「三月、別れと出会い。」(下)
夢を見た。
小学生の夏休み。何もすることがなくて、いつもより遅くまで寝ていて、母が作る朝ごはんの匂いで目を覚まして。いつもと変わらないただの休日のはずなのに、その日だけは何故か特別に思えた。
幼い頃は特に寝相が悪かったわけでもなく、姉と一緒に大きな掛け布団に包まれて目覚めの後の曖昧な意識を楽しんだりして。
そんな非日常的な日常の夢から覚めて、唐突に俺を襲ったのはなんとも言えない寂寥感だった。と、脳がその寂しさに気づくと同時に、昨日の出来事を思い出す。花恋はもう彼女ではない。そんな現実が寝起きに突きつけられて、心に重石を乗せる。
やはり、何かをしたのだろうか。何をしなければよかったのか、何をすればよかったのか。益体のない考えばかりが浮かんできて——、
「あ、起きたんですね。朝ごはん作っておきましたよ」
聞き慣れない溌剌とした女子の声に思考を阻まれた。
「ん……? あぁ、そう、だったな」
沈み始めた気分が、もう一つの忘れられない出来事に引き上げられる。俺は一日だけ、幽霊と生活することにしたのだった。人生で二度とないであろう機会。どうせなら楽しんでやろうと意気込むが、非日常の始まりは幽霊に出会う以上の驚愕から始まった。
「おい、そのテーブルの上にある謎の物体はなんだ?」
俺はおそらく白米のお供として並べられているのであろう真っ黒の物体を指し示して、女子高生に質問を投げつける。
「いやぁ、あのですね? いくら養ってもらうと言ってもですね、朝ごはんくらいは作りたいなと思いまして……私、生きてる時は卵焼きが得意料理っていうか、唯一作れる料理だったんですけど……」
ばつが悪そうに指を絡ませて答える女子高生だったが、それで俺の驚きが消えるわけではない。仮にこの石炭のような物質が卵だったのだとしたら、どんな呪いをかければこんな姿になってしまうのだろう。
「昨日、呪いはかけないって言ったよな?」
「違います! 私は呪うなんてことできなくて……いや、呪いでこうなった方がまだマシですよ! 真面目に、真剣に卵焼きを作ろうとしたらこうなったんです! ——あ、でも、こっちのご飯の方は上手くいきましたよ!」
「そりゃご飯はレンチンすればできるからな。チーズ醤油丼にでもするか」
「え……?」
俺がチーズ醤油丼の製作に取り掛かると同時に、女子高生の小さな疑問符が頭上から降りかかってきた。
「あの、怒らないんですか……?」
彼女はまるで何かに怯えているかのような口調で、そして実際に何かに怯えるように目を細めて、俺のことを見つめていた。
そこで俺は昨日の己の愚行を思い出した。女子高生からすれば、人に見つかるという青天の霹靂を経験したのもつかの間、説教を食らったのだ。こうした小さなことでさえ怯える理由を想像するのは難しくない。
「大丈夫だ。こんなことで怒るはずないだろう。少し話したが、昨日は俺も彼女にフラれて少し精神が不安定だった部分があった。正座をさせて説教したのは悪かった。——まぁ、いくら幽霊だからと言って人の部屋に侵入する行為が許されるかと言えばそれもまた違うが……とにかく、そんな些細なことでは怒らない。むしろ、気遣いに感謝してる」
「そう、ですか……」
女子高生はふぅっと息を吐いて、「あ、チーズ醤油丼食べましょう!」と、昨日と同じ位置に正座をして不健康の塊を待つ。今この瞬間、彼女の不安が拭われたのだと、実感する。
「…………」
俺は白米をチーズごと温めてそれらを絡ませ、そこに醤油を茶椀五周ほど垂らした朝食用チーズ醤油丼をテーブルに置いて、ソファに座り女子高生を見つめる。
どうやら俺は一年間、人と暮らすことから遠ざかっていたせいで、気遣いというものを忘れているらしい。思えば、そんなことが原因で花恋にもフラれたのかもしれない。
だが、そんなことを口に出して言えるほど素直ではない。結局のところ考え尽くした末に遠回りな言い方を選んでしまう。真意など伝わらないままに、その話は終わってしまうのだ。だからせめて、今日で関係が終わる目の前の幽霊にだけは素直でいようと決意して——、
「……随分と美味そうに食うもんだな」
「だって、こんな食べ方させてもらえませんでしたし……本当に美味しいんですよ」
「そうかそうか。ほら、さっさと食って部屋の片付け始めるぞ」
「あ、そうでしたね。私の出番ですよ!」
綺麗な箸づかいで綺麗とは言えない飯を食べる姿を見て、結局、彼女の食事が終わるまで気遣いの言葉一つすら出てこなかった。たった一日の関係、何を気兼ねする必要もないはずなのに。
「えぇと、大丈夫ですか? なんだか思いつめたような顔をしてますけど……」
「あぁ、なんでもない。少し考え事だ。——よし、始めるぞ」
「はい!」
自分の気遣いのなさを思考の外に放り出して、まるで逃げ道のように始まった片付けではあったが、いざ二人で始めてみれば目につくところも二倍で。
「とても今日一日で終わる量じゃないですね……」
「全くその通りだ——お、この漫画こんなところにあったのか。昔は夢中になって読んでたんだがな」
「あ! それ読んだことあります! すっごい面白かったんですよね」
「そうだが……女子がこれを読むなんて珍しいな。俺が高校生の頃は女子がこれを読んでるなんて聞いたことなかったが」
「まぁ、いいじゃないですか」
表紙を見ただけで目を輝かせる女子高生だったが、とても「そうだよな」と頷ける内容ではない。内臓が飛び出るなんて日常茶飯事、事あるごとにお色気シーンと、男子の心をくすぐる内容ではあったが、女子からすれば引く類のものであることに違いない。
あるいは兄か弟がいて、それで読んでいたのかもしれない。
「いやー、やっぱり面白いですね。このストーリーが理解不能なのに読んじゃうのって、何か秘密があるんでしょうね」
そんなことを言いながら、女子高生はパラパラとページをめくる。そんな姿を見ていると、俺もノスタルジーを感じて、無性に漫画を読みたくなってしまった。ふと時計に目を向ければまだ九時を過ぎたばかりだった。多少の時間ロスも致し方あるまい。
そうして俺は漫画を数冊手に持って、リビングに逃げ込んだのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「やっぱり面白いよな……」
最後の一冊を漫画の山に積み上げて、俺は天井を仰ぐ。さすがは俺たちの学生時代に大流行した漫画と言うべきで、大人になって読んでみるとまた違う面白さが発見できた。ところどころに散りばめられた伏線が華麗に回収されていく様といったら、心地いいと言うほかない。
と、気持ちのいい読後感に襲われた代償は大きかった。時計の短針は既に十二を過ぎたところを指していて、三時間近く怠惰を働いた計算になる。せっかく片付けをするいい機会だと意気込んだのは誰だったのか。
どうせ女子高生も漫画を読み漁っているだろうと、寝室の扉を開けると——、
「……ん?」
「あ、読み終わったんですね。結構、部屋片付いてきましたよ」
「いや、結構どころじゃ……」
床に散乱していた使わなくなった仕事の資料や、スナック菓子のゴミ。乱雑としていたコントローラーやらテレビのリモコンは机の上に整然と並べられ、ホテルさながらのベッドメイキングまで施されていた。
「お前、まさか魔法とか使えるわけじゃ……」
「幽霊だからってそんなことできませんよ? 普通に片付けただけじゃないですか。あ、あと日付が近いプリントとか沢山あったので、それは捨てないでまとめておきましたよ」
あたかも普通のことだと言わんばかりの女子高生に、開いた口が塞がらなかった。兼ねてから掃除が苦手な俺にとって、彼女は幽霊なんかではなく神だった。
「…………」
そこで一つの案が浮かぶ。財力はあるが掃除の苦手な俺と、財力どころか生命力はないが掃除の得意な女子高生——いわば家政婦のような扱いで一緒に住んでしまえばいいのではないだろうか。
本来、家政婦を雇うなら、もちろん賃金が発生する。今のご時世、安くはないだろう。しかし、目の前の少女を家政婦として雇ったなら、賃金はなし。代わりに少々の食費が増えるだけである。
疑うべくもない名案であった。
「なあ、お前に提案がある」
「なんですか?」
純粋な瞳で見つめてくる女子高生に息を呑む。これはいわば、人生最大の決断とでも言うべきだろう。昨日は一年を背負えるほどの覚悟がないと養うことを拒否しながら、今日は家政婦の役割があるからと養おうとしている。
なんとも利己的な考えだが、それだけが理由ではないことは俺が一番わかっていた。今日の朝、目が覚めて誰かがいてくれたこと。朝食を他愛もない会話をして楽しめたこと。それは彼女に振られた寂しさなどではなく、心の底から思えたものだった。
だから、覚悟などと重い代物ではないが、決意は既に済んでいた。
「今日だけという約束だったが……あくまで家政婦として、お前の手を借りたい。俺はどうも掃除が苦手でな。もちろんお前の分の食事も出すし……」
「それが理由ですか?」
「え?」
「それが理由なのか聞いてるんです」
女子高生に疑いの目を向けられて、俺は狼狽する。気恥ずかしいからと、あえて口に出さなかったのにどうして見破られてしまうのか——いや、見破られているわけではないのかもしれない。ただ、彼女は俺の言葉が真意なのかどうなのか試しているだけなのかもしれない。
「…………」
「私が掃除が得意だから、養ってくれるんですか?」
俺はふぅと息を吐いて、今度こそ覚悟を決める。寂寥感などという言い訳を捨てた感情を女子高生に伝えるための覚悟を。
「朝、安心した。どうでもいい話をしながら食べる朝飯が美味かった。そこに彼女に振られた寂しさとかはない。単純にそう思ったから——いや、やっぱりお前の掃除の腕を見込んで、養いたいと思ったんだ」
結局、肝心の部分をはぐらかす結果になったことに自責の念がこみ上げるが、当の女子高生の反応は及第点という風だった。
「それなら仕方ないですね。一緒に住んであげましょう」
「……認められたからといって調子に乗ると、夕飯抜きだからな」
「あー! それだけはご勘弁を!」
子犬のように俺の腕にしがみついてくる女子高生に無意識に頬が緩んで、悟られてはいけないと顔を背ける。
「……そういえば名前を聞いてなかったな。俺は
「私は
「あぁ」
俺は未だに腕にしがみつく女子高生——永井を振り払って、ベッドに寝転がる。春先の昼下がり。昼寝には最適の時間で全身の力が抜けていくのがわかった。どうやら昨日の別れ話と今日まで続いた幽霊との非現実な会話で、俺の精神は予想以上にすり減っていたらしい。
「あのー、ゲームやっててもいいですか?」
「セットとかは自分でしろよ」
「はーい。ちょっと埃っぽくなるので窓開けますねー」
ごそごそとセッティングを始めた永井に背を向けて、俺は目を瞑る。やがて、開け放たれた窓から眠気を誘う暖かさとともに春の匂いが流れ込んできた。
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