第4章 決戦・異世界巌流島編

35.空手vs大賢者(前)

 港町から馬車で数日。辺境の村へとたどり着き、そこからさらに山の中へ。標高が上がるごとに気温が下がり、徐々に白い雪が周りに積もり始める。


 道さえ無い山の中、暑い季節ならそれこそ熊でも現れそうな雰囲気。そういえば、この世界にも熊はいるのだろうか――「馬」と呼ばれる生き物は現実世界のものとは違っていたが、違うのならそのうち、この世界の熊も相手してみなくてはいけないかもしれない。


 しかし、それも後のことだ。今は――おれは目的を果たすべく、山の中を進んだ。


 ――ふと、森が途切れ、目の前が開ける。麓の村から、山をひとつ越えた先――すり鉢状に広がる谷間の地。先ほどまでとは打って変わって、あたたかな風さえも感じる。岩肌がそこかしこに見えてはいるが、大地は草木に覆われて小川がその中に小さな滝を作っていた。



「ここか……」



 突然明るくなった光の中、おれは目を凝らす。岩場を回り込むように続く傾斜、小高い丘のようになったその上――そこに、粗末な小屋がひとつ、建っていた。



「ようこそいらっしゃいました」



 ――と、突然人の声がした。おれは反射的に身構え、振り返る。しかし、そこには誰もおらず――



「こちらですよ、白衣の次元遊者ブレーンウォーカー



 声のする方向――目線を下げて足元を見ると、そこには一匹の猫。



「お師匠様のところへ案内します。どうぞ、こちらへ……」



 驚くおれに構わず、猫は踵を返して歩き出した。おれは慌ててその後を追う。


 猫は岩場を小川の方へと降りていった。身軽なその動きに、おれはなんとかついていく。巨大な魔獣モンスターも怖いが、もしこのように小さくてしなやかで身軽な動物が強力な打撃か魔法でも使ったら――そう考えると、そら恐ろしくなるのはおれだけだろうか。


 見失いそうになった猫に、おれは小川のほとりでなんとか追いついた――と、猫がちょこんと飛び乗ったその岩の上に、小柄な人影があった。



「ようこそ、空手家君」



 人影が立ち上がり、振り向く。短く刈った白髪に、口ひげ、糸のように細い目。粗末な灰色の衣をその身に纏った、年老いた男――



「……あなたが?」



 おれは思わず口に出して言った。男はその口元に微笑を湛えたまま、答えた。



「いかにも……わしがディン・ローディン。大賢者などと呼ばれておる男サ」



 その老人――大賢者ディン・ローディンはその手で、おれを岩の上へと招いた。そこには敷物が広げられ、小さなちゃぶ台の上にカップが並んでいる。


 おれがその敷物の上に座ると、先ほどの猫がその後ろ脚で器用に立ち上がり、ポットからカップへお茶を注いでくれた。おれが目を丸くしていると、ディン老人がからからと笑う。



「『使い魔ファミリアー』を見るのは初めてかな? これでなかなか便利でネ」


「僕は使い魔ファミリアーじゃない、弟子です」


「はっはっはっ、そうだったな」



 抗議の声をあげながら茶を淹れ終わると、猫はポットを置いて再び四足に戻った。そのまま老人の傍らへと歩いていき、敷物の端で丸くなる。老人がカップを手に取り、茶をすすった。



「……おれがここに来ることも、御存じだったようだ」



 おれが問うと、老人は悪戯っぽく笑って言った。



「大賢者も長くやっていると、大抵の因果は把握できるようになるサ」


「……異世界からの転移者が現れることも?」


「それもまた、世界の意思であればナ」



 老人は茶をすすり、猫を撫でながら言った。おれはカップを置いたまま、老人に向かい、さらに問いかける。



「……ジャヴィドがこの世界を破壊しようとすることも、ですか」



 ディン老人の手が止まった。おれは言葉を継ぐ。



「古代竜・クァルーズィオから聞きました。あの神器アーティファクトの真の姿……奴はそれを手に入れた。そうなることも……あなたは、知っていたとでも?」


「……知ることと、行動することは違う。因果とは、そう単純なことではないのだ」



 老人はカップを置き、おれの目を見て口を開く。



「あの男がここを訪れた時……この世界はあの男の力を必要としていた。ジャヴィドもまた、それに応えた……そしてジャヴィドは魔王を倒し、世界は救われた」


「……しかしその結果、彼は絶望し、狂気に走った……それもまた因果のうちだというのですか?」



 おれの反駁に、老人は一瞬、悲しげな目を見せて答える。



「……ここを訪れたとき、彼は悲しそうな目をしていたヨ。まだ魔王と対峙する前だったが……わしはその時、運命を悟った。どうすることもできぬ定めだった……彼もまた、それを知っていたのかも知れン」


「だとすれば」



 おれは思わず語気を強めた。猫がびくっと反応する。



「ひとりの男の運命を犠牲に、この世界は救われたとでも……それも、異世界人の運命を!」


「それは少し違う。人というのは、より大きな世界の輪の一部に過ぎん」



 ディン老人はその細い目を閉じた。



「……元の世界でジャヴィドがどんな暮らしをしていたのかまでは、わしも知らヌ……だが、彼がこの世界に来て、人々と触れ合い、自らの行動する意味を見つけていったのは事実」



 おれは老人の話を黙って聞いていた。老人は話を続ける。



「この世界で苦しむ人々のために、そして自分のために、ジャヴィドは戦い、そして勝ち……」


「……そして、魔王を倒しても、世界から苦しみは消えなかった……」



 人々は怯えて暮らし、より強い者が弱い者を暴力で抑えつける。亜人デミ・ヒューマンたちは差別され搾取され、そして――エルフの血を引くウィルマ姫は、人知れず涙を流し――



「……あなたの言うとおり、運命の因果というのは単純なものではない。魔王を倒したくらいでなにかが変わるわけじゃない……だから」



 おれは目を閉じたままの老人に向かい、言葉を紡ぐ。



「……だからジャヴィドは、この世界を運命の因果から解き放とうとしている。世界そのものを創りかえるのが奴の目的。そのための神器アーティファクト……」



 ディン老人はその眼を見開いた。おれは老人に問いかける。



「大賢者よ……教えてください。ジャヴィドがなにをしようとしているのか。アズミファルの小手の真の力とは……そして」



 大賢者は泰然とその言葉を受け止める。おれは口の中を湿らせて、問う。



「……『無限の真球』とは、なにか……」


「……わかった」



 ディン老人はそう言って――立ち上がった。



「構えなさい、空手家君」


「……!」



 大賢者の身体から溢れる、殺気――!



「老人と茶飲み話をしに来たわけでもないだろう、空手家よ……この身を以て、そなたの運命を導こう」



 そう言って、老人はその両腕を胸の前で交差させた。ゆっくりと息を吸い、そして、吐く――あれはまさか、「息吹いぶき」――?


 ディン老人の全身に気が巡る――その姿は、先ほどまでの小柄な老人のものではない! 突然その身体が巨大になったかのような錯覚を、おれは覚えた。



「……魔法を使役するための詠唱……その極意とはつまり『呼吸』。世界に生きる大地、森、川や湖、炎……そこから取り込んだ魔素マナを、力ある言葉として繰り出す。それが魔術の技」



 ディン老人はその腕に力を込め――



「……ぬうううん!!」



 裂帛の気合と共に、ディン老人の上半身が膨れ上がり、服が破れて弾け飛ぶ!! そしてその下から現れる、鋼のように鍛え上げられた筋肉――!



「……なればこそ、魔術師としての力はその肉体に宿る! 強力な魔術に耐えられる肉体こそ、すなわち魔術の威力! わざは力の中にあり!!」



 ディン老人が、その肉体を躍らせる! おれは立ち上がりざま、その場を跳び退さった――!



「はあぁぁぁッ!!」


 ――ドゴオォォッッ!!



 おれが跳んだ一瞬後、おれたちの座っていた岩が、ディン老人の拳の一撃で、砕かれた――!!


 これが、大賢者の力――!!!!



「……ジャヴィドはその裏技チートスキルによって、魔法の力をほとんど無制限に繰り出す。このわし程度、力でねじ伏せられねば、太刀打ちはできぬヨ……」


 

 老人がその拳を振り、飛び散った岩の欠片を払う。


 大賢者ディン・ローディン――その鋼の肉体が、おれの前に立ちはだかった。

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