4. 許可
会社から電車で30分、最寄り駅から徒歩12分、国道から一本裏に入って橋を渡った先の公園、そこから見下ろす3階建て6部屋のマンション2階東側の部屋。
窓からはカーテン越しに明かりが漏れていたが、俺が見張っているのは勿論窓の中ではなく玄関とマンションの出入り口、それに続く道路の3点だった。あの部屋に先輩を送り届けて5分ほど経つが、住みやすそうなよい街で、マンション付近に不審な人影が潜みやすそうな場所も少ない。この分ならとりあえず心配は無用に終わりそうだ。
別れ際に独り暮らしだと聞いた瞬間から、なんと言われようと必ず玄関まで送っていくと主張しここまで強引に付いてきた。迷惑がられても嫌われてもいい、あのようなことが起き、あれだけのショックとダメージを受けたばかりの先輩をひとりで帰すことなど絶対にできなかった。お詫びの食事会でさえなかなか首を縦に振ってくれなかった先輩は、案の定俺の帰りが遅くなるからと強硬に反対したが、最後には折れてくれた。守らせてほしい、という俺の願いに『ではご負担にならない程度でしたら謹んでお受け致します』という丁寧な返答をしてくれたばかりだったのも効いていただろう。以降気まずい空気になることもなく、電車内で言葉を交わすうちに少しずつ元の笑顔が戻り、下車する頃には震えも治まっていたのはこの目で確認済みだ。
玄関では…予想通りというか、『せっかくご足労頂いたので上がってお茶でも』という趣旨の言葉を頂戴したが当然固辞した。今夜俺自身の心は明確になったが、先輩の気持ちを確かめないままこれ以上距離を縮めることはできず、それを確かめる日は今日でないことだけは確かだった。怖い思いをした時偶然傍に居た男が美化されて感じられるのは心理的に当然であるし、そもそも先輩に既に意中の男性、ないしは恋人がいる可能性すら否定できていないのだ。安心させたいという思いだけが先行した結果抱き締めるという行動に出てしまった、それ自体は目的を完遂したので後悔はないが、流石にこれ以上の出過ぎた言動は慎みたかったし、普通に嫌われかねない。
ただ…………懸命に忘れようとしても忘れられない先程のやりとりが再び脳裏に鮮明に蘇り、頭を振った拍子にバランスを崩しかけた俺は鞄を取り落としそうになる。
「それでは、少し周辺の様子を見てから帰ります」
「な、なんとそこまでしなくとも…!?」
「俺が安心しておきたいだけです。戸締まりはしっかりお願いします、では…」
「あっ、あのさ、色々あったけど……今日はありがとね」
「はい、こちらこそありがとうございました」
先輩の挙動がどこかよそよそしくなったのを感じた俺は、できるだけ室内を見ないよう視線を下方に逸らしながら同意する。招かれざる時間の招かれざる客がどれだけ迷惑かは、連日の夜襲で身を以て知っているつもりだった。まして嫁入り前の女性の居室である。可能な限り迅速にその場を離れようとする俺に、先輩は再び意外な声を掛けた。
「…えと、ひとつだけいい?」
「はい」
「前から言おう言おうとは思ってたんだけど…」
「は、はい」
「あのさ、私……実はヤマモトアキラといいまして」
「…………………えっ?」
ぴたりと目が合って半瞬後、自分の顔が一気に熱を持ったのを自覚する。それはつまり……今日までずっと、俺は馴れ馴れしく、下の名前で、先輩を呼んでいた、ということに、なるのでは……ないだろうか。しかも公然と。とても珍しい名字だと思っていたが、とても格好いい名前だったというわけで、確かに女性名としても使われると今更理解しても時既に遅く、表札は掛かっていなかったし、ああそうじゃない少し落ち着け、
「本のほうの山本に、日がみっつの晶って書くんだけど」
「あ、はい、とても素敵な………いえその前に、あの、大変な失礼を」
どうしたらいい、何を言えばいい、あり得ないほどの大失態を知り完全に真っ白になっていた頭に――先輩の声だけが響いた。
「ううん、それでその、良かったら……そのまま間違えてて大丈夫、なので」
「………え、」
無礼を許してくれたというのはすぐに理解した。が、これは…どういうことなのだろう、わざわざ指摘した上で許可してくれたということは、それ以上の意味が含まれていると……期待しても、許されるのだろうか。いや、だが先輩は何よりも誰かのフォローに心砕く方だ、というかそれより何より俺はとにかく今すぐ帰った方がいい、長い時間女性の独り暮らしの玄関が開け放されているのでは付いてきただけ逆効果だ!
「は、はい、ありがとうございます、では今日はこれで」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ひとつ頭を下げると、俺は一歩下がって退室し即座にドアを閉めた。不自然にならない程度に足音を消しながら階段を下る途中で施錠の音を耳に入れ、黙って早足で公園に取って返し、通行人の有無を確認すると手近な木の幹を蹴り上がって頭上の枝に手を掛け、鞄を抱えたまま片手懸垂の要領で身体を持ち上げ―――今に至る。
樹上に身を隠したのは勿論、道端よりも遥かに俺自身が不審人物として通報されるのを防げるからだったが、…どちらにせよこんな情けない顔のままで電車に乗り込めるはずもない。物騒な昨今、脅威は先程の男達だけではないと思い付いてきたものの当座危険はなさそうだと判断したのだし、いい加減こんな所で七転八倒しながら回顧を繰り返すのはやめて帰宅しなければ、と何度目かに考えた時だった。
件の窓が開き、カーテンの合間からひょこりと頭が覗いた。方向からすると恐らく月を眺めて、柔らかな笑みを浮かべている…ように思えた。先輩はそのまま手を伸ばすと雨戸を引き、部屋から漏れていた明かりは完全に遮断された。
先輩に不安げな素振りはなく――これで憂いはないと心から安堵し、俺はようやく完全に緊張を解くことができた。枝を蹴って2mほど垂直落下し着地すると、駅への道を戻り始める。
『そのまま間違えていて大丈夫』、そう言った時の先輩は、いつもと同じ笑顔だった。
ファーストネームを呼び続ける許可を頂けたということは、少なくとも――望みを絶たれるほどに嫌われてはいない、はずだろう。
今の俺には、その2つだけ理解できれば十分だ。
晶先輩、ゆっくりお寝み下さい。願わくばどうか良い夢を。
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