第3話
彼女が初めてプールで溺れてから3年が過ぎ、4年生になった僕たちの関係は少しずつ変わっていた。
周囲のクラスメイトたちに、僕たちが恋愛関係にあるという噂が流れ始めたのだ。いつも一緒に帰っているのだから、そういう噂が流れるのも無理はない。
だけど彼女もその噂について満更でもないらしく、手を繋いでみたりプレゼント交換をしたり、いつの間にか恋人らしいやり取りを楽しむ関係になっていた。
もちろん彼女が恋人のように接してくれて僕も嬉しかったし、僕のほうからそういう態度を取ることもあった。
だけど、それは本当に大事なことではないのだ。
僕にとって最も重要だったのは、彼女が他の人とは違う感性を持っているということだった。どんなに恋人のふりをしても、その感性を僕が理解できなければ薄っぺらな関係のままだ。
僕は、彼女と同じ場所に立ちたかった。彼女の隣に心まで寄り添いたかった。彼女のように、胸の奥まで透き通るほど深く水を愛したかった。
でも、それはできなかった。
結局のところ、僕は彼女とは違ったのだ。
水の波紋を見ても「綺麗だ」という以上の感想を持てなかったし、プールに潜っていても苦しいだけだった。その事実は僕にとって、どうしようもなく悲しいことだった。
そんなある夏の日、僕たちは久しぶりに海岸へ行った。最近は天気が悪かったりクラブ活動があったりで、なかなか一緒に来れる機会がなかったのだ。
数日前に台風が過ぎたせいか、その日はいつにも増して海が綺麗に見えた。見ていると吸い込まれそうになるほど、深く澄み渡った青色だ。
彼女は乾いた砂の上にランドセルを放り出して、裸足で海に入っていった。そして服が濡れるのも構わず、波打ち際で仰向けに寝転んでしまった。波が打ち寄せるたびに彼女の背中は海水に浸り、服の裾が水面の下で揺れている。
彼女は指先ひとつ動かさず、晴れ渡った空に視線を馳せていた。波の音の合間に、彼女が呼吸をする音が聞こえてくる。とても静かで深い息づかいだった。
そのときの彼女の姿は、まるで人間ではないみたいに見えた。それはきっと、彼女が人間らしさの全てを捨ててそこに横たわっているからだろう。
「こっちに来て。気持ちいいよ」
不意に彼女がそう言った。僕は促されるまま彼女の隣に行って、同じように仰向けになる。
波が来ると
仰向けになっているから、視界には空しか映らない。青一色の澄み渡った空に、ときどきカモメや飛行機が飛んでいる。
隣に寝ている彼女が、おもむろに話し始めた。
「ほら、背中を水が撫でているでしょ? やがてこのまま潮が満ちて、私たちは海の彼方に攫われるの。想像するとドキドキしてこない? 右も左も、上も下も分からない、透き通る水に包まれながら、どこまでも深く、遠く、旅をするんだよ」
彼女の口調は、まるで将来の夢を語るかのようだった。讃美と言っても過言ではないほど、言葉の全てから水への憧れが伝わってくる。
僕は、何と答えればいいか分からなかった。否定はしたくないのだけれど、共感しようとすれば嘘になる。結局、僕は何となく相槌を打つだけで会話を途切れさせてしまった。実はその後もしばらく何と言おうか考えていたのだけど、何も思い付かないので口を噤んだ。
しばらく経って、彼女が再び話し始めた。
「私、できることなら水になりたいな。水に溶けて、水と一つになりたい。だって、水ってこんなに綺麗なんだもの」
水になるって、どんな感じだろう。水の中に自分がいるという状況なら分かるけれど、水になるというのは想像が付かなかった。
だって、水になるということは自分の形を失うということだ。それって、もう自分とはいえないのではないだろうか。
でも、彼女だったらそれが出来るような気もした。水について語るときの彼女の言葉は、迷いも感じさせずに響いてくるから、僕が正しいのか彼女が正しいのか分からなくなってしまうのだ。
考えても考えても頭の中がまとまらなくて、僕は彼女に返す言葉が見つからなかった。
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