七話 真相

 津崎 翔は完全な思考停止に陥っていた。無理もない。今まさに命の危機に晒されていた男を救ったばかりであるというのに、その男を一緒に助けた女が今度は刺殺という暴挙に出たのだから。雨上がり後の温く湿った風が頬を打つ中、とにかく距離をとるべくズルズルと後ずさる。とんっ、と転落防止策が行く手を阻んだ。


「案ずるな、貴様に危害を加える気などなければ、私にはその理由もない」

「ぁ……」


 その行動を咎めるかのような低く発された音に、翔の身体がビクリと跳ねる。和の声はやけにはっきりとしていたが、そうは言われても殺人犯を目の前にして、信用出来るわけがない。ガタガタと震える身体よりももっと激しく首を横に振るのが精一杯だった。


「なんだ、気にならないというのか?まぁ、答えを望まないというのならそれも一興だとは思うが貴様が抱える疑惑は何一つ解決していないだろう?」

「じ、自分は……」


 人を刺したとは思えないほどの柔らかな笑みを湛えて、和は翔に問う。それでも誘導されるまま搾り出された音の後に、知ってるんか?と続くことはない。ただ、小刻みに揺れる瞳はその甘言に興味を示していた。ふと、緩んだ表情に口角が上がる。

 そう、和の言う通り何一つ解決していないのだ。殺人の動機以外にも、写真の届け主から面識のない兄の方が接触してきた理由まで。分かるのは今を作り出している何もかもが、異常過ぎているということだけ。それを知る権利が、貴様にはあると和は告げた。但し、総てを知ったところで何も変わりはしないのだが。


「始まりは一つの約束だった。弟の櫂が死を遂げた後、兄の幸は文字通り土河 櫂として生きることを選択した。一卵性双子、というだけあってかその処理は難しくなかったようだが肉親が納得出来るはずがない。そこで、一つの条件が出された。完璧に土河 櫂に成り切るということだ」


 言葉に詰まった沈黙を肯定ととらえたのか、和は経緯いきさつから流暢に語り出した。それは暗に計画殺人を示唆していたけれども、呆けたままでいる翔が異議を唱えることなどない。和は抱きとめた幸を抱え直すと、再度口を開いた。


「しかし、ソレは条件でも何でもないものだ。何故なら双子はドイツと日本、離れたところで生活をしていたから周囲が相違を知るわけがない。幸を愛する私でさえ、幸のことは分かっても会ったことのない櫂のことは分からない。なので、どちらも幸として受け入れる覚悟をしていたがソレを黙認出来ないある事情を知ることになった」

「…………」


 やはり、言葉にさえならなかったけれど翔の視線がチラリと和の方に向いた。目は口ほどに物を言う、といわんばかりに。思わせぶりな和の口調が、翔の興味を更に少しずつ引き立てていた。もはや一方的な演説に近い講釈は、まだ続く。


「それは、弟の櫂がこの場から飛び降りる前に母親を殺害していたということだ。勿論、虐待に耐えかねて、という動機である以上、同情の余地はあるが罪は罪。保護観察処分にはなったが、何れにしろそれは幸が背負うべきものではない。故、早急に櫂として生きることを諦めさせる必要が出た。時を同じくして知ったのが、本物の櫂を知る貴様の存在だ」

「ほな、あの手紙は……」

「ご明察、私が届けさせた。既に頭の片隅にすら残っていない可能性もなくはなかったが、虐待を受けた同士だと気付いている可能性に賭けた。あの写真ならばインパクトは抜群だし、何故あぁなったのか同志ならば察しもつくだろうと。そうして私は貴様と幸が接触できる舞台を用意して待つことにした」

「なっ、そないなこと……」


 どうやら再生ボタンが押されたらしい翔の思考は、漸く和が示唆しようとしていることを急速に理解し始めていた。目の前で起こされた殺人が計画されていたということだけでなく、数ヶ月前のあの再会すら裏で糸を引かれていたものであったということを。和は、忍笑いを漏らした。


「まぁ、少々無理はしたがな。貴様の引越しは母親の虐待を知った父親が異動、いやを受けることで引き起こされたもの。だから貴様の明陽学園への転校を条件に、昇進に繋がる異動を与えた。幸が櫂を知る人物に会いたいと言ってくれたことも、貴様が学校……というより殆どの事柄に関心を持てないでいることも少なからず私に味方した。以上が事のあらましだ」

「事は運びやすかった、っちゅーことかいな。ってちょい待ちや、まだ全部とちゃうんとちゃうか?」

「ほぅ、さすがに気がついたか」


 完全に思考力を取り戻したのか、翔は訝しげに目を細めて和を睨みつける。和は愉しげに微笑むと、スマホでとあるメール画面を開き翔のところへ濡れたコンクリート上を滑らせ渡す。和から目を離す事なくスマホを手に取り、視線だけで画面を見やった翔の顔がさっと青褪めた。画面から震える顔が恐々とあがる。


「な、んやねん……これ」

「もし土河 櫂に成りきれなかったら、土河 幸として私のところへ戻ってくる。それが、私とアレとの約束だった。だからアレが櫂に成りきれないと悟ったときそのメールを寄越してきたというわけだ」

「まさか……それが動機、なんか?」

「またまたご明察。そう、私はそれほどまでに幸を欲し、幸もまた私のその望みを承服してくれた。だからこそ私は、弟とも共に居たいという幸の気持ちを汲み二人の時を同時に止める選択をした」

「……狂っとる」

「無論、一般的な認許されないことくらい理解している。法律を犯しているということも、愛という言葉の一言で片付けられないことも。けれど私には誰も傷つかない方法など、思いつけはしなかった。何より、アレも同調してくれた。一蓮托生というわけだ。誰が何と言おうと、私達はずっと共にいられれば良いのだから……どのような形であれ、な」


 ぐったりと、身体の全てを預ける男を和は愛おしそうに見つめた。粘着性の液体は、濡れに濡れた着衣では吸い取られることもなく重力に引かれ落ちていく。翔はもう一度スマホの画面を見つめた。


『ワガママを聞いてくれてありがとう。僕は幸せ者だね。だから、君も幸せにしてあげられるよ。取り得る手段は少ないけれど、最高の形で君と共にいることが出来れば……と思う。


Alles Liebe愛を込めて


 それは感謝の言葉にみえて、女が取るだろう行動が分かっていたかのような、まるで遺書か何かのような活字が羅列されていた。和は満足気に微笑むと、ポケットから何の変哲のない小瓶を取り出し一気に呷る。止める暇など皆無だった。


「い、まの……」

「無粋なことは聞かないでほしいな……さて、ずっと濡れたままでいると風邪を引いてしまうぞ。貴様は貴様が正しいと思う行動をするといい」


 これで本当に全てを口にした、とばかりにハエでも追い払うかのように和は手をヒラヒラさせる。弾かれたように、翔は慌ただしく屋上を後にした。

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