2. 不慮
「今日は本当にご馳走様でした…!」
気付けば、店の前でアキラ先輩が俺に頭を下げていた。
多分、とんでもないですとかお詫びですのでとかそういうような返しをしたと思うが、すでに周りの音どころか自分の声もうまく耳に入ってこない。食前酒を一杯しか入れていないのに、締め技で落ちた後かと思うほどずっと足元がフワフワと浮き続けているのもおかしい。駅に向かって先輩の隣を歩きつつ、何故かなかなか目線を合わせることのできない自分に自分でかなり引いていた。
なんというか、…もう今日はだめだ。
「――玉城くん?」
「っ、はい!」
呼ばれて我に返る。
「…なんか、今日は体調悪そげじゃない?疲れてるところ無理してたりする?」
「とんでもないです、…なんというか少し…雰囲気に慣れていなかったというか」
「なるほど、お知り合いに紹介してもらったお店だって言ってたよね」
「あ、そうなんです。…お気に召しましたか?」
「もちろん!めっちゃ小洒落ハウスだったね…!」
既にそのあたりのことが話題に出ていたのを今知る、というか本当に店内の会話の記憶が不安になるほど抜けている…どれだけ緊張していたのか知らないが、失態を犯していないことを祈るしかない。
なんとか食事の約束は取り付けたものの、『職場の女性の先輩にお詫びとして夕飯をご馳走する店』という引き出しが自分のどこを探しても見当たらず、同部署いちスマートな先輩に相談させてもらうと、すぐに予約を取るようにといくつかの店名を挙げてもらえた。そのうちのひとつで今日の予約が取れたのがこの店だ。ネットで見た通り、白壁とウォールナット材の落ち着いたインテリアが家庭的な雰囲気の、それでいて奢られる側が恐縮しない程度の価格設定で、且つ会社から一駅で徒歩圏内の…つまり今日の目的に完璧に沿った店だった。斎藤先輩には感謝しかない。
「もちろんメインもおいしかったんだけど、個人的には前菜の最後に出てきたスペアリブ的なやつが本日のMVPかなーと」
「あれは良かったですね、少し酸味のある味付けで」
「ねーなんだろね、バルサミコ酢とか…?」
「お詳しいんですね…先輩は料理がお得意なのでしょうか」
「いやバルサミコって言ってみたかっただけで特に料理は上手くないですごめんなさい!語感が玄人っぽかったので!!あっ、あとデザートプレートの…」
先輩はくるくると表情を変えながら楽しそうに話してくれる。味覚に関してはなんとか思い出せるのが幸いだった…料理の話題は問題なく応答できる。秋の夜の冷たい風に当てられて、ようやく頭が少しまともに働き始めてくれたのかもしれない。
駅までの距離はそんなにないものの、大通りから外れた所に位置した個人店だったので、人通りは少なく道は緑地帯が多いためか少々薄暗い。すでに21時を回っていたが明日は休日で先輩も特に用事はないとのこと、我々の歩調は別段急ぐわけでもなくゆったりとしていた。加えて格別な満腹。散歩を楽しんでいるような気さえしてくる、穏やかな夜の時間。
…それでもやはり、今日のアキラ先輩を視界に入れるのはとても難しい。
元々業務的にあまり社内で関わりはなく、最近はこちらの仕事が立て込んでいたので顔を合わせるのは久方ぶりだった。あの夜勤日以前から何度か面識自体はあり、『魅力的な外見を持つ女性社員のうちのひとり』だという印象は持っていたが…それよりももっと美しい内面を知ってしまったせいなんだろうか。あまりアルコールに強くないのか、少しだけ赤みを増した頬が妙に映えて見えるし、肩下ほどの長さの髪が風に揺れるとふわりと石鹸のような香りが鼻腔をくすぐる…そんな些細なことばかりがやけに気に掛かって胸中がざわついている。
何かがおかしかった。俺が先輩に向けている感情は謝意と尊敬であり、今日はそのためにやっと設けたささやかな礼の席だったはずなのに、何故ここまで自分のコンディションが平常時と異なっているのかの説明がつかない。心当たりがあるとすればアルコールだが、経験済の種類と量でしかなかった。原因不明の非常状態は、常に自らを客観的な監視下に置くことを是とする武術家の端くれとして、まったく奇妙で落ち着かない。
どうした自分。大丈夫か自分。いったい何がそんなに―――
「…ン?お姉さん、すっごく俺のタイプだなぁ」
突如心臓が口から出たかと思うほどの衝撃が俺を襲う。今のは耳から聞こえた…んだろうか?
「そ、そりゃどーも…??」
すれ違いざまに突然話しかけてきたのは、どこからどう見ても酔っ払った中年男性二人組だった――年齢40代と30代、160cm後半中肉中背と170cm前半筋肉質、歩法からみて格闘技経験なしと、もうひとりは…空手、だろうか。顔より先に相手の体格と技量を測ってしまうのはもはや癖だ。
「この後二軒目なんだけど、一緒にどう?ここのちょっと先んとこの知り合いの店でさ、」
体格がいい方の30代空手男が熱心に先輩に話しかけてくる。いわゆる花金であるせいか、体幹の不安定さからして、2人ともこの時間だというのにかなり酔っている。そのせいでの不注意ならまだいいが、俺が横に居るのをわかった上で誘っているなら随分と空気の読めない大人だ。警戒レベルを上げてすぐに先輩の隣に寄る。
「えと、その、連れがおりまして…」
立ち位置が悪かったのか本当に見えていなかったようで、男性二人が俺に気付いて表情を変える。が、驚きの表情の後、空手男の目元が見る間に歪んで先輩を追ったのが俺にははっきりと見えていた。舌打ちと共に苦い声が漏れる。
「んだよ男連れかよ…騙されちまった」
誰も騙してなどいない、とおそらく俺と先輩は同時に思っただろうが、2人ともわざわざそれを声に出して相手を刺激する愚を犯さなかった。もうひとりの男は行こうぜ、と連れを促して踵を返しかけていて、これで夜中の奇妙なエンカウントは終了するはずだった。
――それを聞き流した空手男が先輩に顔を向けて鋭く動くのを察知し、俺は瞬時に先輩の腕を強く後方に引きざま前に出る。
「わわっ…?」
右肩に不快な音と湿度。
唾を吐いた男は、不機嫌さを隠そうともしない表情で俺を見下していた。
――俺の肩に付くということは先輩の顔を狙ったということか。
一瞬のうちに怒りが沸点に達する、が直後に脳内が冷え切り、意識が身体の隅々まで余すところなく巡る。組手前のいつもの感覚が訪れ、俺の身体は自動的に臨戦態勢に入っていた。
が、こちらから動く気は全くない。
これで相手の気が済み、これ以上何も仕掛けてこないのであればそれでいい。今最も重要なのは『先輩が無事であること』だ。
腕に覚えのある男の半端なプライドというのは愚かなもので、ひとたび荒事となればその場で終わるとは限らない。仮にこちらも手を出し屈服させたとして、もし明日になってもこの男の記憶が残っていた場合、俺への報復が先輩に向かう可能性がある。なんとしてもそれだけは絶対に避けなくてはならないし、その為には例えばこの場で数発程度殴られても全く構わない。相手はだいぶ酔っているのだし、良い気分のまま全てを忘れてもらうのが得策だ。
「た、たまきくん…………」
諸々を見せないためにも背後に庇ったはずの先輩は、しかし事態を正確に把握してしまったようだった。ごそごそと音が聞こえると、俺の右肩に柔らかい布の感触が当てられる。先輩の持ち物でこの汚れを拭くのはとても勿体ないと思ってしまう自分が可笑しい、が表情には出さずにおく。
「俺は大丈夫です」
「なんだ、女の前だっつーのに言い返してもこねーのかお前。クソだな」
少しでも安心させようと小さく口にした言葉を即座に野次られる。かなり粘着質の男だ。それでも敢えて黙っていると、男はつまらなそうな顔で再び舌打ちすると一歩こちらに――
「ち…違います!この人ほんとはすっごく強いけど、武士は死合い以外で刀を抜かぬものなので…!」
背後から、大きくはないがはっきりとした声が聞こえた。
敵を眼前にあってはならないことだが、俺は一瞬だけ目線をそちらに向けてしまった。この暗闇でもわかるほど顔を真っ青にした先輩は、ハンカチを握り締めながら震えていた。
―――俺の名誉のために。
「は?このチビが?そりゃかなり意外――――」
その義憤の尊さに打たれて思考が止まったのは数瞬で、薄ら笑いを浮かべた男が改めてこちらに一歩踏み出す前に俺の身体は動いていた。すれ違いざまにこちらから一歩踏み出すと左手を目立たないよう男の胸に添わせて伸ばし、耳下辺りの頸動脈を中指と親指で左右同時に圧迫する。
「…ぁ…??」
頑強そうな男とはいえ酔っているため加減が難しいが、数秒でとりあえず意識を朦朧とさせるのに成功する。完全に落とすと場合によっては危険が伴うので、この程度を狙うのが最も理想だろう。
「あれ?大丈夫ですか」
先に行きかけていたもうひとりの男に聞こえるよう、わざと大きめの声を出す。
「ん、どしたぁナガタ…?」
千鳥足気味に戻ってきた男に、俺はさりげなく支えていた大柄な身体を寄りかからせた。
「………んん………」
「お連れの気分が悪くなってしまったようですね。少し休んでいかれたほうがいい」
2人の体格差からして、ナガタと呼ばれた男の意識がはっきりするまでは動きたくても動けないだろう。あとは…できるだけ記憶が抜けてくれることを願うしかない。
「おお~いナガタぁ、聞こえるかぁ…っとと、重いなぁお前」
「失礼します」
塀によりかかってなんとか立っているのが精一杯な状態の男たちを残し、俺は先輩の手を引いて即座にその場を立ち去った。
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