四話 傷痕
『櫂、それ、どうしたの?』
『あぁ、昨日ちょっと転んじゃって』
『え…………』
『ごめんね、見苦しいもの見せて』
翔は、微睡みの中にいた。再生されるのは、やはり遠い記憶。チラリと見えた青痣を慌てて隠して曖昧に笑う櫂の姿が、鮮明に映る。
『どうしてお前はそうなのよっ』
『ごめんなさい、ごめんなさい』
それは、心の奥底に封印したはずの嫌なものまで呼び起こした。ただ繰り返し謝罪を口にするしか出来ずにいる、幼い頃の己の姿を。
「悔やんでも、悔やみきれへんよなぁ…」
だからこそ翔は、見覚えのある、転んだだけで出来るはずのない傷の原因を、聞き出せなかった。徐々に意識が浮上する感覚に身を任せれば、再生されていた嫌な映像は遠くなっていく。翔は徐に立ち上がると、スウェットを脱ぎ捨て鏡の前に立った。
「ほんま、見苦しいわ」
茶褐色や黒色の斑点が散らばる上半身は、痛々しい。夢に見たのと、同じ痕。五年も経って尚、消える事のなどない。忌々しい身体の記憶を隠すように、翔は半袖シャツのボタンを全部止め、その上にサマーカーディガンを羽織った。
「……おはようさん」
教室に入ると翔は平静を保つように、視線を一点に定めたまま己の席へ進んだ。半袖のシャツの一番上のボタンを外して座っている櫂に、なるべくいつも通りに声をかける。
「おはよう。何、この暑いのに長袖?」
「おん、半袖って落ちつかんねん」
櫂の方は、いつも通りだった。柔らかな笑みと、何を考えているのか分からない軽い音を返してくる。翔はといえば、夢の中の彼と同じように曖昧に誤魔化すことしか出来なかった。
「えーー体育どうすんのさ?」
「調子悪いから保健室行ったて言うといてや」
「ふふ。じゃあ、コレ、持っていきなよ」
「ははっ、懐かしいやん。おおきに、借りてくわ」
櫂が、深く追求してくることはない。それに安堵して翔は、悪戯な表情で差し出されたモノを受け取るとズボンのポケットにしまう。意図せずか、右の口角が俄かに上がっていた。
「うーん……」
それから翔は、体育でなくてもよくフケるようになった。まるでトイレにでも行くように、さり気なく教室を出て行く。同じクラスの隣席なのに、二人が顔を合わせることが少し減った。櫂もまた、サボっているからだ。
校内の隅にある集積場まで来て、空を見上げる。吐き出した息と共に漏れた、ちょっとミスったかなぁという独り言は誰に聞かれる事もなく消えた。櫂は少し躊躇った後、スマホの通話ボタンを押す。
「
「……
相手は、すぐに応答した。無機質な響きに苦笑して告げながら櫂は、ポケットにしまっていた封筒を取り出した。
「
「……
相手の声音に、最後まで何の感情も籠ることなく電話は切れる。櫂は封筒を開けた。入っていた写真は、美しい赤と白のコントラスト。
「
勢いよく二つに引き裂く。元の形が分からなくなるまでどんどん破いていって、紙吹雪でも撒くようにゴミの山に混ぜていった。跡形も無くなるなると、手にしたままのスマホでメールを立ち上げ、画面を見ることなく、慣れた手つきでタップしていく。
「今度も、僕から逢いに行くね」
送信完了と表示された画面にうっとりとした表情が映る。櫂は置き台詞のように小さく呟くと、教室に戻り荷物をまとめて学校を出ていった。
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