23話・そんな時代もあったねと
ちっともサザン的でない鎌倉ドライブの後、私と旦那はまた電話だけの間柄に戻った。
お互い新米で、仕事にも慣れないし、自分に何が出来るのかも分からないし、目の前のことに一生懸命で他の人の事や周囲の状況なんて見えない。
マグカップの中のサイダーのように、自分でパツパツ泡立つばかりで自分が一番可愛いし情けないし、無能。
そんな混乱した会社生活の中で、旦那の存在の優先順位は、仕事と、馴染むことと…いろんなものの下位になっていった。
でもそれは、私が同じ新入社員でも『落ち着いて見える』旦那に甘えていたにすぎない。
旦那も誰よりも早く出勤し、ごみを捨て職場の備品を整え、覚えなければいけないマニュアルや取引先情報その他を読んで先輩社員達の出勤を待つ、という健気な努力をしていたらしい。
そしてその甲斐あって先輩や上司、お局様と良好な関係を築いていた。
私はというと、おじいちゃん、おばあちゃんの社員さん達、T口君やS藤君と適宜つるみながら、自分が手掛け、製品になった児童書をみて、ああここはもっとグラデーションの淡い部分まで出せばよかったとか、この紙質だったらもう少し濃い部分を淡く設定しないと本機刷りでつぶれるところだったとか、そんな試行錯誤を繰り返しては落ち込んでいた。
私のスキャナーに回って来るのは、鉛筆で濃淡をつけて描いた高学年向けの小説のイラストや、おなじみのアニメ作品でおなじみのアニメーター氏の作品など、多岐に渡った。
とはいえ旦那とは月に一度、マイナーな映画館で変な映画を見たり、同人誌の頒布イベントに行ったりで、お付き合いは続いていた。
「いいやつ」であることは確実だし、でも「彼氏」になりたいのか「男友達として俺を頼って」なのか、私には判断が付きかねていた。
今ならわかる。それはあさましいキープ心だと、どつきながら当時の私に教えてやりたい。
間もなく勤める印刷・製版会社が移転をすることになった。
本社サイドで粛々と進んできたことが、ようやく工場の下々まで伝えられたという感じだ。
我々工場現場の人間たちは、移転前に一度だけ、営業車や路線バスで見学に行かされた。
川越の駅前から相当離れた、桶川市との境のただっ広い河川敷に面した工業地。
後に「川越工業団地」として幾つもの工場が立つ事になる用地だが、当時は建物もまばらで、畑と造成半ばの土地が延々広がっているだけだった。
そのど真ん中に、新しい工場は建っていた。
川越駅前から、市内のラッシュを抜け、旧市街を通り、かれこれ30分以上はかかった気がする。
社内では、資金を貸し付けている銀行が、何かあったらすぐ取り上げて、大手の印刷会社に買収させるよう動いている、との噂がまことしやかにささやかれていた。
早く合併された方がいい、むしろ早くそうなったほうがいい。
大半の従業員はそう思っていた。
新しもの好きで、前社長と血縁の無い現社長は会社そのものには愛着もなく、周囲から「日本の最初の機械」「日本でここだけの設備」と持ち上げられるのが何よりうれしい人で、そのリスクを被るのが常に現場だったからである。
会社の引っ越しはお盆休みのシーズンに行われた。
工場幹部と各部門のリーダー格の社員達は休み返上で駆り出されたが、私は呼ばれなかった。
愛機のモノクロスキャナーは、スイスから専門の業者とメーカーの技師が呼ばれ、初期設定まですべてやってくれるからだ。
むしろ私がいても何の役にも立たなかったと思う。ただしお盆返上で出勤はしていた。
本格稼働してからも、工場のトラブルは続いた。
路線バスの便が絶望的に少ないので、会社チャーターのバスでの出勤。
朝の二便に間に合わないと、自腹で何千円も払ってタクシーになるか、一時間以上遅れての路線バスになる。
しかも定刻通りマイクロバスが発車したとしても、川越市内の狭い旧道、一方通行だらけの道路事情、ピクリとも動かないラッシュに巻き込まれ、朝の製紙工場からの一便の受け取りに間に合わない時が多々あった。
帰りはマイクロバスがない。一時間に何本かの路線バスに乗ることになるが、大抵の社員はバスのあるうちになど帰れず、工場の床に寝るか、事務所にある提携タクシー会社のチケットを使い、家まで帰ることになる。
秋の初め、画家からの挿し絵の入稿が遅れ、何十枚ものイラストの処理にあたった私と、直属上司の課長、そしていつも忙しい制作進行の女性と。
全部の処理が終わったあたりで、課長は
「おにぎり食べて、タクシーで帰ろう」
と無駄に元気な声を出した。
進行の女性はロッカールームに自分用の寝袋を持っているほど、残業の多い人だったが、前日も泊りこみだったのでさすがに今日は帰らなければと、背筋を伸ばし、肩をトントンと叩いた。
事務所の、彼女の机にタクシーチケットはしまってある。
電話をかけて一台呼び、三人は相乗りしていった。
女性は川越駅を過ぎたところで下り、車中は運ちゃんと、課長と私の二人になった。
「南さんは、ドーナツは好きかい?」
「はい。大好きです。デブの種ですが」
突然の、課長の言葉に私は戸惑った。
「実は、ミスタードーナツの景品引換券が貯まっちまってさ。深夜帰宅になるのがしょっちゅうなんで、遅くまであいてるミスドばかり食べてたんだ」
「ああ、それでしょっちゅう胃が重いと」
「そんなこんなでたまり過ぎちゃって、交換しきれないからあげるわ。同じ景品を何個も持ち帰っても、妻も娘達もいい顔しないし、またこれかよって言われるし」
大層照れくさそうに部下にこぼす課長は、こんなにも笑う人だったんだと、私は初めて知った。
目つきが鋭く、ひげ面で、声も大きく言葉も粗い強面だけど、案外乙女な良い課長だった。
「南さんさ、T口と付き合ってるの?いや、こう聞くのも野暮なんだけど」
突然課長が訪ねた。彼が聴いてくるという事は、社内で噂になっているとの注意喚起だろう。
だが、そんな噂になるようなつきあいはしていない。
「つきあってなんかいません。T口君とS藤君は、板橋工場に居たころからガンダムやアニメやプラモの話題で気安く話の仲間に入れてくれたんです。この二人にお友達になってもらって、会社のお昼休みにもボッチにならないで済んでいるから、とてもありがたい。いい友達です」
何というくそ生意気な返事であろうか。
そうか、と一言課長は漏らして、後は大量のミスドの引換券を両手に載せてくれた。
アパートに帰ると、帰宅が遅いのを心配した旦那の留守電が、何本も入っていた。次の休みのお誘いをするためにかけたら、いくらかけても出ないので、犯罪にでもあったのかと心配して、
「帰ったら電話して」
「大丈夫? そっち行こうか?」
と繰り返しメッセージを入れてくれていたらしい。
鞄と上着を放り出し、畳にぺたんと座り込んで缶ジュースを飲んでいると、旦那から通算10回目くらいの電話が来た。
「もしもし、〇〇ですけどまだ帰っていないの?」
声の主を確かめて受話器を取った。
「はい。南です。今帰った」
「…お、お疲れー。飲み会で遅くなったの?営業の僕より遅いなんてよっぽどだよ」
「深夜残業で、バス便が無くなっちゃって、上司ともう一人の女子社員で、会社のチケットでタクシーに乗ってきた」
「ええ…そんな、話に聞くと野っぱらの真ん中の工場でしょ。そんな女子社員二人も電車が無くなる程って…」
「しょうがないよ、仕事だもん」
「仕事は好きなんだ…」
「うん好き。挿し絵見るとわくわくする。でも」
私はトイレにも行きたくない程動けなかった。
旦那の気遣いは有り難いが、早く電話を切って、外部から私の中に入る情報をシャットアウトしたい。自分を守りたい。
「でも疲れた。ごめん、だから切るね」
本当に酷いやつだった。よく旦那が呆れなかったと感心するばかりだ。
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