第4話

 波打ち際に寝転がったまま、どれぐらいの時間が経っただろう。考え事をしていると時間が分からなくなる。


 彼女が言った通り、潮は少しずつ満ちているようで、確かに水位が上がっていた。さっきは波が来たときに背中が濡れるだけだったのに、今は耳の中まで水が入ってくる。

 その頃になって、なんだか変な感じがしてきた。動悸が激しくなり、自分の鼓動がハッキリと感じられるのだ。これが彼女の言う「ドキドキ」なのだろうか?


 ――いや、違う。これは憧れなんて綺麗なものじゃない。僕が感じているのは、紛れもない恐怖だ。僕は、自分を飲み込もうとする水面を恐れているのだ!


 僕はしばらく、恐怖と戦っていた。それは僕の精神がどれだけ彼女に近づけるかという戦いでもあった。

 彼女が憧れるものに、僕も憧れたい。彼女がどこかへ行こうとしているなら、僕も一緒に行きたい。

 それが出来ないのなら、僕と彼女は永遠に同じ場所に立てないだろう。


 僕は何度も、自分の心に命令をした。理性で恐怖を打ち消せ、邪魔をする感情なんて捨ててしまえ、と。

 だけど、それでも、心は完全に服従してはくれない。


 僕は随分と長く葛藤していたような気がした。だけど結果をいえば、僕は恐怖に負けたのだ。

 水の中に沈んでゆく自分の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、僕の矜持きょうじはあっけなく崩れ落ちてしまった。彼女と出会ってからずっと僕を支えてきた矜持が、紙くずのように千切れてしまった。


 僕はカラクリ人形のように上体を起こした。びしょ濡れになったシャツに風が当たって、冷たさが身体に染み込んでくる。

 前を見ると、ちょうど太陽が水平線に沈むところだった。海面は斜光を反射してダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。

 一筋に繋がったその輝きは、まるで僕たちのところへ光の道が伸びているみたいに見えた。


 隣で寝ている彼女は、さっきと同じ姿勢で真上を見つめていた。僕が起きたことは音で分かるはずだけど、全く反応が無い。

 ――海から上がって、砂浜に座っていよう。

 僕は立ち上がり、浜辺に向かって歩きだした。なんだか長い夢から覚めたような、とても空しい気分だった。


「先に帰ってていいよ」


 後ろから不意に、彼女の声が聞こえた。感情のない声だった。僕は驚いて振り返る。だけど、彼女はやはりさっきと同じ体勢で寝転がっていた。

 彼女がこんなことを言うのは初めてだった。ここに来たときはいつも一緒に帰っているのに。


「わかった」

 僕はそれ以上何も言わず、浜辺に上がってランドセルを片手に持った。そして、そのまま一人で公園を出てしまった。


 なんだか、彼女との間に大きな隔たりが生まれたような気がした。いや、ただ単に見えていなかっただけなのかもしれない。

 いつか彼女に近づけるかもしれないと僕は考えていたけれど、それは全くの間違いだったのだ。

 世の中には、お互いに愛し合っていても決定的に隔てられている場合がある。それは身体的な壁だったり、身分の壁だったり――あるいはもっと分かりづらい、心の壁だったり。

 これから僕たちがどんなに仲良くなっても、この隔たりはなくならないのだろう。


 僕はそのまま一人で家まで帰った。海水を吸ったシャツとズボンが、とても重たく感じられた。

 自分がなんで涙を流しているのか、僕には分からなかった。



 次の日の朝、教室に彼女はいなかった。そして朝のホームルームで、先生がこう言った。

「今日は、悲しいお知らせがあります」


 昨日の夜、海浜公園の波打ち際で彼女の死体が発見されたらしい。見つかったときは心肺停止の状態で、病院に運ばれてすぐに死亡確認が取られたそうだ。

 きっと、先生も含めてクラスの誰もが分かっているのだろう。これは不慮の事故なんかじゃない、ということを。何せ彼女は、プールで自ら溺れてしまうほど水を愛していたのだ。


 いつかこうなることが、僕には分かっていた。そして僕なら彼女を止めることができたかもしれない。でも、そんなことはしたくなかった。


 僕は、水を愛している彼女を愛していたのだから。

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