六話 久遠
雨が降っている。土砂降りだった。いつから居るのだろうか、身にまとった制服は既にぐっしょりと濡れている。それでも櫂は、その場で雨に打たれていた。蒼眼を、どんよりとした雲が流れていく。暫くして、ガチャリとドアが開いた。
「はぁはぁっ……ほんまにっ、おるとかっ、はぁはぁ……ありえへんやろっ」
切れ切れになりながらも、発された音はどうにか言葉になる。膝に片手をついて、乱れた息を整えようと試みながら顔に張り付いた、しっとり濡れた髪かきあげた。
「翔なら分かると思ったよ。大切な場所だもんね、ココは」
かつて通っていた小学校の屋上で、迎え入れるように両手が軽く広げられる。けれど、演技臭いその動作にかぶせられたその声音と、張り付けられただけの様な微笑はひどく乾いてた。突き刺さるような緊張感が漂う。
「せや。少なくても俺にとって大事な場所で、ここで過ごした時間はかけがえのないもんや。やけど、その相手は……ほんまに自分、なんか?」
「その質問に答える前に、どうしてそう思うに至ったのか教えてほしいな」
すっとぼけたように、わざとらしく首が傾げられる。流れ落ちる雫が、雨となる。櫂の笑みは崩れない。翔は表情を歪めた。
「俺自身まだ、半信半疑や。やって、自分が櫂やちゅー証拠がなければこの写真の人が櫂やないっちゅー証拠もない」
「僕達が双子だから?でも、僕が櫂だと言ってる以上、この写真の人物は片割れだってことになるよね?どうしてそんなに疑うことがあるの?」
例の写真を取り出し、翔は手裏剣のようにして飛ばす。微動だせず、二本の指だけで挟むように受け取った櫂は、訝しげに眉を寄せた。
「なんちゅーか、自分には違和感があんねん。身体の傷痕のことだけやなくて。でも、人は変わるさかい……」
「なるほど、確かに人は変わるね。にしても、
「……言葉に出来へんかったんや。俺自身、聞かれとうないことやから」
笑顔のままにもかかわらず、どこか責めるような物言いに翔は視線を落とした。次の瞬間、まぁ誰にでも言いたくないことの一つや二つあるよねと呟く櫂の声音がふと軽くなる。
「さて、君からの質問の答えだけど、今ここにいる僕は土河 櫂だよ。少し前まで、土河
「何、言うて……」
「つまり、君が感じた違和感は正しかったってこと。その写真の人物は、元土河 櫂だよ。君が知っている、ね」
「…………」
あっさりと告げられたそれは、まるで他人事のような口ぶりだった。翔の顔が反射的に上がる。意味が分からないとばかりに、その瞳に驚愕と懐疑の色が帯びる。
「僕ね、日本とドイツの二重国籍なんだ。だから、虐待の日常から抜け出した君を追うように弟がここから飛び降りた日、僕は自分の日本名を捨てて弟として生きることを選んだ」
「なっ、自分、何して……っ!?」
二の句が告げないでいる翔に、櫂は力なく笑うとひょいっと、転落防止柵を乗り越えた。その行動に狼狽して駆け寄ろうとするも、鋭い制止が飛ぶ。足が竦んだ。
「だけど、やっぱ僕は僕以外になれやしなかった……当たり前だよね、外見が似てるからって中身まで似せれるわけがない。それでなくてもずっと一緒にいなかったんだから」
「そないなこと……俺かて確信あったわけやないし、傷のことが無かったら気ぃさえつかんかったと思うで」
「はは、ありがと。君にそう言ってもらえるなら、君に会うことにして良かったよ」
「それより、はよ戻って来ぃ」
いつのまにか雨も上がり、雲の隙間から射した陽がゆるりと笑った顔を照らす。止まっていた時が動き始めたかのように、場の緊張が解けた。一歩ずつ近づくその足元で、水が跳ねる。
「そうだね。ふふ、驚かせてごめ…………えっ?」
声が中途半端に途切れて、ふわりと柵の内側に戻ろうとしていた櫂の身体が宙に浮いた。刹那、互いに伸ばされた手と手が力強く合わさる。
「ほらみぃ、言わんこっちゃないっ!!」
間一髪、間に合った。深刻な状況に変わりないのに、一瞬のうちに張り詰め直した緊張が、再度若干緩む。濡れそぼった手だけに、つるっと滑ってしまいそうになるのを必死で堪えさせて。
「ほぅ、なかなか想定外の事態になっているな」
そんな緊迫した空気の中に、ソレを全く感じさせない声が発された。音も気配もなく現れた和は、ドアにもたれかかった優雅にその様を眺めている。
「悠長なこと言うてらんと早よ手ぇ貸してぇな」
「……ハイル、態とじゃないだろうな?」
「
「分かっているのならイイ」
顔すら殆ど見えない櫂からの返答に満足したように頷くと、和は早足で二人のところまで行った。柵を掴んでいた櫂の手首をしっかりと掴む。櫂がそっと柵から手を離すと、タイミングを合わせて水を吸って重くなった櫂はどうにか引き上げられた。
「自分ら、ほんまそっくりやで……有り得へんくらいに」
「もしかして、弟も迷惑かけた?」
「今の方が数倍、
濡れたコンクリートの上に、脱力したように大きく息を吐いて大の字で寝転がる翔に、櫂はバツの悪そうな笑みを向ける。二人の間に存在していた蟠りは、この時確かに霧散した。
「そういえばこの写真、どうしたの?」
「
「……っ!?」
けれど、それも束の間。突如、和によって振われた刃が、目にも留まらぬ速さで櫂の喉元を掻っ切る。翔の視界が、赤に染まった。
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