26話・クリスマスなんかじゃねえ

 川越の工場には、社員食堂と書かれたホールが一応あった。

 だがそこは配食が行われてるところではなく、社員達が持参の弁当や通勤途上で買って来たパンやおにぎりを摂る、ただっ広い部屋に過ぎない。休憩所と同意だ。

 飲み物の自動販売機と給湯器は置いてあったが、それだけだ。

 あとは長いテーブルと椅子が、会議室のように置いてあるだけ。

 昼休憩中、私は大抵そこで、刷版のT口君、校正刷りのS藤君の三人でコンビニのおにぎりやパンを食べ、息抜きのために近くの河原の土手に出た。

 私にことごとくきつく当たる元ヤンの先輩社員は、取り巻きの若い社員達と共に、ちらちらとこちらを見ていたが、他のベテラン社員や課長、係長もいたせいか何も言われた事はなかった。

 会社から徒歩一分の新河岸川の上流の土手は、私たちの他にも大勢の社員さんが、作業着のまま外の空気を吸って伸びをしたり、体を動かしたりキャッチボールをしていた。

 秋の日差しは、旦那と部屋で肌を交えた時よりずいぶん柔らかく、穏やかになっていた。

 私たち三人は土手に寝転がって、発売されたジャンプやサンデー、ヤンサンやスピリッツを回し読みしていた。

「そういえばね、わしプロポーズされた」

 その年から連載が始まった、ヤングサンデー上条淳史「sex」の、スタイリッシュなページを読みながら私は呟いた。

 両隣でジャンプとサンデーを読む男二人の手が止まり、またすぐページをめくり始めた。

「それは……よかったじゃん。おめでとう」

「やっとかあ。でも大学時代からの付き合いだろう? 長過ぎた春じゃない?」

 素直に祝ってくれたS藤君は、ちょっぴり毒を込めたT口君の言葉を慌てて遮った。

「うん。ありがと」

「で、どう返事したのよ」

 S藤君がワクワクの顔で聴いてくる。

 T口君は漫画のページに目を落としたり、こちらの顔をじっと見たりで言葉が少ない。

「いいよって言った」

「……いいよって……」

「それだけ?」

「うん。他に言うことないじゃん。結婚しようって言われたから、いいよって」

「……潔すぎる」

「で、寿退社待ったなし?」

「ううん。まだそこまで行ってない。まず親に認められてない。反対されてる」

「初めの段階かあ」

 T口君は伸びをして、切り出した。

「めでたく婚約ってわけじゃないんだなあ。でも頑張れ」

 昼休み終了の予鈴が鳴り、私たちは体に着いた草をぱんぱんと払って工場へ戻った。なぜか男2人が話しながら遅れがちで、私は文句を言って戻り、三人になろうと努めた。

 作業室入り口のエアシャワーには二人ずつしか入れないので、T口君と一緒に入った。狭い中、お互い身体を離しながら。

 彼は喋りかけてきた言葉は、エアの発射音で殆ど聞こえなかった。


 数日後、冬休みの課題図書に選ばれた絵本の納期が早まったあおりで、私は超残業になった。

 直属上司の課長も一緒に残って手伝ってくれた。責任者である以上、社員が終わらないと帰れないのだ。

「お疲れさん。頑張って腹減ったろうからなんかおごるぞ」

 帰りに深夜の川越駅前で、そう言って課長は屋台拉麺をおごってくれた。

 深夜のミスドかなあと揚げ物&甘味攻撃に備えていた私はちょっとホッとしたが、深夜の屋台拉麺もドーナツとどっこいどっこいに罪深い。

「南さんはさ、T口と付き合ってるの?」

「え、全然。お友達というか、S藤と三人、マンガ仲間兼友達なだけですよ」

 私は胡椒をかけすぎて、くしゃみをこらえながら答えた。

「ならいいけど」

「だって私、彼氏いますし、プロポーズされたばっかですし」

「おお、それはおめでとう。なら一層慎重に」

「は?」

「いや、君らが付き合ってる……もっと言うと、出来てるって噂を流してる奴らがいるんだよ」

「ああ、K村先輩の一派でしょう。こっちをちらちらよく見てるし」

「幸い奴の性格も難があるから誰も本気にしていないけど、T口はまっすぐですぐかっとなる奴だし、耳に入ったらブチ切れかねない。こっちも火消し工作はしておくけど気をつけなさい。それだけ」

 あああ、くだらねえ。

 女の腐ったの以下じゃん。

 仕事しろよ、というか仕事だけしてろよ。

 私は心の中で元ヤンのK村先輩に毒づいた。

 その年の年末進行と、春休みから卒業・入学シーズンに向けての児童書新刊ラッシュはものすごく、私はクリスマスの日も残業だった。

 世の中はまだバブルだったのだ。

 私たち印刷工場労働者には、ちっとも実感がわかなかったが。

 いつもの通り路線バスが無くなり、私と女子事務社員、課長でタクシーを呼んだ。

 小さい子供がいる課長は、プレゼントをまだ準備できていないと嘆いていたし、女子事務員は洗濯物を取り込んでいないと焦っていた。

 二人は次々に降り、一番遠い私が最後まで乗って、家の前まで送ってもらう事になる。

「クリスマスにずいぶん遅いんですねえ、会社の中で忘年会か、クリパですか?」

「……みんな残業です」

「え、でももうとっくに日付変わってますが」

「でもよくありますよ、この時間にタクシーで帰るの。それ用に会社にチケット置いてあるんで」

 私は、なぜこの人は当たり前のことを聞いてくるのだろうと不思議に思った。

「あのね、これは仕事じゃなくて言うけど、俺も父親なの。あんたと同じくらいの娘がいて、働いてるんだけどね。さっさとそんな会社、辞めな。ろくな会社じゃないよ。若い女の子を工業地帯の、交通機関もないようなところで深夜まで働かせるの、俺が親だったらさっさと辞めさせるよ。なんかあったら親御さんが悲しむよ」

 突然始まった説教に私は面食らい、はあ、と聞いているしかなかった。

 仕事を辞める、もしくはよその会社に行くという選択肢は、私の中に全くなかったからだ。

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