2. 人生の分岐点
温かい歓待を受けて入場ゲートをくぐった途端、森さんのテンションが頂点のその先にまで達したのが手に取るようにわかる。
「ウワア…………何から何まで夢すぎてこんなだったっけここ天国かな…私ほんとにここにいてもいいんですかね浮いてませんか?やっぱり、あっあそこ歩いてる!あの人だかりの中心見てください主任ほら歩いてるーわーわーかわいいーー!!はっ早くスマホスマホ!!」
「スマホといえば…まずはあの花壇で写真を撮りましょう」
「いやいや自分が写真とか!!そ、そういうのはもう少しレベルが上がってからじゃないと今の私じゃとても太刀打ち」
「充分足りてますよ、さあ」
「い、いやいやでもでも」
「せっかく勇気を出して入ったんですから、今日はとことん楽しみましょう?」
オフホワイトのカットソーに藤色のガウチョパンツ姿の彼女はこんなにも花壇の美しさに溶け込んでいるのに。かわいいのタガが外れてしまうのを恐れて、高校一年の遠足以来友達に誘われても入ることができなかったという憧れの地に、当たり前だが彼女は完全に馴染んでいた。だいたい僕のようなアラサー男が入ってもこれだけわくわくするんだし、きっと誰だってこうなる。仕方ない、彼女には荒療治がもっともっと必要だ。
「は……はい、でもひとりはちょっと!ひとりは間が持たないので主任も一緒でお願いします!!」
「いいんですか?ありがとうございます」
計らずとも一生の記念になりそうな画像が手に入ることになり、思わず僕も破顔した。同時にひとつだけ付け加える。
「――呼び名戻ってますよ、樹さん」
動きを止めた彼女は一瞬目を泳がせ……それから小さな声で答えてくれた。
「す、すみません………万尋さん」
「――今からムーンライトパスポートでインパしましょう」
突然の僕の提案に、目を丸くした森さんが最後のワッフルをごくりと音をたてて飲み込む。
「インパってつまり……でも主任、私達にはまだ夢の国突入は早いのでは…!?」
「ええ、でもいずれ必ず我々の目標となる場所です。せっかくここまで来たのですし、この時間から様子見という形で気軽に入ってみるのも良いのでは」
「へえ……今の時間からだと安くなるんですね、知りませんでした」
スマホの画面で確認しながら森さんが頷いてくれる。
「一生懸命乗り物に乗ったりするのは次回に回してもよいので、今回は散歩したりショーを見たり、雰囲気を楽しむのはどうでしょうか」
「そ、それは素晴らしいと思います!それならこう…満喫しなきゃっていうハードルも下がります」
「普段なら17時過ぎには帰宅を視野に入れて動き始めていますが、今日は時間は大丈夫ですか?」
「はい、そういうことであれば家族に連絡を入れますので問題ありません」
森さんは間髪入れずにスマホを操る。会話内容はもはや仕事のプレゼンの呈を成してきたが、僕はそのままさらに話を進める。
「少し早めの時間に食事を終えて、日が落ちる頃に城の近くを歩きたいです」
「いいですね…!ライトアップとかされてそうで」
「――周囲に人が少ない場所が確保できれば、そこで改めてお付き合いしたいともう一度告白します」
「………えっ」
「現状維持であれば、ご実家にお土産を購入したのちパレードを見て帰宅。良いお返事をもらえた場合は、お土産購入と共に森さんに指環等のアクセサリーを贈らせて頂きたいと考えています」
「……………………………」
「いかがでしょうか」
森さんは顔を真っ赤にして押し黙る。
これが僕の出した結論だった。結局のところ――この人にこれ以上近づきたいと思うなら、下心を含めた何もかもをさらけ出した上で正々堂々と愛を請うしかない。森さん相手に駆け引きをしようとするほど愚かなことはない、僕は森さんが森さんのまま居られることを何より望んでいるのだし、彼女をなんらかの形で利用しようとする人達からうまくバランスを取る役をこそ負いたいと思っているのだから。それを今まで通りお兄さんが務めて事が足りるというなら僕は必要ない、その時は潔く諦めよう。
長いような短いような時間が過ぎ、再び顔を上げた森さんは……凛としてとても美しかった。
「……主任、」
「はい」
「まずは、ご配慮ありがとうございます。恋愛に疎い自分に歩調を合わせてくださる主任は、本当に信頼できる方だと思います」
「ありがとう。…どうでしょう、実行可能だと…思われますか?」
「…とても素敵なプランだと思います」
はっきりと森さんはそう口にした。
それは事実上の許可に他ならないと、彼女も僕もわかっている上での返答だった。デートを重ねた男女の会話としては随分と変わった形態を取っているのかもしれないが、僕たちはこれで充分に意思の疎通が取れているし、それが何より重要だった。
そうは思いながらも、できるだけスマートに振る舞っているつもりの自分が掌に汗をかいていることに気付いて、僕はやっと苦笑することができた。
「それから…このプランを実行に移すにあたって、ひとつだけお願いがあるのですが」
「は、はい、私にできることであれば」
「社外では役職名で呼ばないで頂けると、嬉しいです」
「あ、それはそうですね、すみません!!気付か、なくて……………」
慌てて詫びた森さんが一転、突如見たこともないような憂いを顔に浮かべる。
「あの……ですね。そうなりますと、こちらからもひとつお願いがありまして」
「?はい、なんなりと」
「できればなんですが……名字ではなく、下のお名前でお呼びしても大丈夫ですか?」
「えっ?」
それは予想外すぎる提案で、まさか森さん側からこんな形で距離を縮めてくれるとは…僕は急いで了承する。
「勿論です、とても…嬉しいです」
「はい、では、お名前伺えますか?」
「まひろ、といいます。数字の万に、尋ねると書きます」
「わ、素敵なお名前ですね!初めて聞きました」
「母が付けてくれたそうで、とても大きいとか多いとか、そういった意味のようです。父が言うには、病弱な自分では子供をひとりしか望めないことを知っていて、『たくさん』を意味する名前を挙げていたんだとか」
「………とても素敵です。本当に素晴らしいです。理想の上を行くお話です。主任は本当にお母様に愛されていらしたんですね」
…気のせいだろうか、名前に関する話題になった途端森さんの語尾が不思議なほど力強い。けれど、まずは早速のミスを指摘させてもらうことにする。
「森さん?」
「あ、……万尋さん、は」
「ありがとうございます。では、これからは僕も名前で呼びますね」
「えっ?あ、え、はい、そうなりますね…?」
「?樹さんとお呼びしても大丈夫ですか?」
「は、はい、なんだか気恥ずかしいですが…」
森さん改め樹さんは僕の返答に素直に照れていて、まるで自分だけが僕を名前で呼ぼうとしていてその逆には思い至らなかった…という呈にさえ見える。そんなにも僕の名前が気に入ってくれたということならとても嬉しいが、それとも…ここまでで何か他の理由でもあっただろうか?
「……あの、実はあとひとつ、お聞きしておきたいことがあります」
「あ、はい?」
よそ事を考えていた僕に、またも力強い声で樹さんの質問が降りかかる。
「主に…えっと万尋さんは、自然は……お好きですか?」
「自然、というと…?」
「そうですね、主に登山とかハイキングとか、山系のご趣味について伺えたらと思いまして」
僕は即答できなかった。これまで、かわいいもの系とクマ以外の話をこんなに掘り下げられたことはなく、どう答えたら正解なのかがさっぱりわからない。けれど樹さんの表情は真剣そのもので…これはやはり一緒に行きたいということなんだろうか?ご家族全員登山が趣味とか…?
――いやだめだ、この人とは駆け引きをしないと決めている。
「…山や海は風景としては好きですが、アウトドアな趣味は特にないですね」
「そ、そうですか…よかった!!!」
食い気味に大きな返事が返り、樹さんは何故か今日一番の笑顔を見せてくれる。
『よかった』ということは…僕は、正解した……のだろうか?
――それが自分の未来を大きく左右する一言だったことを僕が知るのは、また随分と先の話だ。
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