3. 諒解
俺も先輩も声を出さなかった。
尾けられている万一の可能性に備えて念には念を入れ、真っ直ぐ駅には向かわずにいくつかの通りをランダムに曲がる。もし仲間が居たりするようなら義を呼ぶことも考えたが、どうやら見た目そのままの酔っ払ったサラリーマンだったようで、妙な気配や殺気を感じることはなかった。
「…もう大丈夫だと思います」
歩調を緩めてそう口に出した頃、遠間に駅前の大通りが見えてくる。神経を張り詰めて索敵しつつしばらく路地を歩き回っていた身からすると、それはとても明るく安全に映った。
――あそこまで出たら、今日という日はもう終わる。
そう思った時、繋げた手の先から小さな声が聞こえた。
「あの、………ごめんなさい」
足を止めて振り返る。小さな唇を噛みしめた先輩は、まだ握り締めたままだったハンカチを再び俺の肩に当てた。今日という日の最後にこんな顔をさせてしまったことを詫びたいのはこちらのほうだったが、言えばきっと苦しめる。
「いえ、先輩が謝るようなことは何ひとつ」
「ううん、私が余計な事言ったから………」
「先輩は俺の代わりに戦ってくれました」
細い首が力なく振られる。
「玉城くんは穏便にスルーしようと頑張ってくれてた、のに、……危ない目に遭わせて…っ」
両目の端に宝石のように光る雫がみるみる溜まっていく。
俺は限界を悟った。
ハンカチを握ったままの手首を掴んで引き寄せ、一回り小さな身体を丸ごと腕の中に納める。
思った通り温かく柔らかな身体は、まだ小刻みに震えていた。
「………え?」
呆然とした一言が腕の中から小さく聞こえる。歩き回ったせいか、少し乱れていた先輩の髪を撫でて整えると髪の中に白い耳がのぞき、俺はそこに口を寄せると噛んで含めるように呟いた。
「俺は平気です。怖い思いをさせてしまいました」
「ち、違うよ…元はといえば、私が声を掛けられて」
「それこそただの不幸な偶然で、先輩は何も悪くない」
「…でも………」
「あの男性も大丈夫ですよ。一時的に大人しくしてもらっただけで、今頃は元気に飲み直していると思います」
その言葉を聞いた先輩の身体から少しだけ力が抜けたのがわかって、俺はふいに涙腺が緩みそうになるのを堪えた。この期に及んでこの人は、自分をこんな目に遭わせた男の心配さえしていたのだ。
どうか、どうか安心してほしい――俺はありったけの思いを込めながら、震える肩をやんわりと抱き締めた。
「全て終わったことです。もう何も心配要りません。前に先輩が俺に言ってくれたんですよ、『自分を許してあげてくれ』って」
微かに息を呑む音が聞こえた。
「…………ありがと……」
しゃくり上げる声に混じって温かい言葉が落ちた。大通り近くの路地の片隅で、俺は先輩を抱き締めたまま震えが収まるのを待っていた。
事実、先輩に礼を言ってもらうようなことは俺は何もしていない。せっかくの夕食の会話を忘れ、降りかかった火の粉を払い、以前自分がもらった言葉を返しただけだ。男に手を出されたにしても、この程度であれば気にも留めないレベルの出来事だ。
――だが先輩は違う。自分より確実に大きく強い相手に向かって、この人はあんなにも震えながら俺を庇ってくれた。
改めて思うだけで胸の奥に熱さを覚える。この人は俺などよりとても強く勇気ある人で、けれど同時にこうやって涙を見せる普通の女性でもある。魅力的な女性だというだけで、先輩は常に今回のような事案にさらされる危険と隣り合わせで生きていて、きっと男である俺には想像も出来ないような苦労がたくさんあるのだと思う。今回は偶々俺が居る時に起きたから、この手で守ることができたというだけだ。もし俺がいなければ――
もし、俺がいなければ。
「アキラ先輩、」
腕の拘束を解くと、先輩がゆっくりと顔を上げる。
覚悟を決めた俺の目が、涙に濡れた瞳を至近距離からはっきりと捉えた。
「――先輩さえ良ければ、俺に貴女を守らせてくれませんか?」
そんな恐ろしい可能性は二度と考えたくない。
これからもずっと、強くて弱いこの人を俺の手で守る。
俺はこの人が好きだ。
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