第7話 惑う陽蜜と異界の菓子③
初めて浸かった海の水、顔に着いたしずくを舐めると確かに塩辛い。
湖や谷川とは全く違う、生臭いような妙なにおいが終始漂っているし、ざぶんざぶんと波で揺れるのも肌に触れる水の感触も、どれもすべてあたしが知っている水とは違う。
なのになんで、あの時のことを夢に見たのだろう。
「白狼! すごい、海の中に奇麗な魚がいっぱいいたよっ! 宝石が空飛んでるみたいだった!」
飯食ってしばらく経ってから水着ってやつに着替えて、ユールさんに小舟で珊瑚の林に魚がわさわさ泳ぎ回ってるのが見られる秘密の場所に連れて行ってもらい、変なメガネと口で加える管を渡されてひとしきり潜ってみた。
そこで見た景色はとてもじゃないけど言葉で言い尽くせない。こんなきれいな世界が世の中にあるんだ! と感激して気のすむまで泳ぎまくった
「おうそりゃよかったな! つれてきた甲斐があったわ」
白狼はそう言った直後、ささっと自分が着ていた半袖の服をぬいでこっちに手渡した。ユールさんたちの目もあるから着ろってことらしい。
胸と尻しかかくしてなさそうな水着を選んだのは白狼の癖に、いざあたしがそれを着て見せるとはずかしくってまっすぐ見れないってことのようだ。勝手なやつだ。真っ裸のあたしだって何回も見ているくせに。
ともあれ白狼のさしだした半袖の下着みたいな服をそのまま着る。ほとんど裸な上半身はすっぽり隠れたけれど、尻と腿の境目あたりから下は隠せないが、まあさっきよりはマシだろう。
白狼は裸の上半身に、白いふさふさで縁取りされた真っ赤な羊毛の上着を羽織る。冗談みたいに悪趣味な服だが、プレゼントを配るときはそれを着ることになってるんだそうだ。
「悪いな、構ってやれなくて」
「いいよ。こっちこそ悪いね。あたしばっかり遊ばせてもらって」
あたしは白狼が前にある木製の橇を眺める。さっき親方たたちのいる本部から届いたんだそうだ。御者台には二人ほど乗れる場所があり、荷台がうんと広い。この橇を轢くトナカイたちはこれから来るそうだ。
みた所、空を飛ぶような特別な橇に見えないのが不思議だ。
「へえ~、あんたが曳くの?」
「まあな。正式にはトナカイさんらを俺が御すんだけどな」
誇らしそうに白狼は胸を張る。こう言う所にちっこい自分をできるだけ大きく見せたがったガキの頃の名残がある。
物珍しいのであたしは橇の隅々を眺めた。年季が入っているのであちこちに傷があるが、よく手入れされていてその傷すら風格ってやつになっている。
けど、あたしはその中の傷の一つに目をつける。ぶつかったとか、ひっくり返った拍子についたんじゃない、物騒な種類の傷だ。
丸っこい、何か硬いものが撃ち込まれたような跡がある。あたしはそれに指をあてた。
「……わりと危険な目に遭う仕事っぽいね」
「おうよ。ま、いざって時はお前を頼るわ」
そうならねえように全力出すけど、笑いながら白狼は言う。
午後からはトナカイたちもやってくるので、白狼やユールさんたちは調整にあたる予定だっていう。
あたしは午後も出番がない。
海水でべたべたする体をシャワーで洗い流して、ユールさんが奇麗に整えてくれた寝台にぽすんと倒れた。
海で泳いで、はしゃいだ反動で、ひどく疲れていた。おまけに昨日の晩もゆっくり寝ていない。
外では白狼とユールさんが仕事に関して相談しあう声が聞こえてくるけど、部屋の中はしんと静かだ。波の音が眠気を誘う。
あたしはほんの少しだけ、横になるつもりだった。
「……カ、
目の前には夏用の衣姿の銀鹿がいた。まだ乾いていない銀色の髪を簡単にまとめている。
「どうしたのさ、ぼーっとして」
「……あ」
ぼんやりしながらあたしはあたりを見回した。振り向けばあたしらの森にある湖、前には森の中の小道を歩く銀鹿。
そうだ、とあたしは思い出す。夏が来たので銀鹿と湖に泳ぎに来てその帰りだった。
チビの頃までは村の他の子供たちと一緒に水遊びにきたもんだけれど、ことしは銀鹿と二人で来たのだ。やっぱりもう誰彼かまわず平気で裸になるような齢じゃねえってこった。
あたしも銀鹿とならすっぽんぽんでも平気かと思ったけれど、溶けない雪で出来てんじゃないかってくらい白くて引き締まって銀鹿の体を見ていると気おくれっつうもんを始めて覚えてしまう。ほっそりした銀鹿の体に比べて、そのころのあたしの体はあちこちに肉が付き始めてどうにも不格好だったのだ。
「ちょっとずるいよ! あたしばっか裸じゃ。あんたも脱ぎな!」
あたしが服を脱ぐのをためらうと、銀鹿があたしの夏用の衣をはぎ取ってしまった。きゃあっと悲鳴を上げたけど、銀鹿も裸だ。恥ずかしさは半分になる。
お互いに恥ずかしくって、ざぶんと浅瀬に飛び込んだ。お互いに水をかけあったり湖の小魚を追いかけまわしたり、存分にあそびながら時折銀鹿の体を盗み見る。
銀鹿の胸は小ぶりで硬そうで、尻も小さくてまん丸い。いつか鹿に変身した時にひこひこと尾っぽをふってみせたことを思い出す。
あたしはあたしで銀鹿があたしの体をみていたことに気づく。あんまり見ないで欲しかったんだけど。あたしの体は胸とか腿とかがなんだかむちむちし始めていた恰好悪かったから。肌も、銀鹿の万年雪みたいな肌と違ってちょっとしたことでさあっと赤くなりやすい。
それをわかっていて、銀鹿はわざとからかうような声をだしたり、うしろから抱きついては体を触ったりする。
「あんた可愛いね」
「言ってろ、バカ」
銀鹿はずるい。あたしの体は銀鹿に見られたり触られたりすると赤くなるのに、あたしがどんなに力をこめて見ても銀鹿の体は赤く染まらない。だから銀鹿は岩場で神殿の女神様を象ったの彫像みたいなポーズまで取って見せる。わざとほそっこい上半身を晒して、小ぶりの胸をつんと上向けに晒したりする。あたしをおちょくっているのだ。
ようし、そうなったら……!
およぎ疲れた銀鹿が岸に上がった隙をあたしを狙うことにした。わざと湖に深くもぐる。
銀鹿は自分が岸に上がるとあたしも上がるはずだと思い込んでいる。冷えた体をお天道様にあてて温めようと今頃岩陰の砂地に腰を下ろしている筈だ。
いくら大胆な銀鹿でも裸で一人でほったらかしにされてはちょっとずつ心細くなりはじめている筈。そんな頃合いを見極めてから、あたしはわざと大げさにざばっと湖から姿を現した。
「っ⁉」
案の定だった。砂地に腰をおろしていた銀鹿はあたしを湖のバケモノか何かと勘違いしたのか、裸の腰を浮かして逃げる体勢をとっていた。だからあそこが丸見えになっている。
どれだけ仲が良い義姉妹でも見せ合ったりしない場所が。
あたしはしずくの垂れる髪をかきあげて、情けない恰好の銀鹿の前に立ってやった。わざと意地の悪い声も出す。
「銀鹿、見えてる」
「……っ⁉」
自分の体勢をやっとこさ把握した銀鹿は、自分の体とあたしの視線を見比べて慌てて脚をとじようとするが、あたしはその間に自分の体を割り入れていた。脚をとじさせないように膝頭を押える。
銀鹿もあたしと同じくらい恥ずかしがらせたい、あたしの頭はそれでいっぱいだった。
「銀鹿はずるい。あたしばっかり体を赤く染めさせる。銀鹿もあたしと同じくらい恥ずかしくなんなきゃダメだよ」
銀鹿はきつく目を閉じて、ふるふる首を左右に振った。手のひら越しに膝に強く力をこめているのが分かる。あたしの目から隠したいのだ。今まで誰にも見せてこなかったところを。
あたしは銀鹿の、狩ったばかりの獣みたいに無防備な体を正面から見下ろせる格好になった。獣と同じ器官が銀鹿にもあった。そんなことに驚いたり、きまり悪くなったり、色んな気持ちがあたしの胸の中で渦を巻く。だけど目はあそこに吸い寄せられていた。
村の子供らのなかでは一番きれいで、女神様の化身みたいな銀鹿の体には不釣り合いなくらいそれはなんだかなまなましくて、そこだけ別の生き物のように見える。むき出しの内臓みたいで恐ろしかったそれが、あたしに見られてひくひくする様子は酷く哀れで、開きかけていた花のつぼみを無理やりむしったような気持ちになってしまう。
みると銀鹿の体もふわっとうっすら朱色をはいたように赤く染まっていた。きつく閉じた目じりに涙が浮かんでいる。
銀鹿が泣いている。
あたしはとっさに膝を綴じさせまいと力をこめた手を離してしまった。
「ごめん……!」
直後、目を見開いた銀鹿はさっきまでの儚げな様子をかなぐり捨てた。目を見開いてニヤアッと笑う。しまった……! と気づいた時にはもう遅かった。
「隙ありィ!」
銀鹿はあたしの体に突撃して砂地に押し倒すと、あたしの両足首をつかんで顔の両脇にくるくらいに大きく開く。さっきの銀鹿よりよっぽど恥ずかしい恰好だった。なにせケツが持ち上がって股に隠されてるものぜんぶお天道様にさらすような恰好になっちまったのだから。
「やだっ、酷いよ銀鹿。やめてよっ」
立場が入れ替えられてあたしは必死で抵抗した。すると勝ち誇る銀鹿の顔の下でケツを振る格好になってしまって余計に恥ずかしい。
「酷いのはどっちだよ、さっきあたしにあんなことしといてさっ。だからこれはさっきの仕返しだよっ」
「ごめん、謝るからあ! もうしないからあ! 見ちゃやだあっ」
そのときのあたしは全身さぞかし真っ赤っかになっていたことだろう。銀鹿は意地悪で許してくれず、あたしのあそこをに息がかかるくらい顔を近づけたりする。
「ダメだよ。燐火の可愛いところよーく見せてくんなきゃ許さないっ」
「か……っ」
可愛いところ、なんて息もかかるような距離でそう呼ばれて。
むりやり地面から浮き上がらされたケツのあたりにズンって衝撃が走った。今までだって何かの拍子にそのズンってのが来る時が時々あったけれど、そういう気は股を閉めてやり過ごす。だけどこの状態では股が閉められない。
「かかかっ、可愛くなんかないよ。汚いよっ、おしっことか出るんだから。変なこと言わないでっ」
ああやばい。
あたしは焦っていた。なにか今までになかった反応があたしの体を襲っていたからだ。銀鹿にじいっとみられている所が急に痛いくらい張り詰めてきたのだ。
いきりたつそれを何とか鎮めたくてたまらなくなる。
なのに銀鹿は打って変わって大真面目な口ぶりでいう。さっきまで悪ふざけ
「汚くなんてない。可愛い。今なんてここ、すっごい……」
銀鹿は言葉をのむ。一緒につばも飲んだみたいだった。
最後にあたしの方を何かを許してもらいたそうな目で一瞬見つめる。あたしは言うことを聞かないそこを鎮めてくれるならなんでもいいと、顔を背けて叫んだ。
銀鹿の唇が、あたしのそれに唇をあてた。そして舌で舐めあげる。唇で吸い上げる……。
そういうことをするのもされるのもお互い初めてで。あたしはそこがようやく楽になるのを感じて、嬉しいんだか怖いんだか、気もちいいんだか恥ずかしいんだかで、ワケが分からず、されるがままになる。
……はずみで、そう、はずみでそういうことになってしまった水遊びの帰りだった。
真っ裸だったあたし達はきちんと夏の衣を着て、黙って村への道を歩いていた。
そりゃそうだろう、あんなことがあったのにぺちゃくちゃしゃべっていられるほどあたし達は面の皮が厚くなかった。なんせまだ13かそこらだったんだから。
今日のこのことはあたし達だけの秘密にしよう。あたしは銀鹿のあれを見ていない。銀鹿もあたしのあれに口をつけたりしていない。
あたしは帰り道にそれだけを頭の中で繰り返す。
黙って道を歩いていた時、夏になれば漂ってくる強烈な匂いが森の小道まで漂いだした。ニオイバラだ。ちょうど見ごろの時期だった。
うわ臭ぇっ! と反射的に鼻をつまもうとした手が宙に浮いたままになる。意外なことにその時はそんなに臭くもなかった。むしろ甘くてふわっと、夢み心地になるようなにおいだと初めてそう感じる。
「燐火、どうしたのさぼーっとして」
ニオイバラの香りにあてられて立ち尽くすあたしを、先を歩く銀鹿が立ち止まってふりむく。
「別に……ニオイバラの匂い、変わったのかな。なんか臭くないんだけど」
時々土産でもらう、町の菓子屋が作ったお菓子の香料みたいに感じられた。あたしはその匂いを胸いっぱい吸い込む。
銀鹿もこの匂いにあてられたのか、バレたら間違いなく大人にぶん殴られることを提案する。
「ねえ、ニオイバラの野っぱらにいってみようか。きっと奇麗だよ。大丈夫、見るだけだし」
抵抗できるわけが無かった。あたしたちはふらふらと、ニオイバラの野っぱらへ向けて歩き出す。
夕焼けを浴びてたなびくニオイバラの野っぱらは、これ以上ないほど奇麗だった。あたしのそれまでの人生で見た景色の中では一番きれい。薄桃色の花びらを重ねた花がいくつもいくつも夏の風に揺れている。
あたし達は並んでそれをしばらく見ている。
見ているだけじゃ我慢できなくなったのは銀鹿が先だったらしい。
「……ねえ、燐火」
あたしの肩に身を寄せて、今までで一番心細そうな表情をする。
「あのさぁ、ねえ」
木の影にあたしをさそって、あたりを見回すと、おずおずと夏の衣のすそをゆっくりたくしあげた。あたしは目を瞠る。
「あ、あんたがもし嫌じゃなかったら……あたしがあんたにさっきやったのと同じことをその……」
さっきあたしに見られたばかりのそれをもう一度見せながら、小さく震えながら銀鹿は訴える。あたしに無理やり膝をわり開かれるのと、自分から服をめくってみせるのと恥ずかしさはわけが違う。
あたしはしばらく黙っていたた。さっきの仕返しをしたい気持ちがあった(ホーフクはホーフクを生むっつうやつだな)。
でも我慢できなくて、銀鹿に恥ずかしい恰好を強いたまままず唇を重ねて吸った。
「バカ、そっちじゃねえよ!」
じれた銀鹿が怒って涙目になった。
「仕返しだよ、さっきの」
さっきの猛烈に恥ずかしかったのを銀鹿にも味あわせたくて、銀鹿が鳴き声を上げるまであたしは銀鹿の唇を吸った。練習のつもりで舐った。
銀鹿がついにたっていられなくなってすとんとへたり込んだ時、あたしはようやくとろとろになっている銀鹿のそれに唇をつけた。
初めて見た時は怖かったそれが、今はすごくかわいく見えた。銀鹿の言った通りだ。
生々しいと思った肉の色も、今は何かの花びらみたいに見える。そうだニオイバラだ。ニオイバラの花びらによく似ている。
「…………」
ちょっとだけ寝るつもりだったのに、起きたら部屋の中はすっかり暗くなっていた。
ざざん、ざざん、と押し寄せる波の音が聞こえる。
ニオイバラの野っぱらの脇で銀鹿とああなったのが本当だったのか、異世界の南の海にいるのが本当なのか、急には判断がつかなくてあたしはぼんやりする。
唇に腕に、ありありと感じていた銀鹿がいないのが、嘘みたいだった。でもすぐに、よりにもよってあの思い出をよみがえらせてしまったことに、猛烈に恥ずかしくなる。
あああれは、あの日のニオイバラの野っぱらでの出来事は、永遠に蓋をしておくつもりだったのに!
思い出の壺の蓋を開けてしまったあたしのバカ、バカバカっ!
悔しいやら恥ずかしいやらで、あたしは二人分のベッドの上を盛大に転げまわった後、体を起こす。
寝台の脇の小さな机の上に、あのなんとかっていう宝石みたいな菓子の入った陶器の入れ物がある。昨日の晩と同じ位置にあった。
蓋がほんの少し開いていて、そこからあのニオイバラとよく似た匂いがかすかにこぼれて宙にただよっていた。
こいつの仕業か。
あたしは抱えていた枕をぽすぽす叩いて八つ当たりをする。
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