雲鯨奇譚
ピクルズジンジャー
第1話
これは私の知り合いから聞いた話を基にした物語だ。
彼の名を仮に田村くんということにしておこう。
田村くんはその頃某大学に籍をおく学生だった。そして毎日暇をもてあましていた。
適当にのらくらと授業に出席しバイトをこなし友人と遊びつつ、なにか面白いことをやってできれば世間をあっと驚かしてやりたいな……と、学生用ワンルームマンションの天井を見上げながら他愛のない夢を頭の中で燻らせるような日々を過ごしていた。
そんなおりだ。妙な噂を小耳にはさんだのは。
大学のある市のはるか西にある山の中に、鬼の国に通じるバス停があるというものだ。
まっすぐに育った杉木立のおかげで昼ですら暗く、地元民しか使わぬ道沿いに、山の中であるにも関わらず「湊」というバス停がある。
その「湊」というバス停は濃い霧が発生する晩秋のある時期の深夜0時に訪れると、鬼の隠れ里へ連れて行かれるのだという。誰に? ……って、その鬼にである。
それを聞いて田村くんは「ほお」と思ったのだそうである。
幽霊や妖怪に遭遇する、異次元や異世界に連れていかれるというのはよく聞くが、鬼の隠れ里というのはめずらしい。なんだか民話っぽく長閑なのも良い。
暇をもてあましている、隙あらば楽して目立ちたい。
そんな気持ちではち切れんばかりだった田中くんの胸に魔が差したのも無理からぬことだろう。彼は日曜日に計画を実行することにした。
その結果。
11月某日、トタンとベニヤでできたような山の中のバス停で田中くんはガタガタ震える羽目になった。寒いから防寒対策は怠るなという友達の忠告をうるさがりながらも護った結果、フリースとガサガサうるさいウインドブレーカーを重ね着して臨んだのがそれでもまだ晩秋の山は寒かった。服の何箇所にカイロをはりつけていたがそこだけだやけるように熱い。外気は寒い。
寒いだけではない。バス停のそばに灯った蛍光灯ひとつしかあかりはない。暗い。加えて山の中だ。しんと静まり返っている。
不意にガサガサ音がなるのでギャっ! と悲鳴をあげたのちに振り向けば鹿がいたりする。
おお、鹿だ鹿! と工業地帯で育った田村くんは一瞬テンションを上げたけれど、ここまで彼を運んでくれた友人が彼を下ろす際に言い放った一言「熊には気をつけろ」という一言から、テレビでやっていた三毛別羆事件の再現ドラマを思い出して震えの原因に寒さに恐怖を加える。
車一台通るのがやっとのような細い山道に、両脇はまっすぐ生える杉木立。あたりはしんと静まり返っている。熊も出そうだ。
田村くんは、おそらく熊よりもっと恐ろしい鬼というものに遭遇するかもしれないという噂をきっかけにこの無謀な冒険に繰り出したことをすっかり忘れていた。
接続が悪いとわかってはいてもかじかむ手でスマホからSNSにアクセスし、寒い、怖いといったtweetとともに真っ暗な画像を投稿して恐ろしさに耐える。でもバッテリーがもったいないから過剰な投稿は自重しないと。Wi-Fiもないような所だからTLを覗くのにも時間がかかって仕方がない。
……本当ならここで引き返せばよかったのである。
最寄りの駅――といっても山のなかにある無人駅――に「厚着をしろ」とアドバイスをした友人が車で待機していた。
いますぐにでも根をあげてリタイアを宣言したら、彼の車に乗って家までかえるという段取りになっていたのだ。
しかし寒さに凍えながらも田村君は引くに引けない心境になっていた。目的を達成し出来たら友人に一万円をもらう賭けをしていたし、なかなか接続できないSNSの投稿に彼へ興味を示すコメントがぶら下がり始めたからだ。大半が彼の行動を面白がっている大学の友人ばかりだが、じわじわと拡散されている様子でもある。
ようやく手ごたえを感じ始めたところだし、一万円はほしいし、そして根を上げて車まで戻ったら友人が絶対「ほーらな」という顔つきで出迎えることが予想が付く。ここで引きかえすわけにいくか。
時刻は夜の22時半。
彼の人生で最も無駄だと思われるバカなひと時が、静けさの中で過ぎていった。
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