11話 就職課とワイシャツとわたし

 三回生時の文化祭が終わり、年を越して新しい年を迎えると、サークル活動はもうすっかり世代交代だ。

 春になり四回生になるとすぐ、我々は就職活動に入った。

 30年前は今よりずいぶんのんびりしていたのだ。

 卒論は三回生の時に指導教授を決め、題材を決め、あらかた資料を調べてシノスプスを決めておく。そして粗書きまでしてしまう。

 これが当時の母校の、大半の日文専攻の進め方だったと思う。旦那のいた法学部や、経済学部のゼミは分からない。

 そんなわけで、三月にひとつ先輩である四回生の追いコン(追い出しコンパ)を終えた後は、もうサークルの運営は、新しい三年生に全面的に渡る。

 新たに入って来た可愛い後輩女子たちは、飲み会で


「南先輩、たまには顔出してくださいよおー、先輩を見て、あ、女の子いると思ってあたしら入ったんですからー」

「本当ですよ。がっきー先輩や〇〇先輩(←旦那の苗字が入る) みたいな怪しい人揃いだったら、私たち入りませんでしたからー」


 と酔っぱらって哀願してきた。


「お前ら誰が変態だよ、あああーん?」

「先輩、変態じゃないっすよ、まだ変態じゃないっすよ。怪しい人でとどまってますよ」

「時間の問題ですよー」


 と、旦那と、名指しされた仮面ライタースーパーカブ役のがっきー君や、女装ヒロイン大杉くんと女子たちに詰め寄る光景は、まさしく「ジョジョ」のザコである。

 後輩女子にキャーキャー突き飛ばされて

「あわびゅ」とか

「あべし」

 とか言っている野郎どもにも、そのころにはすっかり慣れていた。


 クリスマスに私をふりやがったつねさんは、いつも通り斜に構えて冷ややかに笑いながら水割りを飲んでいた。

 酒に強くないくせに、気取って強めの物を飲んで、時間差で真赤になるのが彼なのだ。ただし自覚がないのが厄介だ。

 私は後輩女子たちと、六神合体ゴットマーズの三ツ矢雄二の声がいかにかっこいいか、北斗の拳のユダとレイの薄い本をいかにコミケに間に合わせるか、そんな会話をきゃあきゃあとしていた。

 はい。後輩に合わせるのは先輩の嗜みですから。(ちなみにレイ様は総受けでした。後輩コミケに間に合ったのかなあ)


 旦那は一切酒が飲めない。

 結婚後に聞いたら、大学合格の祝いに一家で横浜中華街に食事に行って、こっそり親の紹興酒を口にし、口当たりがいいのでついつい飲んでしまったことがあるという。

 他の家族も

「お父さん、自分が飲みほしたの覚えてないの? 」

 と、息子の飲酒に気付かないレベルに酔っていたので、父のコップから酒が消えていくのを不思議に思わなかったらしい。

 かくして18歳の旦那は酔っぱらい、中華街の大通りをふらふらしながら、道行き見知らぬ人を捕まえては


「おじさんどこ行くのぉぉお? ちょっと逃げないでくださいよぉ、甘栗でも買って関帝廟に行きましょうよおおお」


 と、絡みまくったそうだ。

(なぜか女性には決してトツしなかったらしい。迷惑だけどそこだけは偉い)

 5つ年上の兄(義兄になる)が、いつもよりテンションが変だと気づくまで、誰も二男のよっぱぶりに気付かなかったというのが、いかにも旦那家らしい。

 翌日、強烈な二日酔いの頭痛に悶絶した旦那は、酒を一切口にできなくなってしまったという。

 めでたしめでたしである。


 そんな旦那は追いコンの二次会に向かう途中、素面のまま、よっぱの後輩たちとハチ公に上り(上までは上れなかったので、中途半端にぶら下がっていた)

 モアイ像の前でポーズをとり、政治的に危険な替え歌を歌っては、数少ない女子後輩たちから距離を置かれていた。

 ただし人の数倍悪ふざけをしながら、マジ酔いしていた後輩男子たちが狼藉し過ぎないよう、制御するだけの理性はあったと見た。


 先輩の追いコンが終われば、自分達の就職活動である。 

 ちなみに我々の一つ・二つ上の先輩たちは、アニメ界に就職し、今もスタッフロールでお名前を拝見する方が何人かいる。


 就職活動は孤独だった。

 就職課に行って企業の情報を見たら、自分でアポを取り、履歴書や志望書を書きまくる。そして送りまくる。

 先輩訪問というのもあった。こちらも「学生なのにスーツを着て礼儀もなっていないのにお会いする」という無礼千万なのだが、向こうも春の仕事が忙しさを極める時期に時間を割かなくてはならず、大変だったと思う。

 返事が来る会社もあったし、梨のつぶての企業もあった。

 だが当時はまだバブルだった。

 企業も経営嗜好がアゲアゲで、メーカーに売り込まれる側の設備投資、異業種参入、節税対策の一環での部門の子会社化。

 ОBも鼻息が荒かった。住宅や食事の手当もたくさんついたし、残業、徹夜、休日手当の額も馬鹿にならなかった。

 みな「借りてでも投資しなければ損」というワイドショーの経済評論家のいう事を信じ、にわか投資家になっていた。

 今思えば信じられないが、そういう時代だった。

 

 そんな時期、私が希望していたのは児童書の出版社だった。

 子供のころから本が大好きだった私は、大人になったらそんな本を世に送り出す出版社に就職したいと思っていた。

 しかし現実は厳しかった。

 少子化が進み、子供の本は売れない。

 自治体や学校の図書館が定期的に買ってくれたが、それでも児童文学や絵本の賞の受賞作や、夏休みの課題図書(ありましたねー、読書感想文書かされましたねー)に指定されない限り、売れない。

 そして、編集者は辞めない。

 やりがいを感じ誇りを持って児童書が好きで働いている人ばかりだったので、空きがない。

 募集がない。


 業界誌などだったらまた別だろうが、当時は『男女雇用機会均等法』が施行されて間もないという事もあり、出版は完全に男の、ベテランの世界だった。

 児童書はまだしも女性率の高い方だったと思うが、それでも募集はなかった。

 甘かった。

 本当に行きたいというガッツのある人だったら、何の伝手でも使ってその出版社でバイトをするなりして顔を繋ぎ、採用してもらうのである。

 私は怪人を演じる旦那や、おもろい特撮・アニメ研の人たちとリア充(と言うのか?)しまくり、卒論の研究ものめりこみ、そして伝手やコネづくりは頭になかった。

 完全な敗北である。


 風の噂に、旦那が公務員や銀行を受けていると聞いた。

 自分の耳が信じられなかった。

 黒ゴミ袋を被って「ひょーほほほ」と土手で踊っていた旦那である。

 中華街のお面を被り、全身に電飾を装着して堂々と警官の前に立った旦那がである。

「川俣軍〇がー、深川に入るー」と、替え歌を渋谷の駅前で歌っていた旦那がである。

 亜美ちゃんがどれほどかわいいか、渋谷の「ラケル」でオムライスを食べながら、ドン引く後輩女子に力説していた…


 その男がである。


 私は焦った。そして出版社以外にも手当たり次第に目についた会社に履歴書と志望書を送った。

 有名線香メーカー、超大手印刷会社、実家の仕事から思いついての着物販売店。食品メーカー。

 脈絡などない。そして二つの会社にそれぞれ他者の志望書を送り、青ざめたこともあった。その二社からはガン無視されたが当然だろう。

 その節は本当に申し訳ありませんでした。


 そして、とうとう決まった。

(続きまーす)

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