」
「そりゃあな。まぁ、特段悪い方向に向かってるわけじゃないんだろうけどな」
先輩はそう言って、ジョッキに入ったビールをぐいっと飲み干す。優しい雰囲気からは想像できない飲みっぷりにいつも驚かせられるが——今はそんなことを考えている場合ではない。
どうも先輩は察しがいいのだ。俺に限らず、全員に対して。思い出せば、同い年の同僚が辞める直前も、「気負いすぎるなよ」と声をかけていた。本当に気配りができる——いや、奢ってまで俺の悩みを聞き出そうとしてくれているのだから、お人好しというべきか。
そんなお人好しで信頼できる先輩だからこそ、彼女のことを打ち明けたいと思った。
「ちょっと頭のおかしい奴だと思われるかもしれないんですけど……」
「あぁ」
俺も口が回るように柄にもなく酒を一気に飲み干して、一週間前の出来事——永井と一緒に住むことになった顛末を話した。本当に突拍子もない話だったが、先輩は真摯に話を聞いてくれた。
「——って話なんですけど……やっぱり変ですよね。幽霊と一緒に住むなんて」
「そうか? 俺が大学生だった頃に幽霊に恋をしたとか言ってた奴もいたからな。そいつに比べれば大したことないだろうよ——っと、まさかお前もその口だったりするか?」
「そんなわけないでしょう。いくら相手が可愛かろうと、幽霊でしかも見た目は女子高生ですよ? あり得ませんよ」
先輩の軽口に永井の姿を夢想して、あり得ないという結論に至る。たとえ彼女が生身の人間でも好きになることなど考えられない。彼女は未だ女子高生なのだ。
と、そんな俺の答えに、先輩は吹き出した。
「……なんですか?」
「いや、まさしくお前らしいと思ってな。どうせ一緒に暮らすのを拒んだ理由も、『幽霊だから』じゃなくて、『金がないから』とかだったんだろ?」
「なんでそれを……」
「それがお前らしいからだよ。好きにならない理由だって一緒に暮らさない理由だって、普通なら『幽霊だから』ってのが先に来るだろ。それをことごとく現実的に考えるのがお前らしい」
「はぁ……」
先輩の指摘に曖昧に相槌を打つが、よく理解できない。つまり俺は現実主義者と言いたいのか? いや、結局のところ俺は幽霊の存在を認めたんだ。現実主義者とは言えまい。
——だからこその半透明か。
逡巡して、俺は納得する。
現実主義者というわけでもないのに夢を見るわけでもない。非現実があると知りながらも現実しか見ない。そんな俺だからこそ、永井が幽霊であることを無関係に自分のことしか考えていなかった。彼女がどんな思いで養ってほしいと言ったのかも考えずに。
「……謝った方がいいでしょうか?」
「それは俺がどうこういう問題じゃない。もしかしたらその少女にとって、幽霊かどうかなんて関係なく接してくれた方が嬉しかったかもしれない。それはわからないから——お前がそうしたいと思うならそうするといいんじゃないか?」
「俺がそうしたい、なら……」
正直言って、今考えても永井の頼みはあまりに横暴だった。むしろ、断るとき俺がどんな思いだったか考えてほしいと言いたいほどだった。しかし、彼女は一年間幽霊をやっていると言っていた。そして、俺が初めて彼女を認識したとも話していた。
そう考えれば舞い上がるのも仕方ないのではないか。まして、永井は多感な年頃だ。多少の失礼も許されるというものだ。それなのに俺は結局受け入れたとはいえ頑なに断って、あまつさえ彼女の『遊びたい』というごく自然なお願いすら聞かなかったのだ。
罪悪感を感じていないはずがなかった。
「先輩、今日は帰っていいですか? また今度付き合うので」
「あぁ。今日は俺に奢られて、さっさと帰ってやれ。実は昨日カミさんと喧嘩して帰り辛くてお前を誘ったんだ。お礼だと思って、奢られてくれよ」
「すいません。それじゃあ、お先に帰らせていただきます」
『今日は』なんて限定した言い方をするが、本当に先輩にはお世話になってばかりだ。俺の記憶では、先輩に誘われて飲みに行った時に奢られなかったことはない。
そして『帰ってやれ』という言葉にしても、先輩はお人好しすぎるのだ。だからこそ、その厚意を無駄にするわけにはいかなかった。
俺は家で退屈そうに待っているだろう幽霊に謝るために、逸る気持ちで帰路に着いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
酔いのせいでふらつきながら家にたどり着いた俺を待っていたのは、ソファですやすやと寝息を立てる永井だった。時刻はすでに二十二時を回っていた。
「ちょっと遅かったか……」
俺はおぼつかない足取りで永井の横に立つ。こうやって静かな彼女を見ると、なるほど美少女というわけだ。自分で可愛いなどと言うところが玉に瑕ではあるが、間違っているわけでもない。
そうして視線をテーブルの上に移せば、永井のために俺の独断で買ったコンビニ弁当がまとめられていた。その横には、『今日もありがとうございます』と書かれたメモ帳。
「悪いことをしたな」
一週間前の永井の言葉を思い出す。執拗に遊ぼうと誘ってきたことや、必死に家に居させてくれと頼んでいたこと。俺は自分のことばかり考えて無下に扱っていたが、あまりにデリカシーがなかった。彼女は一年ぶりに自分を認識してくれる人に出会ったのだ。舞い上がるのも無理はないだろう。
それなのに、俺は。
「すまんな、永井」
俺は眠る永井の手に自らの手を重ねて、謝罪を述べた。それからしばらくそうしたままで時間が過ぎて。ふと、なぜこんなことをしているのかと我に帰りかけるが、柄にもなく酒を飲み過ぎたせいだと不可解な行動に説明をつけて、俺は目を閉じた。
ゆっくりと、しかし確実に眠気が身体を支配する。やがて思考がまとまらなくなってきて——、
「大丈夫ですよ、染井さん」
そう聞こえた気がした。
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