「三月、別れと出会い。」(終)

 物足りない朝食を終えた俺は、昼前に再放送されているドラマをぼーっと眺めていた。ただし、いつもと違って一人ではない。ソファに座る俺の横で、一人の幽霊が天井を仰いでいた。


「染井さーん。何かしましょうよー。言われた通りちゃんと食器も片付けましたし、こんな可愛い私が遊んでって言ってるんですから、遊びましょうよ」


 かくして同じ部屋に住むことになった永井と俺だったが、残念ながら女子高生が楽しめるようなものは我が家にはない。そして、休日とは暇を持て余すものだ。


「結局、食器は俺がほとんど洗ったし、自分で可愛いなんて言う奴とは遊ばない。それについ昨日に言ったばっかりだろ。いるだけだって。俺は仕事の疲れを癒すためにダラダラしたいんだよ」


 永井と遊ぶ暇はあっても、気力はない。今はただ、見たくもない再放送のドラマを見て、怠惰を貪りたいのだ。しかし、そんな俺の態度に不満なのか永井は短く息を吐いて、勢いよく立ち上がった。


「それならピンポンダッシュという遊びをしてきますね。そして、染井さんがやった痕跡を残してきます。それでは……」


「おいっ!」


 恐ろしい遊びを語り始めた永井の腕を掴んで、ソファの上に引き戻す。


「それはダメだろ、な? それにもし永井がそんなことしたら、俺だってお前を追い出すからな? どうも幽霊なのに壁とかは通り抜けられないわけだ。戸締りをすれば、お前は泥棒がごとく俺の家には入れない」


「そ、そんなのずるいですよ! 私を浮遊霊にしようっていうんですか! 昨日約束したのに……」


「地縛霊に居座られる俺の身にもなれ。それに約束の話を持ち出すなら、永井はいるだけだって約束だろ」


「そう、ですけど……」


 ブーメランを投げ続ける永井は、やがて勢いを失い、ソファの上で膝を抱え込み頭を落とす。


「昨日はお金もご飯もどうにかするって言いましたけど、正直、どうにもできないんですよ。盗むってこともできないわけじゃないですけど、私自身が許せませんし……。でも、また今までの試食生活に戻るのは嫌です……」


 そう言って、永井は指遊びを始めた。——どうも俺は、この少女のしおらしい姿にめっぽう弱いらしい。


「はぁ……」


 俺は溜息をついて、今の貯金残高を思い出す。想像したくもないが、まだ七桁はあったはずだ。地元を旅立って、農家の両親に持たされた軍資金を下回っていることを考えれば、余裕がないことなど一目瞭然だ。ただ、食費が少し増えたところで今すぐ崩壊するほど余裕がないわけでもない。ゲームの購入を我慢すればいいだけなのだ。


 それに永井に掃除や洗濯や諸々の家事を全て任せてしまえば、言わば家政婦のようなものでちょうどいいかもしれない。そう考えれば、食費だけで済むのはむしろ得だ。


「なあ永井。ひとつ提案してもいいか?」


「……なんですか」


 俺の言葉に顔を上げた永井だったが、その表情は不機嫌に塗れていた。どうやら本当に一人になるのが嫌らしい。


「永井に家事をしてもらって、その報酬として俺が食費を出すっていうのはどうだ? それなら永井の要望も答えた上で、俺も納得できるんだが……」


「——嫌です。と言うより無理です。家事なんて」


「……何?」


 無理、とはどういうことだろうか。俺としては最高の折衷案であり、永井にとってもいいこと尽くしの提案だと思ったのだが——と、今朝のやりとりを思い出す。「炊飯器の使い方とかもわかりませんし……」と、彼女は言っていた。料理が下手なのは仕方ないにしても、炊飯器の使い方を知らないとなると、疑いようがない。


「まさか、掃除も洗濯もできないと……?」


「そんなお化けを見るような目で見ないでください! 別にできないこともないですけど、絶対に迷惑かけますよ!」


「ような、も何も事実お化けだろ。それにしてもまさか温室育ちのお嬢様だったとはな……」


「温室育ちなんかじゃありません! その……うちは厳しい環境でした、けど、家事をやることはなくて……」


 話せば話すほど勢いを失っていく永井。どうもその辺は触れて欲しくないらしい。それとも、家事をこなせないことが恥ずかしいのか。俺にはわからなかったが、いずれにしても俺の折衷案は廃案ということになる。


 しかし、この手もダメとなれば永井を養うことはできない。見返りもなく人助け——ならぬ、幽霊助けをするほどお人好しな俺ではない。何かしらの見返りがなければ——。


 と、他の案を考えていると、テーブルの上のスマホがポロンと音を鳴らした。メールの着信音だ。休日の真昼間にメールをしてくる友達などいないはずだが。


 俺は永井に「すまんな」と断りを入れて、スマホの液晶画面を見た。園田と表示されている。——つい最近退社した同僚の名前だった。


「あ……」


 俺は急いでメールフォルダを開いて、内容を確認する。


『メールかよって思うかもしれないが、謝っておく。すまん。部長にはストレスって言って辞めたし、お前にもそう伝わってると思う。ただ、それは嘘だ。実は小説の新人賞に応募してて、大賞を受賞したんだ。長年の夢で、その夢のために会社を辞めるなんて、って思われるのが嫌で隠したんだけどな。でも、お前には言っておこうと思ったんだ。お前なら馬鹿になんてしないだろう? だから、俺のことは心配しなくていい。新しい一歩を踏み出しただけだ。今は執筆作業で忙しいから、また暇にでもなったら飲みに行こう。その時はお前が何か生きがいを見つけているのを楽しみにしてるよ。それじゃあ、また今度』


 同僚——園田にしてはやけに長ったらしい文章だった。だが、園田らしい内容でもあった。自分のやりたいことのためなら他のことを切り捨てることさえ厭わない。時には危ういが、いつか大きなプロジェクトに関わった時の園田の姿が、俺には眩しく映ったことを覚えている。——何も生きがいがない俺には特に。


「どうしたんですか? もしかして彼女さんとかですか?」


「いいや。友達からだよ」


 永井が不思議そうに覗き込んできたが、あまりに長い文章に興味を無くしたようで、再び口を閉ざした。


 そうして、俺は再びスマホの画面と睨み合う。園田のメールは報告というより焚付けのように見えた。いつも、「生きがいがない」と言い合っていた俺たちだ。とは言え、園田は隠していただけだったのだが。


 となれば、本当に生きがいがないのは俺だけだ。ただ生きるためだけに働き、生きるために飯を食う。それはある意味で生きがいなのかもしれない。だが、園田の生きがいを知って——彼が七色に光っていたことを知って、今の俺は無色であるように感じた。いや、むしろ色もない半透明のようにさえ感じてしまう。


「生きがいを見つける、か」


 俺は独りごちて、『言いたいことはたくさんあるが、今度の飲みの時に話すよ。また今度』と、返信した。


「生きがいがどうかしたんですか?」


 ふと、永井が俺の独り言を拾い上げて、口を開いた。今までなら独り言のまま床に転がっていたはずなのに。


 そのことに淡い充足感を得て、俺は永井の顔を見つめる。思えば、女の人とここまで親しく話すことなど、五年前——約一年間付き合っていた彼女以来かもしれない。まさか、この目の前の幽霊は俺に新たな一歩を踏み出させるために現れたのだろうか。


 生きがいを感じず、ただ呆然と毎日を生きていた俺を変えるために。


「そんなこと幽霊の前で言わないでくださいよ——ということで、遊びましょう。お金のこととかご飯のことは後回しにして——」


「いいや」


 そんなはずはないか。もしそうなら、こんな風に遊びに執着するはずがない。


 ただ、生きがいとしてではなく、例えば生きる意味として幽霊を養ってもいいのかもしれない。半透明な俺の人生に色をつけてくれる半透明な存在として。それでなくても、今は寂しさを埋めてくれるこの幽霊と一緒に過ごしたいと思う。


「俺の気が変わるまで養ってやる。ただ、最低限のことはしてもらうし、頼みごとも聞いてもらう。——それでいいか?」


「……っ! はい! お願いします!」


 俺の言葉に一瞬驚いて、永井は顔を輝かせた。それもそうだろう。さっきまで突っぱねていた人の言葉とは思えない。ただ、たった一つのきっかけで簡単に考えが変わってしまうのもいいだろう。それがいい方向に傾くのなら。


「ところで遊んではくれないんですか?」


「遊ぶわけないだろ。お前は駄々をこねる子どもか」


「紛れもなく子どもですよ。だから遊びましょうよー」


 一向に遊ぶ姿勢を崩さない永井に呆れて、寝室からリビングにゲームを運ぶ。つい最近買ったばかりの最新ゲーム機だ。もしかすると、これが最後のゲーム機になるかもしれないと感慨を覚えながら、永井にセッティングごと放り投げる。


「やりたいなら自分でセットしてやれ。俺は寝てる」


「いいんですか!」


「好きなだけやっとけ」


 そう言って、俺はソファの上に寝転がる。


「ちょっと埃っぽいので窓開けますねー」


 セッティングを始めた永井が、リビングの窓を開ける。


 やがて、開け放たれた窓から眠気を誘う暖かさとともに春の匂いが流れ込んできた。

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