3. 部活
小学校の頃から勉強はできる方だった。
別に鼻にかけたりしたつもりもなかったのに、中でも理数系の点数が伸びていくのに比例して、私たちいつもみんな一緒だもんね系女子たちの当たりがキツくなるのは、現代日本では超スタンダードすぎる現象だろう。うちの姉と妹も例外じゃなかった…というか、まあ小さい頃から読書が大好きなのは三姉妹の中で私だけだったってだけで、同じ環境で育ったんだから責められるいわれもないと思うんだけど。これでも思春期の頃には割と『私は生きてるだけで誰かの気に障るの?』とか真剣に悩んだりして、今でも表情筋は笑顔がデフォルト表示なのはその頃の名残だったりする。
そんなかんじで、若干クサめにいえば、自分らしく居られる場所を求めて私は大学進学を捨て、さっさと金が稼げて&手に職が付いて&自立できそうな経理系専門学校を卒業して家を出た。なのに…まさか働く場所でしかないはずの会社で親友ができるなんて思ってもみなかった。しかも2人も。
――けど、そんな仲でも分かち合えないものはある。
そ
れ
が
酒
だ
。
遡ること2年半、ハタチを過ぎたその日に初めて飲んだビールの味は決して忘れない。冷たさと苦みと爽快感が一気に口の中で弾けた後からほんの少しの甘さがじんわりと…ああもう酒は絶対正義でこの世の真理私多分酒に関するテンションだけなら晶に負けない自信がある。こんなにアルコールが美味しいものだと知ってたら確実に理系大学進んで今頃酵母の研究とかして毎日酒および酒の原料にまみれてたかった、けど今となっては仕方ないので飲む。飲むしかない。こんな私が愛しい酒のためにできることはもう、生活を壊さず身を持ち崩さない程度に少しでも多く飲んであげることだけだ。
そんなわけで、サワー数杯程度しか飲めない晶と、一口で顔色がリトマス試験紙みたいになる樹は、私の毎週火曜のひとり飲み歩きを『利津の部活』と呼んでいる。なぜ火曜なのかと問われれば理由は3つ。
①週初めの2日目で仕事が溜まっていないことが多く残業の可能性も低い。
②①に加え飲み屋が混み合う金・出社のない土日を抜いた火水木のうち比較的お店がどこも空いていることが多い。
③会社近隣の駅ではレディースデーを実施している店舗が多い(私調べ)。
つまり少しでも早く安く多く静かに心ゆくまで酒を楽しみたいというただそれだけ。こればっかりは晶も樹も共有できないので常にひとり、というか気の合わない人間と一緒に行くのはもう心から懲りた。何故なら――飲み屋に行く理由は人それぞれだろうしそれをけなす気はない、ただ私は愚痴大会に参加したいんじゃない。SNS映えする写真を撮りに行く気もなければナンパ待ちしたいわけでもない――酒を、飲みに、行くのだ。酒を楽しむ以外の要因はできるだけ排除した上で真正面から臨むのが酒に対する私の礼儀…って我ながら若干ストイックすぎる気もする。でも酒だから仕方ないし、何回連呼しても酒だけは決してゲシュタルト崩壊しない。何故なら酒だから。…うんやっぱり半分哲学的次元に到達してるかもしれないこれ。
酒は宇宙だし、旨い酒の前に全ては平等なので、店は場末の赤ちょうちんからオシャンティーなバーまで、酒もチューハイからウヰスキーまでどれでもなんでもバッチこい。『21時半または4000円まで』のマイルールさえ守ればあとは全て自由だ。
いつものことながら、火曜の退勤時は地面に足が付いてる感覚がない。多分よくよく見てもらえれば1cm程度は浮いてるので今なら電車とホームの隙間に絶対落ちない自信があると思いつつ、そこそこ混んだ火曜の退勤電車に無事乗車成功する。
今日向かっているのは同じ部署の先輩女子が最近入ったお店で、会社から2駅のバーだった。勿論社内で私はあまりお酒は得意じゃない設定で通しているため、その他大勢のうちのひとりとして耳に入れた上でへえ~そうなんですね機会あったら行ってみます的返答までの完璧な対応済みだ。彼女は最近出来た彼ピのノロケ話を聞いてくれる人材を常に大募集している状態、この先いつかお供する可能性があるにせよ今日は…今日ではない…!すみません就業中に聞くので!
行きつけの店もいくつかあるけど、やはり新しい酒との出会いは必須。お店の新規開拓にあたって、実は私が一番頼りにしているのが『酒好きな知り合いからのクチコミ』だ。やっぱりネットで顔も知らない人が書いたものより信憑性があるし、もし店の雰囲気が合わなかったとしても味は確かな場合がほとんど。今日の店は従業員が全員外人の本格的なバーらしく、英語がダメな日本人には敷居が高そう…と思わせて実はイケメン店員目当ての女性客がそれなりに入るらしいが私の狙いは当然酒。けっこう飲み好きな先輩をして『見たこともない外国のお酒がカウンター奥いっぱいに並んでた』と言わしめるその光景を是非見てみたいというか見る、そして飲んでみたいというか飲む。
快速の止まらないこの駅に降りるのは初めてだ。スマホ片手にウロウロすること15分、駅からそう遠くない辺り、いくつか並んだお店の間に、大きな木の扉に打ち付けられた『Maybe yes,』の金文字を無事発見。この先に、きっとまだ見たことも飲んだこともない舶来の酒が私を待っている…今行くね!!!
太い枝でできた取っ手を押すと、重い音を立てて暗闇が割れた。
足元の小さなライトを頼りに短い階段を下り終わると……間接照明で照らされた店内に静かなジャズが流れ、料理を運んでいた亜麻色の髪のボーイが来店に気付くと、ニコリと笑んで会釈を残していった。全て形が異なるいくつかのテーブルでは、女性のペアが1組、男性の方が外人のカップルが1組、談笑しながら互いに変わった形の杯を交わしている。
本格的なバーと聞いてなんとなく想像していた賑わうブリティッシュパブ…というより、店内は落ち着いた瀟洒な雰囲気で満たされていて、先輩がパブじゃなくバーだと言った理由がわかる。確かにつまみをモリモリ食べつつモリモリ飲むのとはまた違う、ゆっくり酒を楽しむタイプの店だ。……うん、ファーストインプレッションとしては嫌いじゃないけど、いわゆる『女のおひとりさま』には合わない店も多い、まだ油断はできない。
連れのいない私はテーブル席を避け、背の高いスツールが並んだ奥のカウンターにまっすぐ進む。まだ混むには早すぎる時間だからか、または火曜パワーの本領発揮か、バーテンダーは明るい金髪の青年がひとりきりで、隅の女性客とマンツーマンで話をしていた。私、もとい新たな客が近づくと女性はすぐにこちらに気付き、何事かを囁いて席を立つ。その拍子に、腰に届きそうなほどのストレートの髪が飲み終わったグラスに近づいて――
――その髪を、バーテンの骨張った手の甲がさらりと避けた。
した方もされた方も、その何気ない動作があまりにも自然で違和感がなかったから、私じゃなくてもきっと一目で2人は近しい関係なんだと気付いたと思う。これは果たして見てよかったものなのか判断の付かないまま、私はとりあえず歩く速度を落としてみた。が、そんな気遣いもむなしく、財布を出そうとする女性を止めてるっぽい光景を続けて目撃してしまうがこれも回避しようがない。結局お金を払わせてもらえなかった女性がカウンターを離れるころ、それを見送る針金みたいな体型のバーテンがようやくこちらを見るなり明らかに身体を硬直させたけど、まあ状況も状況なので私が女性と入れ違いに席に着くことになる。個人的なお客さんに夢中すぎでしょ。
「Herzliches Willkommen,」
流暢な独語、かな?暗めの照明と前髪のせいでキツネ目の瞳の色はよく見えないけど、言語と総合して考えると金髪碧眼のゲルマン人、ということらしい。先程の動揺はどこへやら、一瞬で持ち直すとサワヤカな笑顔を見せつつ英字のメニューを差し出してくる。マイセオリーとしては『最初にメニューを出してくる店では一番始めに書いてあるものを注文する』。それがその店の主力商品であることが多いから、ラインナップ全体のレベルや方向性を推し量るのに向いている。この店の場合は――
「エールで」
「Welchen willst du?」
「この一番上ので。黒?」
「Nein,Gefallt es dir nicht?」
「大丈夫だと思う」
「Warte eine Minute,」
先方に日本語対応するつもりはなさそうだったが当方も異国語対応するつもりはなく、身振りも交えたフィーリングで注文は滞りなく終了、私はコートを脱ぐ。バーテンはすぐにカウンター上に逆さに吊してある背の高いグラスを細くて長い腕でひとつ抜き出す。話に聞いていたカウンター奥の酒たちに加え、テーブルと同じくスツールもグラスも同じものがひとつもなくて、それがお仕着せでない多国籍感を醸し出している。いい意味で裏切られたというか、イケメン外国人をウリにして客を集めてるような印象はまったくなくて、多分順序が逆だ。それぞれの国の酒に詳しい従業員を集めた結果こうなったんじゃないかな。洒脱でいい店だと思う。
「――で、このお店は斎藤の実家?」
「んなわきゃねーだろ!!……………ハッッツツ!!!!!」
いつものノリで思わずツッコんでしまった男が即口を押さえる、けどもう遅い。なんというか、ここまで追い詰められた人間の顔を見るのは人生で初めてだ。
「はい、つまりあんたは間違いなく斎藤で、私はダブルワークの現場を押さえたわけね」
「お、お、おま…………」
目の前の金髪バーテン=斎藤の顔が、この照明度合いでもわかるくらいに真っ青になる。
実際ほんとにうまく化けてたと思う。顔と眉を隠す前髪長めの金髪ウルフカット(多分カツラ)にアイスブルーの瞳(多分カラコン)、はびっくりするほど違和感ゼロで似合ってたし、細身にピシッと黒いカマーベストと蝶タイを合わせたところは、パッと見昔の少女漫画に出てきがちな異国の王子様にしか見えない。まあ下半身にはギャルソンエプロン付けてるだろうし王子は無理あるかな。
「た、たのむ…会社には」
「だよね、よりによって経理にバレるのはね」
ただでさえ青かった斎藤がもうこれ以上は無理なんじゃってくらいに青くなった。人事の次に身バレ避けしたい部署だったろうに、たまたまシフト運が良かったのか、ここを紹介してくれた先輩襲来時にはよくバレなかったもんだ。でもさすがに、目の前のカウンターに座った同期はごまかせなかったね。
それにしても、顔面出す業務は誰かに勘づかれたら言い逃れできないし、会社からもちょっと近すぎるし、ダブルワークするならするでもっと慎重にやれたんじゃないかと思うんだけど。要領はすごくいい男だと思ってたので、なんとなく違和感がぬぐえない。
「そこを、なんとか……ならないか」
「そうね、じゃあとりあえず理由を聞かせて」
「とりあえずって……理由言ってもチクる可能性あるってことじゃねーか!」
「だって状況的に私が圧倒的有利なのになんでわざわざ引き換え条件なんて出す必要があるの?」
「ぐう正論すぎる…………言うしかないのか」
「年末調整前にリークされたくなければね」
「うぐっ………」
もはや瀕死と思われた斎藤は……やがて覚悟を決めたのか、空のグラスを机に置いて、ようやく正面から私と青い目を合わせた。
「……さっきここにすげーかわいい女いたろ?」
「うん」
まあそこでしょうね。ぶっちゃけさっきのアレを見てしまえば大方予想はつく。斎藤は技術職で宿直も主力として任されてたくらいなんだし、給与は同期内でも上の方なはず。それでも危険を承知でダブルワークに踏み切るってことは女に貢いでるのか、それとも借金ありで貢がせてるのか、どっちにしろロクなもんじゃ――
「――妹なんだ。今二十歳。今年の後期の授業料、大学に待ってもらってる」
「…………え?」
それは完全に予想外の言葉だった。頭がついていかない。
「うち数年前に両親揃って事故死しててな、俺が出してる。学校側も事情知ってるから、納期は特別待遇で見逃してもらってんだ」
「…………………そう、なんだ」
横から頭を殴られたみたいなショックだけがあった。誰にだって起こらないとは限らない、でも考えてみたこともなかったような状況が現実に起こっている、とテーブルを拭きながら目の前の男が言っている。真っ白になりかけた頭の中にかろうじて常識的な言葉を探せて、私はなんとか口を開いた。
「……大学なら、奨学金が」
「誤解すんなよ。あいつはめちゃくちゃ頭いいんだ、3つ併行して満額キッチリもらってる。けど学校が学校だし、学部が学部なもんだから」
「………そっちか」
「ん、今どのへん想像してる?」
「私大の医学か、音楽」
「…当たり。親父たちみたいな患者を救いたいんだと」
否定してほしかったくらいなのにあっさりとした肯定が返ってきてしまって、せっかく意識に追いつきそうだった思考回路がまたどこかに吹っ飛んだ。待って到底信じられない、兄ひとりの資金力で妹を私大の医学部に出す?この同い年の同期がどれだけの負債額と将来負債すべき額を背負って生きているのか、恐ろしすぎて経理のくせにパッと試算もできない。というか――
「――そういえば、確かあんた自身も学校…」
「そ、俺は短大卒。男で珍しいって話出たことあるよな」
同期の中でも私と斎藤は若手組で、話してみると地頭がいい的印象が誰よりも強かったのに短大卒…というのが引っかかってたからよく覚えてる。短大なら、専門と違って探せば奨学金制度を設けているところもあるし、そして何より、四大より2年も早く社会に出て働くことができる。でも電算室勤務ということはきっと情報処理系を出ているはずで、そうなると、つまり今ここにいるための――
「――語学は、趣味ってこと?」
「実益を兼ねた、な。大島ほんとすげーわ、小学生探偵かよ」
「すごいって………」
開いた口が塞がらなかった。すごいのは斎藤だ。英語が話せる日本人は昨今だいぶ増えてるけど、それ以外の言語が操れればいくらでも高時給のバイトは見つかり続けるに違いない――例えば外人バーテンダー(偽)とか。けどそれを仕事にするんじゃなく、どうしてSEに行ったのかだけがわからなかった。経理を選んだ私と同じように、すぐ社会に出られて一生食いっぱぐれない仕事だからだろうか。それとも、第二外国語というスキルを活かした仕事なんて大抵海外出張の可能性があるだろうから――妹の傍にいてやるために夢を諦めた、とかだったりするんだろうか。あるいはその両方とか?私より数ヶ月先に生まれただけのこの男は、そうやって社会とお金のあらゆる隙間を、妹を守りながら忍者のように縫って生きてきたんだろうか。
そう思い至ると、私は急に自分が恥ずかしくなった。そりゃあ私だって私なりに将来を見据えてその時その時を頑張ってきたつもりだったけど、住めるか食えるかの瀬戸際を見たことは一度だってなかった。一軒家の実家があって、祖父母含めて誰ひとり欠けてない家族がいて、進路を自由に選べて、学費を親が出してくれて、そういう当たり前の生活基盤があったからこそ生き方に悩むなんて贅沢ができたんだ。気づかなすぎてバカすぎて愕然とするしかない、私は22にもなって初めて、自分がどれだけ甘いところで生きてきたのかと、それがどれだけ幸せなところだったのかを知った。
――教えてくれたのは、この金髪カラコンの同期だ。
「すごいのは、あんたのほうだよ」
「ん?」
私は姿勢を正すと、一字一句はっきりと発音した。
「私多分斎藤に惚れたと思う」
「……………へ??」
なんというか、ここまでポカンとした人間の顔を見たのは人生で初めてだ。斎藤は、自分の手元の空のグラスと私の顔を交互に見比べた。
「まだ飲んでねーよな??からかってんのか???」
「違うよ」
このほんの十数分の間に自分が受けた衝撃があまりにも大きすぎて、この気持ちをうまく伝えられるか自信がない。あえて言えば親友2人を得た時と似てるけど、それとも違う。
「…私は当然、自分の力は自分の為に使うものだと思って生きてきた。せっかく人が遊んでる間に努力してきたんだしね。でもあんたはそれを全部、自分より大事なもののために使ってる」
「…………………」
「尊敬する。同い年でそんな生き方してる人もいるんだなって。多分これが、惚れたってことなんだと思う」
「……………………」
「あ、もちろん今は妹さんのことでそれどころじゃないと思うんで、からかってないって理解してくれればいいから」
「ちょ、…………おおしま、おまえ」
「うん」
「…………マジか?」
「うん」
「……………マジかー………」
私の即答を2回聞くと斎藤は顔に手をやり、そのままの姿勢で固まったまま微動だにしなくなった。と思ったら突然グラスを引っ掴むとカウンター横の樽に手を伸ばし、慣れた手つきで綺麗な琥珀色の液体を注いでこちらに差し出す。
「と、とりあえず…なんだ、まあ飲め」
「ですよね」
かぶせ気味に即サムズアップしてグラスを取る。私としたことが、この私としたことが、目的の酒をすっかり忘れて話し込むなど言語道断世紀末伝説とにかくいただきます。
「どうだ?」
「……、美味しい…!」
キンッキンに冷えてて喉ごし命!な日本のビールとは違う。苦みが少ない代わりにいい香り、きつくない炭酸は最初に爽やかさをプラスして消え、後からどこかコーヒーのような深さ…というか、こういう効いてくるコクを楽しむ酒なのに種別はビールという、それが意外でおもしろい。エールは最近流行ってきてるし何度も口にしたことはあるけど、専門的なお店できちんとしたものを飲んだのは初めてだ。
頷きながら、斎藤は私の感想をなんだか楽しそうに聞いていた。それなら次はこれ飲んでみろ、といくつかのオススメと、何かを何かで巻いたっぽい謎の外国つまみとかを仕事の合間にどんどん出してくる。それは全部知らない味で、全部それぞれに違ったおいしさがあって。絶対ハズレに当たらない銘柄開拓なんて、これ以上の幸せがこの世のどこを探したら見つかるのだろうか的勢いで私の杯は進んでいった。
――気付けば、いつのまにかカウンターにはもうひとり、初老でプラチナブロンドの絵に描いたようなバーテンが入っていた。おそらく火曜パワーで他の客はあんまり増えてなかったけど、ひょっとしてバーテンを独り占めしてるちょっと迷惑な客になってた可能性が…そう斎藤に詫びると、彼はおじさまバーテンと何事かを話して戻ってくる。その背中の向こうからステキなウィンクがひとつ、私に向かって飛んできた。
「気にすんな。元々俺は今日、あの人が来るまでの代打だったんだわ」
「なるほど。…てことは、もしかしてこの前の宿直騒ぎも」
「……ご名答。1日目はピンチヒッターで、2日目はピンチヒッターのピンチヒッターで、ほんとどうしようもなくてな…」
「つまり代打要員なわけね。ネイティヴの真似事できる人材なんて、時給も相当いいんでしょ」
「……ほんとお前察し良すぎだわ。それプラス、学生の頃に拾ってもらった恩もあってな」
斎藤は笑って両手を上げた。これで宿直にまつわる斎藤の非道というか誤解については全て解決したけど……最後の疑問が残ってる。
「玉城くんはこのバイトのこと知ってるの?」
「いんや、まだ言ってない。あいつは何も知らないまま、ただ俺を信じてくれた。いい男だよ」
「そっか…、いい男だね」
思いがけず部活中に検証その2が終了。彼が間違いなく晶に相応しい相手だとわかって、なんとなく肩の荷がひとつ下りたような気がした。聞けば、斎藤はすでに玉城くんに埋め合わせを履行していた。彼が手こずっていたプログラミングの手助けと、なにやら大事な相談に乗ってあげたとかなんとか。
そうやって話題に事欠かないまま、なんとなく時計を見れば21時すぎ。少しだけ酔いが回ってきた頭で、私は飲んだ酒を一杯目から思い出す。途中から予感はあったというか…恐らく自分ルールをオーバーしてることは間違いないので、今日は楽しかったけどそろそろ帰らなきゃね。
「じゃ斎藤、そろそろお勘定」
「だな。毎度」
提示されたレシートは、明らかに試算より大幅に少ない。ダブルワークまでして一生懸命金を稼いでる人間に奢られるわけにはいかない、そう主張してみたけど、俺が勝手に出したもんが多いと真っ向から反論され、こちらがおまかせで注文したんだと反論し返して…協議の結果、つまみ分だけを差し引いてもらうことに決まって会計は3892円、まるでマイルールを神がご存じかのような金額に落ち着く。私は札を4枚渡して財布を閉めた。もちろん釣りなんて受け取る気はない。
それから席を立つ前に、なんとなくもだもだしてるというか…言いにくそうに立っている男に先手を打つ。
「妹さんの将来かかってるんだし、もちろんバイトのことは黙っとくから安心して」
「…悪ぃな、助かるわ」
「でも他の社員来訪には気をつけてね。じゃ、」
「………おう」
「…どしたの?まだ何か確認事項あった?」
「ま、なんだ……来月とかヌーヴォー解禁だし、また来いよ」
「そうね、あんたの給料に少し貢献しにこよっか」
「ち、ちげーよ、そういうんじゃねーわ」
「そうなの?」
斎藤はボリボリと頭を掻く、けどあんまりやったらカツラが危ない気がして見てる方はちょっと怖い。
「お前、飲みのことよくわかってるっつーか……俺も初めての店ならこうするなってやり方で、なんでも飲めるし、味もわかるし」
「?うん」
「うちっていい酒は置いてんだけどさ、外人人気が変に出ちまって、最近そういう客少ねーんだわ」
「あ、そういう」
「むしろどういうのを想像してたんだお前は…」
呆れる斎藤を見ながら、なんだか急に嬉しさが込み上げてくる。突然くすくすと笑い出した私に、斎藤が戸惑ったような顔を見せるのすら楽しくて仕方ない。
「私酒ほんとに好きでさ、バーテンに飲み方褒められるなんて初めて。ありがとね」
この2年半、ずっとひとりでたくさんの酒を飲み歩いてきたけど、同じアプローチで酒を愛する誰かと一緒に楽しむ酒が、こんなに楽しくて美味しいなんて全然知らなかった。また来るね、って言葉が自然にするりと口から出ていって、ふと見ると斎藤の耳が赤くなっている。
「どしたの斎藤?耳」
「……ん、ちょっと寒ぃからな」
「あ、なんか私だけ飲んでてすいません」
「いや客だからお前。…またな」
「ごちそうさま」
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