第2話

 プールでの一件の後、彼女はすぐに救急車で運ばれて一命を取り留めた。それが幸いだったのかどうか、僕には判断が付かなかった。

 先生が言うには、あれは彼女の体調不良が原因の事故らしい。先生がもっと早く気づいていれば、と悔しそうに先生は語った。


 違う、あれは事故なんかじゃない――僕には確信めいたものがあった。

 だけどその確信も、彼女が溺れる前に見せたあの表情のことも、僕は誰にも話さなかった。

 彼女自身と話をしてみないことには、何も判断ができないと考えていた。



 三日間の入院を終えて学校に戻ってきた彼女は、いつも通りに学校生活を再開した。

 授業を受けている姿も、給食を食べている姿も、ごく普通の女の子のようだ。プールの水面を見つめていたときのあの不思議な感じは、すっかりなくなっていた。


 ある日の放課後、帰り支度をしている彼女に話しかけてみた。

「ねえ、今日一緒に帰ろうよ」

 僕は彼女と特別に仲が良かったわけじゃないけど、彼女はいつも一人で帰っているようだったから、なんとなく気軽に話しかけることができた。彼女はきょとんとした顔で僕を見返した。

「別にいいけど、どうして?」


 僕は本当のことを話すべきか少し逡巡した後、周囲のクラスメイトを気にしながら、声を小さくして彼女に囁いた。

「この前の水泳で溺れてたときのことを、話してほしいんだ。なんだか、わざと溺れてたみたいに見えたから」

 彼女は小さくビクッと身じろぎをした。そして怪訝な表情をする。少し怯えているようにも見えた。

「どうして分かったの? ううん、それよりも、お願いだから先生には言わないで」


 彼女を不安にさせてしまったことに気づき、僕の弁明は自然と早口になる。

「言わないよ、大丈夫。急に変なこと言ってごめんね。なんていうか、プールの水をジッと見てたから、何か考えてたのかなって思っただけなんだ。それに僕は別に、君が悪いことをしたなんてこれっぽっちも思ってない」

「よかった……」

 彼女は安堵の溜息をつき、嬉しそうに顔を綻ばせた。どちらかというと彼女は無表情な印象があったから、笑顔を見せてくれたことには少し驚いた。



 彼女の帰り道は、僕と同じ方向だった。

 学校の東側にある大きな坂道を下っていくと、正面には大きな海と、海浜公園の赤らんだ砂浜が見えてくる。


「プールの授業の前に、何を見てたの? プールの水以外には何もなかったような気がするけど」

「そうだよ、プールの水。私ね、水が大好きなの」


 やっぱり、彼女は水を見ていたんだ! もしも彼女の見ていたものが水じゃなくて、誰もが目を向けるような珍しいものだったなら、僕はこんなにもときめかなかっただろう。


「水が好きって、それはなんで?」

「だってキレイだもの。宝石みたいに透き通ってて、ゆらゆら揺れたり、きらきら光ったり。水って、すごく不思議じゃない?」


 確かに、言われてみればそうかもしれない。今まで水を真剣に見たことなんてなかったけれど、考えようによっては綺麗なものなのだろうか。


「それにね、水の中に入るのって楽しいんだよ。水面の下から空を見たことある? 外の世界がみんなゆらゆらしてて、太陽がたくさんに割れてて、あっちこっちで光ってる。そうやってずっと水の中にいると、水が身体の中まで染みこんできて、まるで自分も水になってるみたいに感じるの」


 水のことを語っている彼女は、いつにも増して活き活きとしていた。それこそ水面の光のように、彼女の瞳もキラキラと輝いている。

 その言葉と表情から彼女の独特な感性を感じ取り、僕は戸惑いながらも喜んだ。

 彼女は嘘を言っていない。嘘偽りなく、僕とは違う感性を持っているのだ。


「『ずっと水の中に』って、それでそのまま溺れちゃったの?」

「まあね。すごく気持ちよかったよ」

 彼女は当たり前のように、少しはにかみながら言った。つられて僕も自然と笑顔がこぼれる。


 溺れているのに気持ちいいという意味は、僕には分からない。僕はプールの中で息が切れると凄く苦しいけれど、彼女にはそういう感覚はないのだろうか。

 やっぱり彼女は少し変なのかもしれない。そして僕は、そんな彼女の変なところがとても魅力的に感じられた。

 水が好きだから、彼女は水を見ながらあんなに綺麗な顔ができるのだ。本当の美しさとはそういうものだと僕は思った。


「私はこれから海岸に行くんだけど、一緒に来る?」

「うん、行く」


 聞けば、彼女はいつも海浜公園の砂浜で遊んでいるらしい。波打ち際で水遊びをするのが好きなのだとか。

 僕たちが坂を下って砂浜に行くと、僕たち以外は誰もいなかった。平日の昼間にこの公園を通るのは、犬の散歩をする人ぐらいだ。


 彼女は裸足になって海に入っていった。水面を蹴り上げると水しぶきが上がり、太陽の光を浴びて七色に輝く。その様子が彼女にとってはとても嬉しいようで、何度も水面を蹴って水しぶきを立てていた。

 僕は波が届かない場所に座りながら、ただ彼女のことを見ていた。彼女のところに行こうかとも思ったけど、そんなことをしたら邪魔になってしまうように思えて、行動に移せなかった。

 彼女は今、水と遊んでいるのだ。きっと僕のことなんて1ミリも気にしていない。


 彼女は飽きる様子もなく、水の様々な形を楽しんでいる。僕にとっては、そんな彼女の姿を見ることが幸せだった。水と遊んでいる彼女は、何か神聖な、触れてはいけないもののように思えた。

 そして日が暮れる頃になって、僕たちは「また明日」の言葉と共に別れた。水に濡れた身体を夕日にきらめかせる彼女の姿は、言葉も出ないほど美しかった。



 僕が彼女と積極的に付き合うようになったのは、その日からだ。彼女のほうから話しかけてくることはあまりなかったけど、水について語るときの彼女はいつも楽しそうだった。

 僕は何かをするでもなく、彼女の話を真剣に聞いていた。彼女だけが持つその感性を、僕に向かってぶつけてくれる――それが何よりも嬉しかった。


 プールの中で溺れる趣味は相変わらずで、次の週も、その次の週も、水泳の授業があるたびに彼女は溺れて先生に救助された。

 そのせいで先生からこっぴどく叱られたそうで、次の週からは失神しない程度に加減して溺れるようになった。


 彼女が水に対して強い憧れを持っていることや、プールでわざと溺れていたことは、いつの間にか周知の事実になっていた。

 クラスメートたちは初めのうちは、彼女を変なやつだと認識して不気味がった。だけど、その変な部分が水に関するとても狭い範囲に収まっていることが分かると、彼女を避けることは次第になくなっていった。

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