お前の尻を見せろ!
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「但馬世之介……! 前へ出ませい!」
物憂げな校長の声が講堂に響き、世之介はさっと立ち上がると、慎重な足取りで前へ進み出た。世之介、という珍しい名前に、講堂の背後の庭先に、ぞろりと控えている卒業生の親たちの物珍しげな視線が背中に集中するのを感じ、それでも真っ直ぐ前を見て世之介は校長の前へ進み出た。
但馬世之介、十七歳。今年、高等学問所を卒業である。手足が長く、色白で、どことなく育ちの良さ故の頼りなげな印象を与えている。髪は短めにさっぱりと刈り上げ、きちんと櫛が入れられている。
高等学問所は、かつて高等学校と呼ばれていて、内容は変わらない。筒袖の上着に袴が制服で、講堂は百畳敷きほどの和風建築だ。男は筒袖袴だが、女子は振袖に袴穿きである。学制改革で、小学校は「初等手習い所」となり、中学になって「中等学問所」と変わったが、中身は旧制と同じである。
講堂は一面畳敷きで、全員正座をしている。
作法通り、世之介は足を滑らせるように前へ進み出ると、校長の前に一礼して着座した。
校長は卒業証書の替わりに羽織を着せ掛ける。これで世之介は卒業を認められたのだ。高等学問所で男は羽織が、女子は懐刀が卒業証書となっている。
東京が江戸となり、国会が幕府となって、世の中のあらゆる仕組みは江戸時代を規範に再現された。
だが、それまでの旧制を抵抗なく新たな仕組みに組み込むため、色々と奇妙な習俗が出現した。今の卒業式もそうだ。江戸時代には様々な学問所があったが、卒業式なるものは存在しなかった。幕末、一部の私塾でそのような儀式があったらしいが、一般的ではなかったという。
しかし、卒業式がないのは、どうにも落ち着かない。結局、こんな形になって残っている。
羽織姿になった世之介は、再び自分の席に戻り、次々と卒業生の名前が呼び出されて式が滞りなく進行して行くのを、待ち受ける。
講堂の高い場所から開けられた連枝窓からは、暖かな春の日差しが差し込み、じっと身動きもせず待っていると、ついうとうとと睡魔が襲ってくる。
但馬世之介は同じ名前で七十七代目で、初代世之介は本物の江戸時代に生を受け、初代の活躍は井原西鶴によって「好色一代男」となって有名になった。
あれのせいで世之介はさんざんからかいの対象になった。親爺もいい加減、世之介なんて名前付けるのを止めにすれば良いのに……。
卒業式の最中、ぼんやりと世之介はそんなことを考えていた。
これからの進路について世之介は五里霧中であった。本来なら卒業式の数ヶ月前から進路を決め、今頃は上の学問所に進むか、他の専門学校に進むか、それとも社会に出るか決めなければならないのだが、世之介は何をするでもなく、ついウカウカと卒業式を迎えてしまったというわけである。
なにしろ世之介はお坊ちゃまだ。但馬家は幕府出入の御用商人で、世之介は何不自由なく育ってきた。御用商人というのは、幕府主導の国家計画に資材や、人員を提供するお役目である。当然、利潤も大きく、代々商売を手広くして、今に至っている。
遂に卒業式は終了し、居並んでいた卒業生たちから安堵の吐息が漏れた。校長以下、師範たちが退席すると、一気に解放感が横溢し、会場はざわめいた。
講堂の縁側に腰を下ろし、自分の履き物を探していると、目の前の地面に影が差した。
顔を上げると、一人の中年男と視線が合った。
着流しに渋茶色の羽織。商人らしく前掛けをしていて、前掛けには【但馬屋】の屋号が染め抜かれている。男は世之介に向け、深々と頭を下げた。
「ご卒業、おめでとう御座います。世之介坊っちゃん」
きちんと両手を膝に当て挨拶をすると顔を挙げ、にっこりと笑みを浮かべる。四角い、がっしりとした顎に、苦労人らしく柔和な目付きである。世之介は頷き、返事した。
「ああ、有難う。省吾さん。出迎えに来てくれたんですね」
省吾、と呼ばれた中年男は「はい」と深々と頷くと、小腰を屈め先にたった。
木村省吾。但馬家の大番頭である。昔なら、筆頭重役とか、専務とか言われる役職だ。
省吾は、すたすたと先を歩いていく。後を従う世之介と省吾の足下は、商人らしく軽い雪駄履きだ。
世之介が通学していた学問所の建物を左手に見て、二人は卒業生とその両親でごったがえしている校庭を、正門へ向かって歩いていく。校庭には桜が植えられ、今を盛りと、咲き誇っている。
世之介の両親は出席していない。母親はどこかの辺境星域に慈善事業のため家を空けているし、父親もまた今頃は幕府のお役人と新たな契約で飛び回っている。出迎えたのは、大番頭の省吾だけだ。
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